【第3話】 聖女の遺した祈り
始まりの街アルドをあとにした私は、街道を北へと辿っていた。
アルドの民は、勇者レオンの出発を涙で見送った。ゴルドが手渡してくれた干し肉の袋と、街の者たちが総出で作ってくれた温かなパンの香りが、背嚢の奥から微かに漂っている。
私の手には、ひとつの壊れた品があった。
銀で作られた小さな十字のロザリオ。中央には透き通るような青い宝石が嵌め込まれていたはずだが、今は半分から大きく亀裂が入り、魔力も完全に潰えている。
勇者一行の「聖女」――エレナの遺品だ。
魔王城の謁見の間で、私が放った黒炎からレオンを庇い、その絶対防御の結界ごと焼き尽くされた女。
消滅する直前、彼女の首から千切れ飛び、血の海に転がっていたのを、私がなんとなく拾い集めてポケットに入れていたものだ。
「……愚かな女だった」
私は歩みを進めながら、呟いた。
能力だけで言えば、エレナの聖属性魔法は魔族にとって天敵だった。私でさえ、彼女の展開する最高位結界を破るには相応の魔力を練り上げる必要があった。
もし彼女が己の保身だけに専念していれば、あるいは私の一撃を凌ぎ、城から逃げ延びることもできたはずだ。
だが、彼女はそうしなかった。
己の命を投げ打ち、身を呈してレオンを護る盾となった。
(なぜ、他者のために己の命を捨てる?)
魔族の理では理解不能な行為だ。
魔族にとって力とは己のために行使するものであり、他者のために命を差し出すなど狂気の沙汰でしかない。
私の足は、聖都アウグスタへと向かっていた。
世界最大級の聖堂を擁し、聖女エレナが生まれ育った白亜の宗教都市。
レオンとして生きる以上、共に戦った仲間の遺族へ「訃報」と「遺品」を届けるのは、英雄として当然の責務とされていた。
聖都アウグスタは、遠目からでもその異常な美しさが分かった。
一重の城壁は純白の石で積み上げられ、中央には天を突くような大聖堂の尖塔がそびえ立っている。
街の門を潜ると、清廉なベルの音が空に響き渡っていた。
街道の両脇には、白い衣服を纏った人々が溢れている。
「――勇者様だ! 勇者レオン様がお越しになられた!」
ここでもまた、王都やアルドと同じ光景が繰り返された。
人々は道を開け、花を投げ、膝をついて神への感謝を捧げる。
「聖女様のご意志が実を結んだのだ……!」
「魔王を討ち果たし、世界に光を取り戻してくださった……!」
人々の歓声を聞きながら、私は大聖堂への石畳を歩いた。
大聖堂の巨大な大理石の扉が開くと、そこには重厚なパイプオルガンの音色と、数十人の聖歌隊による美しい賛美歌が満ちていた。
言葉を失うほど幻想的な光景。
だが、その奥にある祭壇の前で、一人の少女が黒い喪服を着て佇んでいた。
金色の髪を後ろで束ね、深く頭を垂れている少女。
レオンのデータベースが照合される。――セシリア。聖女エレナのたった一人の妹であり、自身もまた見習い修道女として聖堂に捧げられた存在。
私が近づくと、セシリアはゆっくりと振り返った。
その顔立ち、特に澄んだ碧色の瞳は、私が魔王城で焼き尽くしたあの聖女エレナに驚くほど似ていた。
「……レオン様」
セシリアの声は、かすかに震えていた。
彼女は私の姿を見ると、瞳からボロボロと大粒
の涙を溢れさせ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「お戻りになられたのですね……。お姉様は……お姉様は、やはり……」
「……あぁ」
私は低く、痛みに耐えるような声(レオンが使いそうな声だ)で答えた。
「エレナは……最期まで立派だった。彼女の聖なる結界がなければ、私は魔王の猛攻を凌ぐことはできなかった。彼女は……私を、世界を護って散った」
私は懐から、あの亀裂の入った銀のロザリオを取り出し、両手でセシリアに捧げた。
セシリアは震える手でそれを受け取り、胸に強く抱きしめた。
ロザリオの冷たい銀に、彼女の熱い涙が滴り落ちる。
「お姉様……! ああ、お姉様……っ!」
聖堂内に、妹の痛切な泣き声が響き渡った。
大聖堂の奥にある静かな祈祷室へ案内された。
セシリアは泣き濡れた顔を布で拭い、私に温かいハーブティーを淹れてくれた。
「……取り乱してしまい、申し訳ありません、レオン様」
セシリアは伏し目がちに言った。
「覚悟は……していたのです。魔王討伐の旅に出ると決まったあの日から。お姉様は、自分は二度とこの聖都には戻れないだろうと……」
「エレナが、そう言っていたのか?」
「はい。旅立つ前夜、お姉様は私にこうおっしゃいました。『私は神の召命を受けて旅立つのではない。レオン様という、あの方の目指す未来を守るために行くのだ』と」
セシリアは遠い目をした。
「お姉様は……レオン様をお慕いしておりました。聖女としての立場ゆえ、決して口にはされませんでしたが……私は妹ですから、分かっておりました。お姉様がどれほど深く、あなた様を愛しておられたか」
私はティーカップを口に運ぼうとした手を、ぴたりと止めた。
愛。
人間たちが好む、あやふやで、数値化もできぬ不確定な感情。
私の脳裏に、魔王城での光景が鮮明に蘇る。
あの激戦のさなか、私が放った極大の黒炎がレオンに迫った瞬間。
聖女エレナは、己の全魔力を燃やし尽くす『神聖犠牲陣』を展開した。
命を削り、魂を燃料にして張られた絶対不可侵の結界。
私の一撃はその結界によって相殺され、彼女の肉体は過剰な負荷に耐えかねて内側から崩壊していった。
血を吐き、肌が亀裂のように裂けていく中で、彼女が最期に見つめていたのは――魔王である私ではなく、背後に倒れていた勇者レオンの顔だった。
『……生きて……レオン……様……』
それが、彼女の最期の言葉だった。
私はそれを「無駄な悪あがき」として一蹴し、遺されたレオンの胸を穿ったのだが。
(あのアホめは……世界のためでも、神のためでもなく……ただこの男ひとりを生かすために、己の命を灰にしたというのか?)
