【第9話】 残された約束と偽りの温もり
暗殺組織と影魔将軍ヴァルナの刺客を退けた翌日。王都は何事もなかったかのように平穏な朝を迎えていた。
ルーク子爵の毒殺未遂劇は「貴族の自滅」として処理され、暗殺組織の全滅は「魔物の残党による内紛」として片付けられた。私が一言も発さずとも、人間たちは勝手に都合の良い解釈を作り上げ、納得してくれる。
私は王城の回廊を歩いていた。
そろそろこの王都を再び発ち、魔王軍の残党が蠢く東部領域へ向かうべきかと考えていた時だ。
「――レオン」
背後から、まっすぐな声が掛けられた。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の女性
騎士だった。
身に纏っているのは王宮聖騎士団の銀装束。金色の髪を後ろで束ね、涼やかな凛とした佇まいを見せている。
(……クラリス・エヴァンス)
レオンの記憶が即座に検索される。
彼女は王宮聖騎士団の副団長であり、レオンと同じ孤児院で育った幼馴染。そして、レオンが魔王討伐の旅に出る際、最後まで彼の無事を祈り続けた女性だった。
「クラリスか。……久しぶりだな」
私はレオンの柔らかい笑みを浮かべ、いつも通りの声で答えた。
彼女は私へ数歩近づくと、溢れ出そうになる涙を必死に堪えるように唇を噛みしめ、それから意を決したように私を強く抱きしめてきた。
「……よかった……! 本当に……無事でよかった……っ!」
鎧越しに伝わる、激しい鼓動と体温。
彼女の指先が、私の背中の甲冑を縋るように強
く掴んでいた。
王城の奥深くにある、静かな空中庭園。
咲き誇る白バラに囲まれたベンチで、私とクラリスは並んで腰掛けていた。
「皆が言っていたわ。あなたが魔王を倒し、四魔将のヴォルガスすら一人で打ち破ったって。……まるで御伽話の英雄ね」
クラリスは手元の紅茶を愛おしそうに見つめながら、どこか寂しげに微笑んだ。
「でもね……私、ずっと怖かったの。あなたが遠いところへ行ってしまうんじゃないかって。魔王を倒したあと、二度と帰ってこないんじゃないかって……」
「私は帰ってきたよ、クラリス。こうして君の前にいる」
私はレオンの完璧な演技で、彼女の細い手に自分の手を重ねた。
その瞬間。
クラリスの手が、ぴくりと跳ねた。
彼女は重ねられた自分の手を見つめ、それから
ゆっくりと首を上げ、私の瞳を直視した。
「……レオン」
「どうした?」
「あなたの手……こんなに冷たかったかしら?」
静かな問いだった。だが、そこには王国の貴族
たちが見抜けない、真実を突く鋭利な気配が含まれていた。
「……長旅で疲れているのかもしれんな」
「それにね、言い方や仕草は昔のままなのに……何かが違うの」
クラリスは悲しそうな目を私に向けた。
「昔のあなたはね、剣を握る時にいつも少しだけ右手の人差し指を痛がる癖があったわ。幼い頃に鍛冶屋のゴルドさんのところで手伝いをして、火傷を負ったから……。でも、今のあなたの手には、その傷跡も、庇うような仕草も一切ない」
「……」
それに……昔のあなたは、もっと『怖がり』だった」
クラリスは視線を空へと向け、過去を愛おしむように語り始めた。
「魔王討伐に向かう前夜、あなたはここで私に言ったわ。『怖い』って。仲間を死なせるのが怖い、自分が世界を救えるはずがない、本当は今すぐ逃げ出したいって……ボロボロ泣きながら、私の膝で震えていたわ」
レオンの記憶の奥底に眠っていた断片が、私の中で鮮明に再生される。
そうだ。勇者レオンという男は、最初から完璧な超人などではなかった。
恐れ、迷い、己の無力さに打ちひしがれながら、それでも「世界を守らなければならない」という重圧に押し潰されそうになりながら剣を握り続けた――ただの不器用な人間だったのだ。
だが、彼は魔王城の謁見の間で、私の前に立ち塞がった時も膝を折らなかった。
恐怖で全身を震わせながら、血を吐きながら、最期まで私を睨みつけて言ったのだ。
『世界は……お前なんかに……敗けない』と。
