【第4話】 賢者の見た孤独
魔法都市フェルゼンは、空すらも魔法の色彩に染まる街だった。
高聳する塔の群れ、街の頭上を穏やかに回るいくつもの巨大な魔導陣、そして空気を満たす仄かな魔力の残響。ここは世界最高峰の魔導アカデミーを擁し、幾人もの偉大な魔導士を排出してきた学術の都である。
そして――勇者一行の「頭脳」と呼ばれた大賢者アルバスの故郷でもあった。
街の門を潜ると、そこにはすでに大勢の魔導士や市民が集まっていた。
王都やアウグスタでの大騒ぎはすでに伝わっていたらしく、とんがり帽子をかぶった幼い魔導士見習いから、長い髭をたくわえた老学者までが、最敬礼で私を迎えた。
「勇者レオン様! よくぞご無事で……!」
「アルバス先生の、そして皆様の偉業、とこしえに讃えましょう!」
湧き上がる拍手と歓声。
アルバスが魔王城の戦いで放ったあの極大禁呪――それこそが、魔王を滅ぼす決定打となったのだと、この街の者たちは疑いなく信じていた。
「(……決定打、か)」
私は心の中で冷ややかに笑った。
あの大賢者の禁呪は確かに凄まじかった。私の左腕の皮膚を数ミリ焦がし、魔王城の天井を半分吹き飛ばした。だが、それだけだ。私の核に届くには、あと数万倍の出力が必要だった。
しかし、人間たちにとってはそれが「世界を救った光」に見えたのだ。
私はレオンの柔らかい笑みを崩さず、頭を下げながらアカデミーの深部へと向かった。
私の目的は、アルバスが残した研究室――そこにある彼の遺品の手記を引き取ることにあった。
アカデミーの最上階にある大書庫。その奥に、大賢者アルバスの研究室は静かに佇んでいた。
部屋の中は、積み上げられた古書や羊皮紙、妖しく光る実験器具で溢れかえっていた。まるで主が今も席を外しているだけのように、整然とした混沌が保たれている。
「――お越しくださり、ありがとうございます、レオン様」
部屋で待っていたのは、眼鏡をかけた小柄な女性魔導士だった。名をエリス。アルバスの筆頭弟子であり、この研究室の管理を任されている者だ。
「アルバス先生の遺品……旅立たれる直前まで書き残されていた手記です」
エリスは恭しく、一冊の革装丁のノートを私に差し出した。
その手はかすかに震えており、眼鏡の奥の瞳は
赤く腫れていた。
「先生は……最期まで、レオン様や皆様のことを案じておられました。『若き勇者たちに、世界のすべてを背負わせてしまった』と……ご自分の無力を、ずっと悔やんでおられたのです」
「……アルバスは無力などではなかった。彼がいたからこそ、私たちはここまで来られたのだ」
私はレオンの口調で答えた。
「はい……分かっております。先生の放った最後の魔法が、魔王を討ち払ったのだと。ですが……もう一度先生にお会いしたかった。もう一度だけでいいから、先生の講義を聞きたかった……っ」
エリスは溢れ出る涙を堪えるように、ぎゅっと唇をかみしめた。
私は手の中の手記に視線を落とした。
大賢者アルバス。齢六十を超えながら、知的好奇心の化身のような男だった。戦いの最中であっても、私の放つ魔術の構造を観察し、分析しようとしていた変人だ。
「エリス。少し一人にしてくれないか⋯⋯」
「……はい。ごゆっくりお過ごしください、レオン様」
エリスは深く一礼し、静かに部屋を出て行った。
重い木製扉が閉まり、静寂が研究室を満たす。
私はレオンの擬態を少し緩め、息を吐いた。
椅子に深く腰掛け、革装丁の手記を開く。そこには、アルバス特有の細かく几帳面な文字がびっしりと書き込まれていた。
前半は魔王軍の動向や、古代魔導の解析。
