【第20話】 神樹の森と精霊の囁き
王都を後にした私は、神樹の巫女セレスティナ率いる使節団とともに、大陸西方に広がる深い
緑の秘境――『神樹の森』へと足を進めていた。
大樹が頭上を覆い尽くす古の森は、外の世界の喧騒から切り離された静謐さに満ちていた。空気を満たすのは、濃密な精霊の魔力と、濡れた苔の匂い。
「……不思議な方ですね、レオン様」
静寂を破り、前を歩くセレスティナが静かに振り返った。その翡翠色の瞳には、未だ拭いきれぬ疑念の色が漂っている。
「あなたの纏う光は、どこまでも澄み渡り、一切の濁りもありません。ですが……森を進むほどに、私の内に住まう精霊たちがざわめくのです。『目の前にいるのは、世界を救いし勇者であり、同時に世界を呑み込む深淵そのものだ』と」
「精霊たちの詩には、少し風狂が過ぎるのではないか?」
私はレオンの柔らかい苦笑を浮かべ、腰の聖剣の柄に手を置いた。
「私はただの人間だ。仲間の遺志を継ぎ、この世界を守るために剣を振るっているに過ぎない」
「ええ……その言動にも、心根にも、偽りを感じ取ることができません。だからこそ……恐ろしいのです」
セレスティナは固い表情のまま、森の最奥――
天を衝くほどに巨大な一本の大樹の前で足を止めた。
神樹。
世界中の生命力を司ると言われる古の霊木。だが、その巨木の幹には痛々しい黒ずみが走り、黄金色に輝くはずの葉は枯れ落ち、悲痛な呻きのような風切り音を立てていた。
「ご覧ください。神樹の根元から溢れ出ているのは、悪意や怨念の類ではありません。……
『矛盾』です」
セレスティナが悲しげに神樹の幹へ手を滑らせる。
「世界の理は、魔王の滅亡と勇者の勝利という正しき秩序を求めています。しかし、世界の中心に存在する『何か』が、その秩序と決定的に食い違っている。その不協和音が、神樹を内側から枯らし、清らかな精霊を狂わせているのです」
(なるほど……世界の理、か)
私は冷ややかに失笑した。
真の勇者は滅び、世界を滅ぼすはずだった魔王が「救世主」として君臨している。世界というシステムそのものが、このあまりにも巨大な狂言に耐えかねて、悲鳴を上げているのだ。
「レオン様、神樹の核へ手を触れてみてください」
セレスティナが私を見つめる。
「もし、あなたの中に世界を脅かす邪悪があるならば、神樹の精霊はあなたを拒絶し、その命を吸い尽くすでしょう。ですが……もしあなたが真の光であるなら、神樹は息を吹き返すはずです」
試されている。私が「何者」であるのかを、世界の理そのものを使って。
「いいだろう」
私は躊躇うことなく一歩を踏み出し、枯れゆく神樹の巨幹へと右手をかざした。
掌が皮膜に触れた瞬間――。
ドクン……!
大地が揺れた。神樹の奥底から、激しい魔力の奔流が私の体内へと流れ込んでくる。
『――我が主……いや、世界の崩壊を拒みし者よ――』
頭の中に直接響く、数千の精霊たちが重なり合
った荘厳な声。
彼らは私の内に眠る恐ろしい「魔王の根源」を瞬時に見破った。しかし、精霊たちは私を攻撃しなかった。それどころか、私が偽りの勇者として人間を導き、平和を維持している「選択」を、世界を支える新たな柱として認識し始めたのだ。
不和を起こしていた理が、私という矛盾を飲み込み、無理やり「勇者」として再定義していく。
神樹の黒ずみが一瞬で消え去り、幹の表面から眩いばかりの黄金の光が溢れ出した。一瞬にして葉が生い茂り、森全体に溢れんばかりの生命の歌声が響き渡る。
「な……そんな……!?」
セレスティナが息を呑み、その場に崩れ落ちた。
「神樹が……息を吹き返した……? 世界の歪みが消え……レオン様を『真の王』として祝福している……!?」
輝く神樹の前で、私は静かに己の手を見つめた。
世界を騙し、嘲笑うために演じていた仮面が、
世界そのものの理によって本物へと縫い付けられていく感覚。
(クハハ……狂っているな、この世界は)
己の存在が「世界」に容認されていく不気味な全能感に包まれながら、偽りの救世主は、満開の神樹の下で静かに口元を歪めたのだった。




