第9話 水路(後)
体育館に入って、まず驚いたのは人の多さだった。
入口から見える範囲だけでも、すでに大勢の生徒が集まっている。ステージの前には人だかりができていて、後ろの方にも立ったまま話している連中がいた。
普段は体育の授業や全校集会で使っている場所なのに、今日はずいぶん様子が違う。窓には暗幕が引かれ、ステージには照明が取り付けられている。スピーカーからは大音量の音楽が流れ、何だか別の場所に来たみたいだった。
思ったより本格的だな。
僕は体育館の後ろの方へ移動した。この辺りにいる連中も、僕と同じで、何となく来ただけなのだろう。そう勝手に決めつけて、その中に混じることにする。
一方、前の方にいるのは、いわゆる陽キャグループばかりらしい。すでに何人かが手を振ったり、名前を呼び合ったりしている。友人でもステージに立つのだろうか。ずいぶん楽しそうである。
そのうち、スピーカーから流れていた音楽が小さくなった。
「えー、皆さん! お待たせしましたー!」
ステージに目を向けると、実行委員らしい男女二人が立っていた。どちらも妙にテンションが高い。まあ、そういう奴らだから実行委員なんてやっているのだろう。
「文化祭、お疲れさまでしたー!」
「お疲れさまー!」
前の方から元気のいい返事が上がる。
「皆さん、今日は楽しめましたかー!」
客席から歓声が上がった。
「まだまだ元気ありますかー!」
どうやら、まだまだ元気は有り余っているらしい。僕なんて、もう結構疲れているんだが。
「それでは、最後まで思いっきり盛り上がっていきましょう!」
「後夜祭、スタートです!」
大きな拍手と歓声が上がった。どうするか一瞬迷ったが、僕もとりあえず、胸の前で小さく拍手をしておく。
最初の出し物は、吹奏楽部の演奏だった。
一曲目は、有名なJ-POPだった。夜がどうとか歌っている連中の曲だ。僕も好きで、たまに聞いている。
それにしても、こうして生の楽器で聞くと、ずいぶん印象が違うものだ。ドラムの音が腹に響く。トランペットの音が体育館いっぱいに広がって、思っていた以上に迫力がある。
普段は練習の音がうるさいと思っていたけど、こうして聞くとなかなかすごいものだ。
続いて二曲目。今度は、聞き覚えがあるような、ないような、妙なメロディーだった。
しばらく聞いて、ようやく気づく。
……これ、校歌か?
どうやら校歌をポップス風にアレンジしたらしい。いつもは眠くなるような曲なのに、ずいぶん陽気なことになっている。途中から手拍子まで始まった。
そもそも、校歌なんて入学式以来まともに歌った記憶がない。それがこんなに盛り上がるとは。
演奏が終わると、体育館に大きな拍手が響いた。僕もさっきより少し大きく手を叩いた。
続いて登場したのは、ダンス部の生徒たちだった。十人ほどの男女が、アップテンポな音楽に合わせて踊り始める。
僕にダンスの良し悪しなんて分からないが、全員の動きがぴったり揃っていて、なかなか格好いい。
最後に全員でポーズを決めると、体育館は大きな拍手に包まれた。
続いては、ミスコンとミスターコンが始まった。
「それでは皆さん、お待ちかね! 今年のミス・ミスターを決めていきたいと思いまーす!」
会場が一段と騒がしくなる。
最初に登場したのは、ミスターコンの候補者たちだった。一人ずつステージの中央へ出てくるたびに、客席から名前を呼ぶ声が上がる。
僕には誰が誰だか分からないが、イケメンというより、お調子者がふざけて出場しているような印象だった。
続いて、ミスコンの候補者たちが登場した。こちらはなかなか華やかである。特に二年生の女子が登場したときには、近くにいた男子たちが妙に盛り上がっていた。
そういえば、水尾さんは出ないのだろうか。
あの女が出場したら、結果なんて最初から決まっているような気がする。名誉の殿堂入りということで、出禁にでもなっているのだろうか。
いや、別に僕が水尾さんを褒めているわけではない。あくまで客観的な話だ。見た目だけなら、あいつが飛び抜けているのは事実なのだから。顔もいいし、背も高いし、胸もでかいし。
結局、優勝したのは三年生の男女だった。名前を呼ばれた二人がステージの中央に並び、花束を受け取る。
しばらくすると、司会の一人が何やら意味ありげな顔をして、マイクを握る。
「さて、ここで皆さんに、ちょっとしたサプライズがあります!」
サプライズ?