だが、物語の終盤――私との決戦が近づくにつれて、記述の内容は異質なものへと変化していた。
『〇月〇日
魔王という存在について、思考を巡らせている。
我々は彼を「悪の源流」「破壊の権化」と呼ぶ。だが、過去の文献を紐解く限り、魔王という個体は世界にただ一人しか存在しえない。そしてその力は、世界の魔力循環そのものを統括する「起点」となっているのではないか?』
私の眉が微かに跳ねた。
『もし魔王がただの破壊者であるなら、なぜこの世界は千年間も滅びずに保たれているのか。
彼は滅ぼせるだけの力を持ちながら、なぜ「急がない」のか。
……私の仮説が正しければ、魔王とは世界を滅ぼす者ではなく、あまりに巨大すぎる己の力と存在に閉じ込められた、世界で最も凄惨な「囚人」なのではないか』
「……くくっ」
乾いた笑いが口から漏れた。
狂っている。老いぼれの戯言だ。
私はただ、退屈だったから生かしておいただけだ。気が向いた時に人間を散らし、気が向いた時に寝ていただけだ。
だが、ページを繰る手は止まらなかった。
『〇月〇日(旅立ち前夜)
明日、我々は魔王を倒すため出発する。
レオンも、エレナも、皆覚悟を決めている。私とて例外ではない。
だが、私にはひとつだけ恐ろしい予感がある。
仮に……仮に我々が魔王を倒したとして、そのあとに残された世界はどうなる?
絶対的な悪を失った人間は、次は何を敵として生きていくのか。
そして、あの絶対的な孤高の存在――魔王は、死の瞬間に何を思うのか。
もし叶うなら、私は彼と酒でも酌み交わしながら、この世界の真理について語り合ってみたかった。
魔王よ。お前は本当に、世界を壊したいだけなのか?』
「……」
手記の最後のページは、そこで途切れていた。
私は手記を閉じ、天井を見上げた。
胸の奥が、冷たい氷で満たされるような感覚。
魔王城の謁見の間。
死に際に絶唱した聖女エレナ。
そして、最期まで私を観察するように見つめながら、全身を焼かれて倒れた大賢者アルバス。
あの老いぼれは、私を「殺すべき敵」として見ながら、同時に誰よりも深く私という存在を「理解」しようとしていたのだ。
私がどれほどの孤独の中にいたのか。
千年の時を、ただ一人で漂うことの虚無を。
(……阿呆め。理解した気になりおって)
私は手記を握りしめた。
私を倒したはずの勇者一行。だが、その頭脳であった男は、死の直前に魔王の正体ではなく、魔王の「心」に手を伸ばそうとしていたのだ。
その時だった。
ずしん、と街全体を揺らす激しい地鳴りが響いた。
「なに……!?」
窓の外を見ると、魔法都市フェルゼンの中心に立つ「大魔導炉」の塔から、不気味な赤黒い光が噴き出していた。
悲鳴が街中に響き渡る。
部屋の扉が勢いよく開かれ、顔を蒼白にしたエリスが飛び込んできた。
「レオン様! 大変です! 大魔導炉が……暴走を始めました!」
「暴走だと? あの炉はアルバスが組み上げた安定結界で護られているはずだ」
「それが……分かりません! 今朝から急速に都市全体の魔力バランスが崩れ始めて……このままでは、あと十分で魔導炉が破裂し、フェルゼン全域が消滅します!」
エリスの言葉を聞きながら、私は即座に原因を悟った。
――アルバスの仮説は、正しかったのだ。
世界に満ちる魔力は、魔王という巨大な重力源によって均衡を保たれていた。
だが、「魔王が死んだ(消えた)」と世界が認識したことで、世界各地の魔力の結界や魔導炉が、その支柱を失って歪みを起こし始めているのだ。
私が正体を隠し、力を抑え込んでいるがゆえに起きた、世界の「不整合」。
(私の存在が消えたことが、この街を滅ぼそうとしているのか……!)
