【第7話】 欲望の宴と影の足音
四魔将の一角・赤雷将軍ヴォルガスを破ったという報せは、波紋となって大陸全土を駆け巡った。
「魔王を倒したのみならず、その幹部すらも返り討ちにした」
「勇者レオン様こそ、神の御使いに違いない」
王都グラニアに帰還した私を待っていたのは、宗教的な熱狂すら帯びた人々の歓声だった。
街は連日祭りのような騒ぎであり、教会は私を神格化するための聖典を作り始め、宮殿には毎日のように各国の使者や大貴族たちが押し寄せていた。
「素晴らしい……実に素晴らしいぞ、レオン卿!」
王城の深奥、国王の執務室。
豪奢な椅子に深く腰掛けた老王は、揉み手で頬を緩ませながら私を見ていた。その目にあるのは、最初のときに浮かべていた「救世主への涙」だけではない。
圧倒的な力を持つ存在を、己の陣営に繋ぎ止めておきたいという――人間の生々しい「欲」だった。
「卿の功績はもはや一国の臣下に留まらぬ。つきましては、我が王国の『最高軍司令官』の地位と、公爵の爵位を授けたい。我が娘、第一王女との婚約も進めておる」
「……光栄にございます、陛下」
私は首を垂れ、レオンの謙虚な笑みを貼り付けた。
「ですが、私はただの剣士。政治や軍の指揮など柄ではありません。それに……魔王軍の残党は未だ世界各地に蠢いております。私は現場で戦う身でありたい」
「ほう……どこまでも無欲だな」
老王は満足そうに目を細めたが、その背後に控える第一王子や大貴族たちの視線には、明らかな「警戒」と「嫉妬」が混ざり合っていた。
若く、国民からの絶大な人気を持ち、世界最強の力を持つ男。
権力者たちにとって、私は「最高の看板」であると同時に、「いつ自分たちの首を飛ばすか分からない最悪の爆弾」でもあったのだ。
政治。権力闘争。足の引っ張り合い。
魔王という絶対的な共通の敵が消えた途端、人間どもは早くも内側から腐り始めていた。
その夜、最高級の貴族たちが集う晩餐会が催された。
絢爛豪華な大ホール。着飾った貴族や令嬢たちがグラスを傾け、私を遠巻きに眺めながら囁き交わしている。
「あの力が本物なら、隣国との国境問題も一言で解決するのではないか?」
「いや、王家の血を引かぬ者にあまりの権力を与えるのは危険だ。何かの拍子に裏切られたらどうする」
「……いっそ、我が家系の毒で操り人形にして
しまえば……」
(――丸聞こえだ、愚か者共)
魔王である私の耳には、彼らが密やかに交わす毒を含んだ囁きが、こと細かに届いていた。
泥にまみれながら街を再建していた鍛冶屋の老人。
泣きながらお守りを手渡してきた、幼い少女。
あの者たちの持っていた「純粋な祈り」とは対極にある、醜く淀んだ欲望の泥沼。
人間という種族は実に面白い。
一瞬で命を散らす儚い存在でありながら、これほどまでに美しい光と、反吐が出るほどの闇を同居させている。
「……退屈しのぎの観劇としては、なかなかの品揃えだな」
私が壁際で一人、ワイングラスの赤い液体を揺らしていると、一人の若き貴族が不躾な足取りで近づいてきた。王国屈指の大貴族・ルーク子爵である。
「やあ、英雄殿。お召し上がりいかがかな?」
子爵は親しげな笑みを浮かべ、従者が持つトレーから新しいワイングラスを取り、私に差し出してきた。
「魔王討伐と、ヴォルガス将軍撃破を祝して。……さあ、受け取ってくれたまえ」
グラスが差し出された瞬間、私の鼻腔が微かな「違和感」を捉えた。
無色無臭の暗殺毒――『竜の吐息』。
飲めば数日かけて魔力を急速に劣化させ、最終的には心臓を麻痺させる、貴族特有の陰湿な毒薬だ。私のような魔王の肉体には蚊に刺されたほどの効果すらないが、人間のレオンであれば確実に死に至る代物だった。
「どうしたのかね? 英雄殿。私の酒が飲めないと?」
子爵の瞳に、歪んだ優越感が浮かぶ。
私はそのグラスを受け取り、うっとりと色合いを確かめるフリをした。
「いえ、素晴らしい芳香です。……ですが子爵、これほどの名酒は、分かち合ってこそ意味がある」
「なに……?」
私は素早い手さばきで、子爵が持っていた自分のグラスと、私に手渡されたグラスをすれ違いざまに入れ替えた。
人間には到底追いきれない、音すら立てぬ超高速の偽装。