私があっけなく殺した「勇者」の命の裏には、これほど泥臭く、切ない葛藤の歴史が存在していた。
「いまのあなたからは……その『怖がりなレオン』が、綺麗さっぱり消えている」
クラリスは瞳に涙を溜めながら、まっすぐに私を見た。
「今のあなたは……まるで、何も恐れるものが存在しない『神様』か……あるいは、すべてを冷たく見下ろしている『悪魔』みたいに見えるの」
言葉が、静寂の中に落ちた。
私は反論しなかった。レオンのフリをして「気のせいだ」と笑い飛ばすこともできた。だが、このまっすぐな人間の女性に対して、その安易な嘘をつくことが、なぜか少しだけ憚られた。
「……人は、過酷な戦いを経れば変わるものさ。クラリス」
私が静かに答えると、彼女はポロポロと大粒の涙をこぼした。
「そうね……そうよね。魔王城での戦いが、どれほど凄惨だったか……私なんかに分かるはずもないわよね。ゴメンナサイ、変なことを言って……」
クラリスはポケットから、古びた一通の手紙を取り出した。
封蝋で固く閉ざされた、小さな羊皮紙だ。
「これ……あなたが旅立つ前に、私に預けていった手紙よ」
「……手紙?」
「ええ。『もし僕が死んだら、この手紙を破り捨ててくれ。それでも僕が魔王を倒して、本物の平和が訪れたら……その時は僕の代わりに、この手紙を故郷の丘に埋めてほしい』って」
クラリスはその手紙を、私の手の中にそっと包み込ませた。
「中身は私にも分からないわ。でも……あなたが無事に帰ってきたんだもの。この手紙は、あなたが受け取るべきよ」
手紙の表面には、不器用な文字で『遺す言葉』と書かれていた。
それは、本物のレオンが「死を覚悟した時」に遺した、彼自身の魂の結片だった。
彼を殺した元凶であるこの私が、その遺書を手に握りしめている。
胸の奥底で、かつて感じたことのない激しい痛痒が走った。
罪悪感か。嘲笑か。それとも、己の手で踏みにじった「人間」という存在への、狂おしいほどの敬意か。
(……阿呆め)
私は心の中で、死んだレオンに向かって呟いた。
(こんなものを残して逝きおって。お前が命をかけて守ろうとした世界は、政治で腐り、身内で毒を盛り合い、魔物の残党に怯える愚者の群れだぞ)
だが――その愚かな世界の中に、こうして涙を流し、お前の無事を祈り続ける者が確実に存在していた。
「……クラリス」
私は手紙を大切に懐へと収めると、レオンの身体を動かして、目の前の女性を優しく抱きよせた。
「え……? レオン……?」
「すまなかった。……寂しい思いをさせたな」
私の腕の中で、クラリスの身体が小さく震える。
「私は変わったのかもしれない。恐怖を捨て、迷いを捨て……多くの仲間を失った。だが……君や、この世界を守りたいという想いだけは、何一つ変わっていない」
レオンの記憶にあった、彼の幼少期の思い出。二人で走った野原。交わした約束。それらを脳内で完璧に再構築し、私の声(レオンの声)に乗せて紡ぎ出す。
「ただいま、クラリス」
その一言に、クラリスは感情を爆発させるよう
に声を上げて泣き出した。
「う……うあぁぁんっ! おかえり……おかえりなさい、レオン……っ!」
彼女は私の胸に顔を埋め、子供のように泣き続けた。
彼女の抱いていた「違和感」は、完璧な愛の言葉と懐かしい思い出の提示によって、見事に上書きされ、消し去られた。
私は彼女の髪を優しく撫でながら、空を見上げた。
完璧な偽装だ。誰も私を疑えない。
私は完璧な「勇者レオン」として、この世界に君臨し続けることができる。
だが、私の懐には、本物のレオンが遺した手紙が重たく鎮座していた。
(見届けてやるさ、レオン)
私は冷たく、だが確かな決意を込めて心の中で誓った。
お前が死んでまで守りたかったこの世界を。
お前を愛したこの女の未来を。
魔王であるこの私が、勇者の皮を被ったまま、誰よりも完璧に守り抜いてやる。
偽りの英雄と、本物の勇者の残影。
二つの魂が交錯する中で、魔王の「贖罪と巡礼の旅」は、さらなる深みへと進んでいくのだった。




