【第8話】 忍び寄る影と黒き密約
数日後、ルーク子爵が自身の屋敷で激痛にのたうち回り、昏睡状態に陥ったという報せが王宮内に駆け巡っていた。
症状は深刻な魔力不全と全器官の麻痺。子爵の専属医たちは「原因不明の奇病」と発表したが、暗殺毒『竜の吐息』の自爆であることは、仕掛けた子爵本人と私だけが知る事実だった。
「子爵が倒れた……? 勇者殿に毒を盛ろうとした直後にか?」
「まさか、勇者殿が気づいて返り討ちに……いや、証拠は何もないぞ」
「もしや子爵の背後にいる反対派勢力を潰すため、王家が裏で動いたのでは……」
廊下を歩けば、貴族や侍従たちのヒソヒソ話が嫌でも耳に入ってくる。
彼らは互いに不信感を募らせ、互いの影を恐れて自滅に向かっていた。
(……愚かなことだ)
私はレオンの涼やかな顔で、すれ違う侍女たちに穏やかな笑みを向けた。侍女たちは頬を赤らめて胸を躍らせる。
毒を盛られた当事者である私は、何食わぬ顔で病床の子爵に見舞い品を送って見せた。「一日も早いご快復を」という温かな添え状と共に。
それにより、世間の評判は「毒殺未遂の噂すら包み込む聖人」としてさらに跳ね上がり、子爵派の貴族たちは罪悪感と恐怖で二ののつまりとなった。
手を汚さず、刃も交えず、ただ人間の醜悪な自滅を鑑賞する。
魔王城で力任せに首を跳ね飛ばしていた頃には味わえなかった、極上の暇つぶしだった。
だが――王都の闇に蠢く毒は、人間たちの陰謀だけではなかった。
その夜、王都の最底辺と呼ばれる貧民街の廃洋館。
月光すら届かない地下の密室に、数人の男たちが集まっていた。
王国の反王家派貴族から金で雇われた暗殺組織『黒の蜘蛛』の幹合たちだ。そして、その中央で揺らめいていたのは、黒い泥のような「影」だった。
『……人間どもよ。条件は整ったか?』
影から滲み出る不気味な声に、暗殺組織の首領は生唾を飲み込んだ。
「あ、ああ……。勇者レオンの明日の夜の行動日程は手に入れた。王都外縁の孤児院へ見舞いに行く、その際護衛は一切連れないそうだ。……だが、本当にあの化物を殺せるのか? ヴォルガス将軍を一撃で切り伏せた男だぞ」
『案ずるな』
影魔将軍ヴァルナの思念が、冷たく嘲笑う。
『あやつがどれほど強大であろうと、所詮は肉体を持つ身。我ら四魔将の秘術「影縫いの針」と、貴様らの用意した極致の呪毒を合わせれば、その動きを一秒は止められる』
昨夜、使い魔を一瞬で消し飛ばされたヴァルナは、冷静に分析していた。
レオンが放ったあの圧倒的な魔王の威圧。ヴァルナはそれを、「勇者レオンが魔王城の奥で魔王の遺物(あるいは呪い)を取り込み、人の身でありながら悪魔の力を手に入れた」のだと誤認していた。
『魔王様の威光を模倣する不遜な害虫め……。我が影の網でその皮を剥ぎ取り、真実を暴いてくれる……』
ヴァルナの目的はレオンの暗殺だけではない。
「なぜヴォルガスが死に際に満足して消えたのか」「なぜレオンから魔王様の気配がするのか」という狂おしいほどの疑問の答えを得ることだった。
人間の欲望と、魔族の執念。
二つの闇が結託し、勇者レオンを陥れる完璧な罠が完成しつつあった。
翌日の夜。
満月の夜空の下、私は予告通り一人で王都外縁
の森を歩いていた。
孤児院への訪問を終え、王都へ戻る道中だ。
ポシェットの中には、孤児院の子供たちから貰った手作りのどんぐりの首飾りが収まっている。子供たちの屈託のない笑顔と、それを取り巻く平和な空気。
それを打ち破るように、周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。
「――かかったな、勇者レオン!」
疾風と共に、空間の影から飛び出してきたのは数十人の黒装束の暗殺者たちだった。
彼らの手には、空間を麻痺させる魔導具と、あ
らゆる生体を腐らせる怪異の毒塗りの刃が握られている。
同時に、私の足元の影が生き物のように跳ね上がり、両手両足を硬固な黒い鎖となって縛り上げた。
四魔将ヴァルナの直伝――『影鎖縛陣』。
「ハハハ! 捉えたぞ! 動きを封じれば、どれほどの剣技も意味をなさん!」
暗殺者の首領が勝ち誇った声を上げ、毒刃を私の首元へと突き出してきた。
私は動かなかった。縛られたまま、静かに彼らを見つめた。
「暗殺者か。……引き受ける前に、雇い主の素性を調べるべきだったな」
「何……?」
「お前たちが信じているその『影』は、人間を救うつもりも、金を与えるつもりもないぞ」
私がそう呟いた瞬間、足元の影からヴァルナの本体に繋がる巨大な影の巨腕が立ち昇り、暗殺者の首領の胴体を容赦なく握り潰した。