なんという皮肉か。
魔王を倒した歓喜の裏で、世界のシステムそのものが崩壊を始めようとしている。
「レオン様、避難を……! あなた様だけでも早
く!」
震えるエリスの肩を、私は掴んだ。
「逃げる必要はない。案内しろ、大魔導炉へ」
「えっ……? ですが、あそこはすでに異常な密度の魔力で満ちていて、近づくだけで身が焼き切れます!」
「忘れたのか、エリス」
私はレオンの姿のまま、力強く微笑んでみせた。
「私は魔王を倒した男だ。この程度の火、熱くもなんともない」
大魔導炉の地下空間は、暴走する純粋魔力の嵐が吹き荒れていた。
赤黒い光の奔流が空間を削り取り、制御陣が次々と弾け飛んでいく。駆けつけた熟練の魔導士たちも、近づくことすらできずに倒れ伏していた。
「無駄だ……! もう抑えきれん!」
「アルバス先生がいらっしゃれば……っ!」
絶望が支配する現場に、私が足を踏み入れる。
「レオン様! ダメです、これ以上近づいては――」
エリスの制止を無視し、私は狂乱する魔導炉の真下へと歩み出た。
全身を焼くような魔力の暴風。だが、私にとっては心地よいそよ風に過ぎない。
私は両手を広げ、周囲に誰も見えないよう、服の陰で秘かに魔王の真の威圧を解放した。
――平伏せよ。
声なき意思を、世界そのものに叩きつける。
暴走していた赤黒い魔力が、一瞬で凍りついたように動きを止めた。
魔王の絶対的な階位の前に、ただの自然現象に過ぎない魔力の嵐が恐怖し、服従したのだ。
さらに私は、懐の手記でアルバスが書いていた「制御の理論」を頭の中で反芻した。
アルバスの設計した制御陣の欠陥部分に、私の魔力を「補強の杭」として打ち込む。
『――収束せよ』
レオンの声で一言、呪文を唱えるフリをした。
瞬間、大魔導炉を包んでいた赤黒い光が一気に凝縮し、本来の澄んだ青い光へと戻っていった。
激しい地鳴りが収まり、地下空間に静寂が戻る。
「……え……?」
倒れていた魔導士たちが、呆然と目を丸くした。
「暴走が……止まった……?」
「レオン様が……お一人で、大魔導炉を抑え込んだというのか……!?」
歓声が上がった。
「流石は勇者様だ!」「アルバス先生の知識と、勇者様の力が街を救ったんだ!」
エリスが駆け寄り、私の前に膝をついた。ボロボロと涙を流しながら。
「ありがとうございます……レオン様! 先生の遺したこの街を、先生の愛したアカデミーを、守ってくださって……!」
私は静かに手を差し伸べ、彼女を立たせた。
「礼なら、アルバスに言え。彼の残した手記があったからこそ、私はこの炉の構造を理解できたのだから」
「……はい! はい……っ!」
嘘だ。
私が使ったのはアルバスの知識ではなく、世界を統べ得る魔王の暴力的な権能だ。
だが、これでいい。
人間たちは「賢者の遺志と勇者の絆が起こした奇跡」として、この出来事を記憶するだろう。
私は懐の中の手記を軽く叩いた。
大賢者アルバス。
お前は死してなお、私に問いを投げかけてくる。
『お前は本当に、世界を壊したいだけなのか』
と。
「……答えてやるつもりはないぞ、老いぼれ」
私は誰も聞こえない声で呟いた。
正体を隠し、世界の歪みを己の力で力ずくで抑え込みながら、偽りの英雄として生きる旅。
犠牲者たちの愛と悲しみだけでなく、今や「世界の崩壊」そのものまで、私が背負わねばならなくなったらしい。
「フフ……実に、最高の退屈しのぎだ」
私は焦土、聖地、そして魔法都市を経て、次なる地へと視線を向けた。
勇者一行の最後の一人――己の誇りのために散った「剣聖」ガレスの故郷、武国バドラへ。
偽りの勇者が歩む贖罪と欺瞞の物語は、より一層の深みへと落ちていくのだった。