「なんと今日は、先生方にも特別に出演していただきまーす!」
会場のあちこちから歓声と笑い声が上がった。ステージに現れたのは、見覚えのある教師たちだった。しかも、全員お揃いの派手なTシャツを着ている。
何をやっているんだ、あの人たちは。
先頭に立っているのは、普段からやたら厳しいことで有名な数学教師だった。今日はなぜかサングラスまでかけている。
音楽が始まった。教師たちが一斉に踊り出す。
……下手だ。びっくりするくらい下手だった。
全員同じ振り付けのはずなのだが、ところどころで誰かが間違える。つられて笑い出す教師までいて、ますます動きがずれていく。特に数学教師がひどい。どう見ても一人だけ半拍ほど遅れている。
客席は大爆笑だった。僕も思わず笑ってしまった。
いや、これはずるいだろう。普段あんなに怖い先生が、真顔でこんなことをやっているのだから。
曲が終わると、数学教師は息を切らしながら深々と頭を下げた。そして、なぜかもう一人の教師がマイクを握る。
「えー、続きまして、一曲歌わせていただきます」
まだやるのか。
流れてきたのは、少し古い恋愛ソングだった。教師はやたら気持ちよさそうに歌っている。歌唱力については、何とも言えない。
途中からほかの教師まで参加し始め、最後にはほとんどカラオケ大会のようになっていた。
先生たちもご苦労なことだ。こうやって親近感を持たせなくてはいけないのだから。
いや、案外本人たちが一番楽しんでいるのかもしれないが。
そのあとは、三年生を中心とした有志の出し物が続いた。
流行りのダンスを踊る男子たちに、妙に凝った衣装の女子たち。そして、なぜか刑事ドラマのような寸劇を始める一団。
途中で振り付けを忘れる奴もいれば、僕にはさっぱり分からない内輪ネタもあった。それでも客席は盛り上がっていて、特に前の方では、三年生らしい生徒たちがしきりに名前を呼んでいた。
そして気がつけば、後夜祭が始まってからずいぶん時間が経っていた。
最初は体育館の後ろの方で適当に眺めているつもりだったのに、思っていた以上に退屈しなかった。もちろん、全部が面白かったわけではない。途中で少し眠くなるような出し物もあった。それでも、帰ろうとは思わなかった。
……去年も来てみればよかったかな。
やがて、ステージの照明が少し暗くなった。
「それでは皆さん、ここで文化祭を振り返ってみましょう!」
司会の声とともに、ステージの奥にある大きなスクリーンが明るくなる。どうやら、今日の様子をまとめた動画が流れるらしい。
軽快な音楽に合わせて、校門の映像が映し出された。文化祭の看板。色とりどりの飾り付け。開場を待つ生徒たち。
続いて、各クラスの出し物が次々と紹介されていく。お化け屋敷では、驚いた客が悲鳴を上げていた。カジノコーナーでは、教師がトランプを片手に、妙に格好つけたポーズを決めていた。模擬店の前では、エプロン姿の生徒たちがカメラに向かって手を振っていた。
よく一日でこんなに撮ったものだ。しかも、もう編集まで終わっている。実行委員もなかなか大変そうである。
しばらくすると、見覚えのある教室が画面に映った。
二年三組のメイド&執事カフェだ。メイド服姿の女子たちが、カメラに向かって笑顔で手を振っている。その後ろには、執事服を着た田野の姿もあった。なぜかお盆を胸に当て、直立不動で敬礼している。
あいつ、カメラが回っていてもあの調子なのか。
客席のどこかから、二年三組の連中らしい歓声が上がった。
画面が切り替わる。今度は、校庭で撮影された映像だった。青空の下、たくさんの人が行き交っている。屋台の前にできた行列。友達同士で写真を撮る生徒たち。小さな子供に手を振る、雑なコスプレをした奴。
昼間に僕が歩いた場所も、いくつか映っていた。
動画はその後も続いた。部活動の展示や、体育館での発表。校舎のあちこちで撮影された生徒たちの笑顔。
最後には、夕方の校門が映し出された。空が少し赤くなっている。
画面の中央に、『文化祭、お疲れさまでした!』という文字が現れた。
音楽が終わる。体育館に大きな拍手が響いた。僕も手を叩いた。
スクリーンの映像が消え、ステージが再び暗くなった。
しばらくすると、司会の二人が再び姿を現した。
「いやー、皆さん! 本日は本当にお疲れさまでした!」
「文化祭、楽しんでいただけましたかー!」
客席から元気のいい返事が上がる。
「ありがとうございます! それでは皆さん、気をつけてお帰りくださーい!」
ずいぶんわざとらしい締め方だった。客席からも「えー!」という声が上がる。もちろん、本気で終わると思っている奴はほとんどいないのだろう。