「ガハッ……!? な、なにを……っ!?」
「用済みだ、人間ども」
ヴァルナの声が響き渡る。
「貴様らは単なる餌。我が影を勇者の懐へ潜り込ませるための、捨て駒に過ぎん」
悲鳴と絶叫が森に伝播する。
暗殺者たちは、自分たちが協力していた「影」によって一瞬で全滅させられ、血の海と化していった。
人間が人間を裏切り、魔族がその人間を利用し
て切り捨てる。
地獄絵図のような惨劇が、私の目の前で繰り広げられた。
血の匂いが漂う静寂の中、影の巨腕が私を見下ろした。
『久しいな……あるいは、初めましてと言うべきか? 勇者レオン』
影の中から、細身で漆黒の外套を纏った男の幻影が現れた。四魔将が一角・影魔将軍ヴァルナ。
『ほう……影鎖に縛られながら、その余裕。やはり貴様、ただの人間ではないな。ヴォルガスをどうやって騙した? なぜ貴様から……我が絶対の主、魔王様の気配がする!?』
ヴァルナの影の手先が、私の喉元へ爪を突きつける。
私は縛られたまま、レオンの碧色の瞳でヴァルナを見つめ返し、ふっと息を漏らした。
「ヴォルガスは騙されてなどいないよ、ヴァル
ナ」
『何……?』
「あいつは最後まで忠義の士だった。己の主の
言葉を信じ、己の主の手に倒れることを誇りとして消えて行ったのだ」
『戯言を! 魔王様は討たれたのだ! 貴様という不快な勇者の手によって――』
「――いい加減に気づいたらどうだ、不肖の部下よ」
私はため息とともに、全身の「偽装」をほんの僅かだけ解除した。
瞬時。
私を縛り上げていた『影鎖縛陣』が、ガラスのように砕け散った。
それだけではない。
森全体の空間が漆黒の魔力で塗り潰され、月光すら遮断された。
絶対的な重圧。生きていることすら許されない
ような、圧倒的な高次元の存在感。
「な……っ……!? か……体が……動か……
っ!?」
ヴァルナの影の幻影が、地面に叩きつけられたようにひれ伏した。
影の巨腕は霧散し、ヴァルナの本体(遥か遠方にいる実体)からの接続が、恐怖のあまりブツブツと途切れ始める。
私が一歩、踏み出す。
金髪の勇者の姿のまま、だがその瞳には「深淵の赤」が宿っていた。
「ま……まさ……か……。そんな……馬鹿な……っ!? あなた様が……なぜ……なぜ勇者の……っ!?」
ヴァルナの精神が、あまりの衝撃に崩壊しかけていた。
憎むべき宿敵・勇者レオンの皮の下にいたのは、自分が生涯を捧げた絶対の主・魔王その人だったのだから。
私はひれ伏すヴァルナの影を見下ろし、レオンの声に魔王の威圧を乗せて囁いた。
「言ったはずだ。魔王城でお前たちが追う魔王など、もうどこにも存在しない、と」
『あ……あぁ……魔王様……! なぜ……なぜこのようなことを!? 我らを捨て、下等な人間どもの仲間となり……ヴォルガスを殺し……何をお考えなのですか!?』
ヴァルナの影が、血の涙を流すように激しく揺れる。
私は懐から、いくつもの品を取り出した。
お守り、ロザリオ、手記、誓いの鍔。
そして、今夜孤児院で貰ったどんぐりの首飾り。
それらを月光にかざしながら、私は冷たく微笑んだ。
「お前たち魔族が与えた破壊と絶望。その中で人間どもが紡ぐ、愚かで、美しく、吐き気のするような『祈り』……。それを特等席で鑑賞しているのだよ」
『鑑賞……? そのために……我らを……世界を戯れに弄んでおられるのですか……!?』
「そうだ」
私はヴァルナの影の頭を踏みつけた。
「私は魔王だ。理不尽であり、悪夢であり、世界の災厄だ。……私が何のために勇者を演じようと、お前たちに口出しする権利などない」
『ぐ……あぁぁっ……!』
「ヴァルナ。お前もヴォルガスのように私に斬られたいか? それとも、この壮大な喜劇の観客として、最後まで影から震えて見守るか?」
私の問いに、ヴァルナは応えることができなかった。
主への絶対の忠誠と、理解不能な行動への絶望。その二つに挟まれ、彼の精神は恐怖で支配されていた。
「消えろ。次に私の邪魔をすれば、今度はお前ごと消し去る」
私が指を鳴らすと、ヴァルナの影は悲鳴を上げて散逸し、闇の彼方へと逃げ去っていった。
静寂が戻る。
暗殺者たちの屍が転がる森の中で、私は衣服についた埃を払い、聖剣エルシドを鞘に収めた。
聖剣はもはや抵抗の振動すら見せず、ただ恐々として私の腰に収まっている。
「……さて、王都へ帰るとしよう」
ポシェットの中のどんぐりの首飾りに触れる。
人間たちの醜悪な殺意と、純粋な感謝。
魔族の狂信的な忠義と、絶望。
それら全てを糧にしながら、偽りの勇者は今夜も静かに笑うのだった。