あまりの狂気。あまりの愚かさ。
だが――それほどの強い執着が、人間という弱小な種族の中に存在する事実。
「レオン様」
セシリアが、私の手をそっと握った。
その手は、給仕の少女や、鍛冶屋ゴルドと同じように、温かく、そして儚く震えていた。
「お姉様が命を懸けてお守りしたあなた様が、こうしてご無事で、そして世界を救ってくださった。……それだけで、お姉様の人生には意味があったのだと、私は信じられます」
「……」
「ありがとうございます、レオン様。お姉様の愛した世界を、守ってくださって」
感謝。
またしても、感謝だ。
彼女の愛する姉を殺し、その身体を燃やし尽くした元凶である私に向かって、彼女は最大級の敬意と感謝を捧げている。
胸の奥が、ギリギリと嫌な音を立てて軋んだ。
この感覚にはもう慣れたと思っていた。だが、出会う者、関わる者が深くなればなるほど、その「刃」はより鋭く私の核を刺し穿ってくる。
私に向けられる光が眩しければ眩しいほど、私の内に潜む悪の影が、ドロドロと濃く浮き彫りになるのだ。
夜、大聖堂の屋上に一人立った。
眼下に広がる聖都アウグスタの夜景。
白亜の街並みが月光に照らされ、まるで銀色の海のように広がっている。
街のどこからか、聖女の死を悼み、英雄の帰還を祝う讃美歌の歌声が風に乗って聞こえてきた。
私は背の聖剣エルシドを抜き放ち、月光にかざした。
「……おい」
聖剣に向かって語りかける。
「お前の主は、これほどまでに愛されていたぞ。仲間からも、民からも、そしてあの聖女からもな」
聖剣は答えず、ただ静かに、哀しげな青い光を宿して揺れていた。
「お前たちが命を懸けて倒そうとした魔王は、今、お前たちが愛した世界で『神』のように崇められている。……どうだ? 愉快だろう」
口では嘲笑ってみせた。
だが、その声にはかつてのような冷酷な冴えはなかった。
ポケットの中から、少女のお守りと、セシリアから「お姉様の遺品として持ち続けてほしい」
と託されたロザリオの欠片を取り出す。
無格好なお守り。
ヒビの入ったロザリオ。
どちらも、魔王である私にとってはゴミ同然の代物だ。指先に少し力を込めれば、一瞬で原子の塵に変えることができる。
だが、私はそれを強く握りしめ、胸の内に収めた。
「エレナ……と言ったか」
空を見上げる。漆黒の夜空に、無数の星が瞬いていた。
「お前が命を懸けて守ったこの男は、すでに死んだ。……だが、安心しろ」
私の口から出たのは、魔王としての言葉か、それとも勇者としての言葉か。
自分でも判別がつかなくなっていた。
「お前が遺した祈りも、あの少女の涙も、この街の平和も……私がすべて奪い、そして――私がすべて背負ってやる」
世界を滅ぼすために生まれた悪魔が、世界を守るために剣を振るう。
これほど滑稽で、これほど残酷な贖罪があるだろうか。
「フフ……ハハハハ!」
私は月夜の下で、一人低く笑った。
次の目的地は、大賢者アルバスの故郷――魔法都市フェルゼン。
勇者一行の「頭脳」と呼ばれた男の痕跡を辿る旅が、私を待っている。
魔王レオンの歩む道は、まだまだ始まったばかりだった。