「……あれ? 皆さん、どうしました?」
「まだ何か見たいんですかー?」
その茶番に付き合うように皆が声を上げる。
「仕方ないですねえ。それじゃあ、最後にもう一つだけ!」
「皆さん、まだまだ盛り上がる準備はできていますかー!」
その呼びかけに、客席が一斉に沸いた。
その間にも、ステージの奥では何人かの生徒が慌ただしく動き回っていた。ドラムセットやアンプが運び込まれ、どうやらバンド演奏の準備をしているらしい。
「それでは! 後夜祭の最後を飾る、スペシャルライブです!」
「どうぞー!」
司会の二人がステージの袖へ引っ込むと、入れ替わるように数人の生徒が姿を現した。
先頭に立っていたのは、やっぱり水尾さんだった。
その姿が見えた途端、客席からひときわ大きな歓声が上がった。
「おむすびさーん!」
「かわいいー!」
あちこちから彼女の名前を呼ぶ声が聞こえる。中には立ち上がって手を振っている奴までいた。
というか、先輩まで「おむすびさん」呼びなのかよ。どんだけ偉いんだ、あの女は。
その水尾さんは歓声に応えるように片手を上げると、そのままステージの中央へ歩いていく。メイド服のまま出てくるのかと思っていたが、いつもの制服に着替えたらしい。肩にはギターを掛けていた。
ほかのメンバーも、それぞれの持ち場についていく。
なんだかみんな、僕と同じような冴えない顔をしている。どうせアニメに影響されて楽器を始めたクチだろう。まあ、実際に行動に移しただけ僕よりは偉いが。
ステージの照明が明るくなり、中央に立つ水尾さんの姿がはっきりと見えた。
こうして見ると、なかなか様になっている。もっとも、あの女は何をやらせても様になるのだろう。顔がいいというのは、それだけで得なものだ。
水尾さんはマイクの前でギターの位置を軽く直すと、客席を見渡した。
そして、マイクに顔を近づける。
「どうもー! バンド名募集中 with おむすびー! でーす!」
水尾さんが頭上で両手を大きく振ると、客席から盛大な歓声が返ってきた。
「実はワタシ、もともと出る予定なかったんだけど、せっかくの文化祭だし、誰よりも目立ちたくなっちゃって!」
客席からクスリと笑い声が漏れる。
「で、バンド組んでる先輩たちに無理言って、混ぜてもらいましたー!」
水尾さんは隣に立つ先輩に手を向ける。
「ちなみに、もともとボーカルをやる予定だったのは、この先輩! 今日はワタシにマイクを譲って、リードギターを担当してくれてまーす! 先輩に大きな拍手ー!」
客席から温かい拍手が上がった。紹介された先輩は、少し照れくさそうに手を振っている。
「ありがとー! 先輩たちの最後の文化祭、ワタシが絶対最高の思い出にしてみせるから!」
……何様だよ、あの女は。
先輩たちが今まで積み重ねてきたものを、たった二か月で横からかっさらっておいて、よくもまあそんなことが言えるものだ。しかも、当の先輩たちは嬉しそうに笑っている。
「というわけで、みんなー! 文化祭、楽しかったー!?」
客席から一斉に歓声が返ってきた。
「そっか! でも、まだ終わりじゃないよ? 今日だけじゃなくて、みんなの人生で一番の思い出にしてあげるから!」
大きな歓声が上がった。たかが高校の文化祭である。人生で一番の思い出だなんて、いくら何でも大げさすぎるだろう。
「ふふふ。ねえみんな、この文化祭の主役って誰だと思う?」
水尾さんは客席を見渡しながら、わざとらしく人差し指を立てる。
「生徒一人一人? それとも、卒業する先輩たち?」
客席のあちこちから「みんなー!」「全員ー!」と声が上がる。そりゃそうだろう。
「ふふっ、ざんねーん! 正解は、ワ・タ・シ! 水尾掬でーす!」
右手を横に大きく払いながら、満面の笑みを浮かべる。
客席がどっと沸いた。笑い声に混じって、彼女の名前を呼ぶ声まで聞こえてくる。
ドラムの先輩がスティックを持ち直した。ベースの先輩も楽器を構え、ギターの先輩が軽く弦を鳴らす。
「だから、誰一人逃がさない! 後ろの方で腕組んでる人も、もう帰っちゃった人も! みんな、みんな!」
水尾さんがこちらの方を指差した。
思わず周囲を見回す。確かに、近くには腕を組んでステージを眺めている男子が何人かいた。
僕も、ずっと腕を組んでいた。
いや、別に僕のことを言っているわけじゃないだろう。そもそも、こんな後ろからでは顔も見えないはずだ。それに、もう帰った人間をどうやって逃がさないつもりなのだ。追いかけて連れ戻すのか。