「さあ、王国の発展に乾杯を」
「あ、あぁ……乾杯」
子爵は何が起きたかも気づかず、自分のものだったはずのグラスを一気に飲み干した。
私もまた子爵のものだったグラスを躊躇なく干した。
「……ふふ、感謝するよ、勇者殿。実にうまい
酒だ」
子爵は満足げに笑い、自陣の貴族たちの元へと戻っていった。
数日後、彼が原因不明の魔力障害で倒れることになるだろうが、私の知ったことではない。
英雄を称えながら、裏では毒を盛る。
これが、私(魔王)が命をかけて守ってやった人間たちの「本性」の一部だった。
宴を途中で抜け出し、私は王城の屋上に登った。
夜風が金髪を揺らす。
眼下には、灯火が煌めく王都の夜景が広がって
いた。
(あの街の片隅には、明日を生きるために必死な民がいる。そしてこの城の中には、権力を貪る豚どもがいる……)
胸の中にあるのは、怒りでも失望でもなかった。ただの冷徹な観察者の視点だ。
聖女エレナが守ろうとした「清らかな世界」も。
大賢者アルバスが憂慮した「魔王なき後の人間の混乱」も。
剣聖ガレスが誇りをかけた「強い人類」も。
すべてがこの街に詰まっている。
「……ふっ、くはは」
を出して笑った。
魔王として世界を滅ぼそうとしていた頃には、決して見えなかった景色だ。
完璧な悪として外側から踏みにじるよりも、偽りの善として内側に混ざり込む方が、人間という生き物の滑稽さが何倍も際立つ。
その時だった。
夜風の音が、ほんのわずかに止んだ。
城壁の影、月光すら届かない暗がりから、糸のように細く、冷たい殺気が私の項へと伸ばされていた。
普通の人間であれば、首が飛ぶ瞬間まで気づかないレベルの、完璧な「気配遮断」。
(……ほう?)
私は振り向かず、視線だけを影へと走らせた。
そこに潜んでいたのは、人間ではない。
魔王城に残してきた、残る四魔将の一角――「影魔将軍ヴァルナ」の放った使い魔(影分身)だった。
影が、人間の声に似た擦れた音で囁いた。
『……ヴォルガスは……消えた……』
『奴は死ぬ直前……歓喜の念を我らに送ってきた……。憎き勇者の前で……なぜだ……?』
使い魔の赤い目が、暗闇の中で妖しく光る。
『勇者レオン……貴様は何者だ……? ヴォルガスに何をした……?』
影魔将軍ヴァルナ。
四魔将の中で最も緻密で、最も冷酷な密偵・暗殺の専門家だ。
ヴォルガスが死に際に漏らした「違和感」を察知し、自らの影を王都へと忍び込ませていたのだ。
私は背中の聖剣エルシドの柄に手を置いた。
レオンの顔のまま、静かに、そして冷ややかに影を見下ろす。
「知りたければ、本体が自ら来ることだな。影の手先など、話す価値もない」
『……フフ……ハハハ……! 威勢がいいな、偽りの英雄……! 良いだろう……我が影の網が……貴様の秘密を暴いてやる……!』
影が揺らぎ、消え去ろうとした。
その瞬間。
私は右手の指先をほんの少しだけ鳴らした。
パチン、という小さな音。
真の魔王の威圧が、一瞬だけ指向性を持って影を貫いた。
『――ガッ……!?』
消えかけていた使い魔の影が、叫び声すら上げ
られずに実体化し、激しい恐怖に打ち震えた。
『な……なんだ……この……圧倒的な……魔力は……!? 馬鹿な……このような気配……魔王様以外に……っ!?』
「消えろ」
冷酷な一言とともに、影は跡形もなく消滅した。
遠く離れた魔王城で、今頃本体のヴァルナが激しい吐血とともに恐怖に慄いていることだろう。
「……さて」
私は夜空を仰ぎ見た。
人間たちの醜い政治工作。
主を失い、疑念を深める魔王軍の幹部たち。
そして、私という存在が消えたことで世界各地で解け始める古代の災厄。
盤面は、想像以上に混迷を極めていた。
だが、私の心はどこまでも澄み渡っていた。
懐のお守りに触れる。
アルドの少女の温もり。
そして、今夜毒を盛ろうとした貴族の冷たさ。
そのすべてを飲み込んで、私は「勇者レオン」として世界を歩み続ける。
「来るといい、ヴァルナ。そして人間どもよ、もっと醜く、もっと美しく足掻くがいい」
偽りの救世主は、闇の中で静かに微笑んだ。
勇者となった魔王の物語は、人間社会の暗部と
魔王軍の影が交錯する、次なる大混乱の章へと突入していく。