「まとめてワタシの伝説の証人になってもらうから!」
片手を高く掲げた。歓声がまた一段と大きくなる。
今度は伝説ときた。ギターを始めて二か月の高校生が、いったい何の伝説を残すというのだろう。
前の方ではすでに両手を上げている奴もいる。後ろにいた生徒まで、いつの間にかステージの方へ身を乗り出していた。
何がそんなに楽しいんだか。
水尾さんがマイクに顔を近づける。ドラムの先輩がスティックを振り上げた。
「世界の中心は、今っ!」
その声に重なるように、ドラムが鳴った。
続けざまにギターとベースが加わる。
「ここだーっ!!」
そして、体育館いっぱいに音が響き渡った。
……うるさ。
いや、いきなりずいぶんと派手な演奏だな。
ステージの端では、リードギターを担当する先輩が身体を揺らしながら弦をかき鳴らしている。さっき水尾さんに紹介されていた、もともとボーカルを務めるはずだった人だ。
目まぐるしく動く指先から、次々と鋭い音が飛び出してくる。その後ろではドラムが激しくリズムを刻み、ベースの低音が演奏に厚みを加えている。
体育館の床まで、かすかに震えているような気がした。
前の方から歓声が上がる。
それにつられるように、後ろにいる生徒たちも身を乗り出す。
僕の前に立っていた男子が、隣の友人と何かを話している。音が大きすぎて何を言っているのかは聞き取れないが、どうやら二人とも曲を知っているらしい。
まあ、僕も知っているのだが。
いや、聞き覚えがあるなんてものじゃない。
僕らが生まれる前に放送された、有名なアニメの挿入歌だ。作中の文化祭で演奏された曲で、僕もそのライブシーンだけは知っている。
なるほど。文化祭でこの曲をやるというのは、なかなか気の利いた選曲じゃないか。
たぶん、あの冴えない顔の先輩方の趣味なんだろう。水尾さんも知っていたのかもしれない。
しかし、驚いたのは演奏の方だ。
正直、もっと素人くさいものを想像していた。文化祭のバンドなんて、多少音を外しても、知り合いが盛り上げてくれるものだと思っていたのだ。
ところが、目の前の演奏はずいぶん様になっている。
ギターの先輩は、ステージの端で楽しそうに身体を揺らしている。ときおり隣のベースの先輩と顔を見合わせ、笑いながら演奏を続けている。
ステージの照明が動き、天井近くの壁を照らす。誰かが振り上げた腕が視界を横切り、僕は少し首を伸ばした。
そのときだった。
ギターの先輩が鮮やかにイントロを弾き切った。
ステージの中央でギターを抱えた水尾さんが、ゆっくりとマイクに顔を寄せる。
さっきまで客席に向かって大口を叩いていた彼女が、いつの間にか笑うのをやめていた。
少し伏せられた目。何かを思い出しているような、静かな表情。
まるで、今までとは別人だった。
……何だ、あの顔は。
水尾さんが右手のピックを力強く振り下ろす。
そして、歌声が響いた。
思わず、息を呑んだ。
体育館を埋め尽くしていた激しい演奏の中から、彼女の声がまっすぐ飛び出してきた。
腹の底から響くような、力強い歌声だ。
動画で歌っているところなら、何度か見たことがある。歌がうまいことだって、もちろん知っていた。
けれど、目の前で聴く生の歌声は、どうも勝手が違う。
楽器の音に負けるどころか、その真ん中を突き抜けて、こちらへ届いてくる。足元から響く低音も、耳を打つドラムも、すべて彼女の歌声を引き立てているように感じられた。
水尾さんはギターをかき鳴らしながら、マイクに向かって歌っている。ときおり身体を揺らし、隣の先輩と目を合わせて楽しそうに笑う。
まるで、最初からずっとこのバンドのボーカルだったみたいだ。
たった二か月しか練習していないはずなのに、少しも遠慮している様子がない。
先輩たちの演奏に合わせているというより、あの強力なサウンドをバックに従えて歌っているようにさえ見えた。
何様だよ、まったく。
いつしか客席からは、曲に合わせた手拍子が起こっていた。
前の方では何人もの生徒が腕を振り上げている。ステージの照明がその手を照らし、壁にいくつもの影を躍らせた。
水尾さんが声を張り上げるたび、客席の熱気も増していく。
知っているメロディーが流れると、僕もつい頭の中でその続きを追ってしまう。
ああ、そうだ。この曲、こんなふうに盛り上がるんだったな。
気がつけば、僕の足も小さくリズムを刻んでいた。
まあ、知っている曲なのだから、仕方がない。
やがて歌が途切れ、ギターの音がひときわ大きく響いた。
ギターの先輩がステージの前方へ出る。
今度はその人が主役だった。
水尾さんはコードを刻みながら少し身を引き、先輩の方へ顎をしゃくった。まるで、こっちも見ろと言わんばかりに。
その合図に応えるように、客席から歓声が上がった。
先輩は弾きながら笑っている。
あれだけ勝手なことを言っていた女に、最後の文化祭を乗っ取られているというのに。
いや、違うのか。少なくとも、あの人たちはそうは思っていないらしい。
なんだか、ずいぶんと楽しそうじゃないか。
僕は腕を組み直し、もう一度ステージを見上げた。
ギターの先輩が最後のフレーズを弾き終え、水尾さんが再びマイクに向かって歌い始める。
そこから先は、あっという間だった。
最後の音が鳴り終わると同時に、体育館が割れんばかりの拍手に包まれる。
水尾さんは満足そうに笑い、客席に向かって大きく手を振った。
「ふっふー、みんなー! ワタシの世界一綺麗な歌声、堪能してくれたー!?」
歓声が返ってくる。
「ふふっ、まだ一曲目だよ? もうそんなに盛り上がっちゃって、最後まで体力もつのー!?」
客席から笑い声と、さらに大きな歓声が上がった。
水尾さんは振り返って先輩たちと目を合わせた。
ドラムの先輩がスティックを打ち鳴らす。
そして、二曲目が始まった。
イントロで分かった。知っている曲だ。
今度も大ヒットしたバンドアニメの曲だった。
作中でも文化祭で披露された曲で、放送当時はずいぶん話題になった。僕ももちろん見ていたし、曲だって何度も聴いている。
なるほど。今度はこれか。ずいぶん分かりやすい選曲だな。
それにしても、どうしてこうも文化祭シーンの曲ばかり選ぶのだろう。
あのオタク先輩たちの趣味に違いない。そういうの、やめろよな。もっと有名なJ-POPとかやるだろ、普通。
今度の曲は、さっきとは少し雰囲気が違った。どこか切なさのあるメロディーに、力強い演奏が重なる。
水尾さんが歌い始めると、客席からまた歓声が上がった。
僕は腕を組んだまま、その様子を眺めていた。
しかし、本当にうまいな。
いや、歌がうまいことくらい知っている。知っているのだが、何度も聴いたはずの曲なのに、今日は妙に耳に残る。
歌声を聴いていると、自然と次のメロディーが頭に浮かんでくる。
……そうだ。この曲、好きなんだよな。
放送が終わってからも、何度か聴き返した覚えがある。
これを聴いて人生が変わったとか、特別な思い入れがあるというほどではない。ただ少し、僕もギターをやろうかなと思って、頭の中でやめただけだ。
でも、好きな曲だ。
そこは別に、否定する必要もないだろう。
前の方では、生徒たちが曲に合わせて身体を揺らし始めていた。その動きが、波のように少しずつ後ろまで広がってくる。
僕の隣にいた男子も、いつの間にか手拍子を始めていた。
近いな。腕がぶつかりそうじゃないか。
そう思って少し身体をずらしたとき、自分も同じようにリズムを刻んでいることに気づいた。
いつからだ?
まあ、知っている曲なのだから、身体が勝手に反応するのも仕方がない。
それにしても、みんなよくもまあ、無条件に盛り上がれるものだ。
この曲の文脈を知っている生徒が、そんなに多いとは思えない。どうせ大半は、ステージで歌う水尾さんのビジュアルに当てられて騒いでいるだけだろう。
曲なんて、本当は何だっていいんじゃないか?
ムタクどもめ。水尾さんに一番嫌われるタイプだぞ、そういうの。
その水尾さんが、歌いながらギターのネックをぐっと持ち上げ、客席を煽った。
前の方から、いくつもの腕が一斉に上がる。
僕の隣の男子も、感極まったように右手を突き上げていた。
おいおい。そんなに楽しいか?
いや、曲がいいのは認める。僕だって好きだし、演奏だって思った以上に仕上がっている。
でも、君はこの曲が何のアニメの、どんな場面で流れる曲なのか、ちゃんと知っているのか?
知らないだろうな。たぶん。
知らないくせに、よくもまあ、あんなに楽しそうにできるものだ。
いや、知っていたら知っていたで、別に腹が立つんだけどさ。
ステージでは、水尾さんが実に楽しそうに歌っている。その隣で、ギターの先輩も満足そうに笑っている。
あの人たちは、世界の中心は自分たちだと信じて音楽を鳴らしているのだろう。
客席の連中は、その熱狂にただ身を任せている。
なんだか、無性に気に食わない。
いや、だから、何がそんなに気に食わないんだ?
水尾さんたちは、好きな曲を演奏している。
客席の連中は、それを聴いて騒いでいる。
それだけのことじゃないか。
僕だって、この曲は好きだ。だったら、僕も一緒になって楽しめばいい。
いや、何で僕が?
別に、あいつらの仲間になりたいわけじゃない。
それに、今さら手を上げたりしたら、さっきまで腕を組んでいたのは何だったんだという話になる。
誰もそんなこと気にしていないだろうけど。
……そうだ。
誰も、僕のことなんて見ていない。
水尾さんは楽しそうに歌っている。先輩たちは夢中で演奏している。客席の連中も、それぞれ勝手に盛り上がっている。
僕が何を考えていようと、誰も気にしない。
だったら、僕だって勝手に楽しめばいいじゃないか。
……なのに。
どうして、できないんだろう。ネットでは、あんなに簡単なのに。
誰かが面白いと言えば、僕も面白いと言う。誰かが感動したと言えば、僕も泣いたと書き込む。誰かが苦言を呈すれば、僕も一緒に批判する。可愛い女の子の画像が流れてくれば、みんなと一緒になって騒ぐ。
でも実際には、そこまで面白いとも、感動したとも思っていないことがほとんどだ。
それでも、画面の向こうではいくらでも盛り上がったふりができる。
なのに、目の前で本当に好きな曲が演奏されているというのに、僕は腕を組んで突っ立っている。
なんなんだ。
別に、手を上げたっていい。
隣の暗そうな男子だってやっている。僕が同じことをしたって、誰も文句なんか言わないはずだ。
でも、あいつらと同じように手を上げれば、僕も楽しくなるのか?
……いや。違う。
楽しくないわけじゃない。さっきから、ずっと。
曲に合わせて身体が動く。次のメロディーが聞こえてくるのを待っている。水尾さんが歌うたび、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
僕は別に、こんなつもりじゃなかった。
文化祭の後夜祭なんて、適当に眺めて帰るだけのつもりだったのに。
客席の連中が騒いでいるのも、気に食わない。
水尾さんが楽しそうに歌っているのも、気に食わない。
それなのに、曲が終わってしまうのは、何だか惜しい。
ああ、もう。考えるのはやめだ。
そもそも、水尾さんの歌がうますぎるのが悪い。
あんなにうまく歌われたら、こっちだって嫌でも聴き入ってしまうじゃないか。
それに、選曲だってそうだ。よりにもよって、僕の知っているアニソンを二曲も続けて演奏するなんて。
ズルいだろ、そんなの。
普通に知らない曲でもやってくれれば、こんな気分にならずに済んだのに。
……くそ。
気がつけば、二曲目が終わった。
客席から大きな拍手が起こる。
僕も何となく手を叩いた。
水尾さんがマイクに顔を近づける。
「ふぉおおおっ!! 気持っちいいっ!!」
何とも品のない奇声が、スピーカーから響き渡った。
「みんなあ! 楽しんでるう!?」
割れんばかりの歓声が返ってくる。
「ワタシもおっ!! 超っ! 楽しいいっ!!」
……楽しそうで何よりだ。
「でもっ! 残念だけどお! 次で最後っ!!」
もう、最後なのか。
「最後はっ! ワタシのオリジナル曲っ!」
客席がどよめいた。
「といってもぉっ! 曲はプロに作らせたあっ! 作詞はワタシっ!」
そこは隠さないんだな。
水尾さんは得意げに笑うと、後ろの先輩たちを振り返る。
先輩たちも笑っていた。
「……さて!」
マイクに向き直った彼女の声が、ふっと澄んだものに変わる。
「これが、本当に最後! 文化祭も! ステージも! もうすぐ全部終わっちゃう!」
客席から惜しむような声が上がる。
「でもね! ワタシ、今、最高に楽しいの! だから! 最後まで楽しくなきゃ、気が済まない!」
水尾さんは後ろの先輩たちを指さした。
「ワタシたちは最高! このバンドも! 今日の文化祭だって! だったら! 最後の一曲! とことんやってやろうじゃんっ!」
歓声が上がった。
「まだまだいけるよねえっ!? 最後の最後まで! 全部出し切ろうっ!!」
客席の熱気が、一段と高まる。
水尾さんはギターのネックを高く掲げた。
「ワタシたちがっ!! ここに生きてたってことをっ!!」
「この地にっ!! この時代にっ!!」
「刻み込めええっ!!」
客席が爆発した。
その歓声を切り裂くように、ドラムが激しく打ち鳴らされた。間髪入れず、ギターとベースが加わる。
速い。さっきまでの二曲より、ずっと。
ギターの先輩が、鋭い音を次々と繰り出している。水尾さんも勢いよくコードをかき鳴らし、マイクに向かって歌い始めた。
声が、まっすぐに飛んでくる。相変わらず、うまい。
いや、もうそれは分かったから。さっきから何度も思っている。今さら驚くことでもない。
ない、はずなのだが。
何だろう、この曲。妙に、いいな。
歌詞も、全部聞き取れているわけじゃない。それなのに、次の音が気になる。どんなふうに続くのだろう。サビはどうなるのだろう。水尾さんは、どんな声で歌うのだろう。
気がつけば、そんなことを考えていた。
おかしいな。さっきまでは、知っている曲だから楽しめたのだと思っていた。好きなアニメの曲だから。何度も聴いたことがあるから。だから身体が勝手に反応したのだと。
でも、これは知らない曲だ。誰の感想も読んでいない。どこが盛り上がるところなのかも知らない。
それなのに、いい曲じゃないか。
僕は少しだけ、腕に込めていた力を緩める。
客席では、また誰かが歓声を上げていた。さっきなら、きっと腹が立っていただろう。何も知らないくせに騒ぎやがって、と。
いや、今だって別に好きじゃない。こういう、何も考えずに盛り上がっている連中は。それなのに、どうしてだろう。さっきほど気にならない。
水尾さんが歌う。その隣で、ギターの先輩が笑っている。ベースの先輩も、ドラムの先輩も、夢中で演奏している。
……ああ。この人たちは、本当に楽しいんだろうな。
別に、誰かにやれと言われたわけでもないだろう。自分たちがやりたくて、ここで演奏している。
……いいよな。
そんなふうに思ってしまった。
いったい、何が?
別に、僕はバンドをやりたいわけじゃない。ギターだって、少し興味を持っただけだ。結局、買いもしなかった。それを今さら後悔しているわけじゃない。そもそも、本気でやりたいと思ったことすらないのだから。
じゃあ、何が。
僕は、もう一度ステージを見上げた。水尾さんが笑っていた。実に、楽しそうに。
ああ。そうか。
僕には、ああいうものがないんだ。
音楽じゃない。ギターでも、歌でもない。何かを好きだと、何のためらいもなく言えるようなもの。自分がやりたいからやるのだと、当たり前のように思えるようなもの。
僕には、そういうものが何もない。
いや、そんなことは知っていた。水尾さんにムタクだなんて呼ばれる、もっと前から。
だから、嫌だったんだ。あの人に、あんなふうに言われるのが。
何もない。何にも夢中になれない。何者でもない。
そんなこと、他人に言われなくたって分かっている。ただ、認めたくなかっただけだ。
だから、オタクを名乗った。
アニメが好きで、ゲームが好きで、可愛い女の子が好きで。普通の連中とは違うんだと気取って、そのくせ、誰かと同じことを言っていないと不安で。
オタクという名前さえあれば、少なくとも僕にも何かがあるような気がした。
……アミちゃん。
ふと、その名前が浮かんだ。僕の推し。僕の、何だ?
可愛いとは思う。それは本当だ。あの衣装も、髪型も、表情も。アクリルスタンドを買ったときだって、別に嫌々買ったわけじゃない。欲しいと思ったから買った。そこに嘘はない。
でも、僕はアミちゃんのことを、本当にそんなにも好きだったのか。
人生を捧げるだの、愛しているだの。そんなことを言うほど、好きだったんだろうか。
たぶん、違う。
可愛い女の子を見て、可愛いと思った。ただ、それだけのことだったんじゃないか。
それを、まるで自分の人生にとって特別な何かであるかのように言い立てて。他の連中が騒いでいるから、僕も騒いで。みんなが泣いたと言えば、僕も泣いたと言って。みんなが愛していると言えば、僕も本気で愛していると言って。
何をやっていたんだろうな、僕は。
別に、誰かに強制されたわけじゃない。そうしなければ仲間外れにされるわけでもなかった。
ただ、そういう人間でいたかった。何かを好きで、何かに夢中になっている人間。何もない自分ではなく、何かを持っている自分。
たとえ、ふりだけでも。
いや、そんなの別に珍しいことでも何でもないじゃないか。僕みたいな奴なんて、いくらでもいるだろう。
僕は、みんなと同じことをしていただけだ。
そうだ。別に、僕だけじゃない。
……なのに。
どうして、こんなに悔しいんだろう。
いつの間にか、曲は二番に入っていた。水尾さんの歌声の合間を縫うように、ギターが短いフレーズを奏でている。客席では、あちこちから手拍子が聞こえていた。
誰も、僕のことなんて見ていない。僕が何もない人間だろうと、誰も困らない。
明日になれば、またいつもどおり学校に行って、授業を受けて、家に帰るのだろう。何となく一日が終わる。
別に、不幸なわけじゃない。何かを奪われたわけでもない。
何もなかった。ただ、それだけ。
それだけなのに、何でだよ。
僕は唇を噛んだ。水尾さんが、楽しそうに歌っていた。
あの人は、僕がいなくても何も困らない。田野も、久我も、宮田も、きっとそうだ。みんな、勝手に自分の好きなことをやっている。僕がどう思うかなんて、関係ない。
それが、どうしようもなく羨ましかった。
いや、羨ましいなんて、そんなこと思いたくない。
だって、僕だって好きなように生きてきたはずじゃないか。誰にも命令されず、誰にも邪魔されず。自分で選んで、ここまで来たはずじゃないか。
……本当に?
僕は、何を選んだ?
何かを好きになることも。何かを始めることも。誰かに話しかけることも。いつだって、後回しにしてきただけじゃないか。
それで、何もないところに残って。それを自分で選んだことにして。
ああ、もう。やめてくれよ。
僕は、こんなことを考えに来たんじゃない。ただ、文化祭の後夜祭を見に来ただけだ。たまたま水尾さんが歌っていたから、聴いていただけだ。それだけのことじゃないか。
なのに、どうしてこんなに胸が高鳴るんだ。
間奏が終わり、水尾さんが再び歌い始めた。さっきよりも高く、力強い声だった。ドラムが勢いを増し、ギターの音もいっそう激しくなる。
さっきまで聴いていたはずのメロディーが、今はまるで違って聞こえた。
……いいな。
また、思ってしまった。
いい曲だ。本当に。すごく、いい曲だ。
誰が作ったとか、そんなことはどうでもいい。何のアニメの曲でもない。誰が褒めていたわけでもない。
今、初めて聴いた。
それなのに、僕はこの曲が好きだ。
くそ。
何なんだよ。どうして、よりにもよって、水尾さんの歌なんかで。
僕は顔を伏せた。目の奥が熱かった。
……あれ。
頬に、何かが伝った。慌てて目元を拭った。
濡れていた。
は?
何で泣いているんだ、僕は。
別に、感動なんかしていない。歌詞に自分の人生を重ねたわけでもない。誰かに救われたわけでもない。
なのに、涙が止まらなかった。
悔しかった。ただ、悔しかった。
あの人たちが楽しそうなのが。客席の連中が、当たり前のように騒いでいるのが。僕が、そんな連中を馬鹿にしていたことが。
そして、そんな僕が、今、どうしようもなく楽しいことが。
僕はこんなに惨めなのに。こんなに情けないのに。
どうして、音楽なんか聴いて喜んでいるんだ。どうして、次の音が待ち遠しいんだ。どうして、終わってほしくないんだ。
ああ、くそったれ。
僕は、たぶん変われない。
明日になれば、またいつもどおりスマホを眺めているのだろう。誰かが好きだと言ったものを好きだと言って、誰かが怒っていることに一緒になって怒って。
そうやって、これからも他人の感情を借りながら生きていくのだろう。
……でも。
じゃあ、これは何なんだ。この、胸の奥が焼けるような感じは。
どうしようもなく悔しくて、腹が立って、それなのに、嬉しくて。涙が止まらないのに、もっと聴いていたくて。
誰かが、この曲を褒めていたわけじゃない。誰かに、泣けと言われたわけでもない。僕は、今、初めてこの曲を聴いた。
それなのに。
たぶん、これは――
僕は、涙を拭った。それでも、ステージから目を離せなかった。
水尾さんが歌っている。先輩たちが演奏している。客席が歓声を上げる。
誰も、僕の涙になんか気づかない。
それでいい。別に、気づいてほしくなんかない。
ただ、もう少しだけ。この曲を聴いていたかった。
最後のサビが始まった。
水尾さんがマイクに向かって身を乗り出す。ギターの先輩が、その隣で大きく身体を揺らした。ドラムが激しく鳴り、客席からも一斉に歓声が上がる。
歌声も、演奏も、手拍子も。何もかもが一つになって、体育館を満たしていた。
何も考えられなかった。いや、考えたくなかった。
今、何かを考えたら、この気持ちまで嘘になってしまうような気がした。
水尾さんが最後の一節を歌い上げる。
それに応えるように、ギターとドラムが一斉に鳴った。
最後の音が、体育館いっぱいに響き渡る。
一瞬の静寂。
次の瞬間、客席が爆発した。
拍手。歓声。誰かが水尾さんの名前を叫んでいる。
僕は、立ち尽くしていた。頬はまだ濡れていた。胸の奥が、ひどく熱かった。
何か言いたかった。何でもよかった。何か、言わなければいけない気がした。
すごかった。よかった。最高だった。
……違う。
いや、別にそれでもよかったのかもしれない。でも、何かが足りなかった。
水尾さんは、ステージの上で笑っていた。
……ああ、くそ。
僕は、息を吸った。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からない。
ただ、声が出た。
「ありがとう!」
自分でも驚くほど、大きな声だった。




