【第19話】 玉座なき統治と深緑の訪れ
第一王子が廃人となり、王宮を支配していた汚濁が一掃されてから二週間。
王都グラニアの空気は一変していた。
第一王子に与していた腐敗貴族たちは次々と失脚し、代わりに王宮聖騎士団副団長であるクラリスや、真面目な若手文官たちが国政の中心へと引き上げられた。
彼らを推薦し、裏から指示を出したのは他ならぬ私――「勇者レオン」である。
「レオン様、こちらが旧魔王領との国境地帯における不法占拠の取締計画書です」
「勇者様、北方諸国からの通商条約の再締結案が届いております」
私室の執務机には、毎日のように山のような書類が運び込まれていた。
老王はすっかり怯えきり、実権のすべてを私に委ねていた。私は王冠を頭に戴くことなく、王都の影の統治者として君臨していたのだ。
「……ふむ。通商条約に関しては、関税を二割下げて批准させろ。その代わり、北方からの難民の受け入れ枠を広げさせる」
「はっ! ただちに!」
文官が恭しく頭を下げ、部屋を辞していく。
(クハハ……笑いが止まらんな)
私は羊皮紙に署名を走らせながら、胸中で冷たい愉悦を噛みしめていた。
かつて数万の魔導兵器と悪魔の軍勢を率いて世界を征服しようとしたこの私が、いまや羽ペン一本で人間の王国を完璧にコントロールしている。戦争などという不確定で野蛮な手段を使わずとも、法と経済と「正義」の威光を使えば、人間など簡単に手のひらの上で転がせるのだ。
「……お疲れ様、レオン」
扉が開き、温かな紅茶を乗せたトレイを手にしたクラリスが入ってきた。
「クラリスか。騎士団の務めはいいのか?」
「副団長の業務は一通り終えたわ。それよりも……あなたが心配でね。王国の立て直しのために、朝から晩まで休まず働いているでしょう?」
クラリスは心配そうに眉をひそめ、私の机にカップを置いた。
「皆、感謝しているわ。あなたが第一王子の陰謀を暴いてくれなかったら、この国は魔族との無意味な戦争で泥沼にハマっていた……。あなたは本当に、この世界の救世主ね」
「私は当然の働きをしたまでさ」
私はレオンの柔らかい笑みを浮かべ、紅茶に口をつけた。
その温もりが喉を通るたび、胸の奥で小さな熱が生まれる。
支配の愉悦とは別に、彼女や国民から向けられる純粋な「感謝」を受け取ることで生じる、あの妙な満足感。
(またこれか……)
己の中に芽生えつつある「善性」の歪み。
私はそれを打ち消すように、カップを静かに皿へと戻した。
「――報告いたします! 王都正門に、エルフの使節団が到着いたしました!」
静寂を破り、重装の騎士が部屋に駆け込んできた。
「エルフだと?」
クラリスが目を見開く。
エルフ族。
大陸西方の巨大な原生林『神樹の森』に住まう、長命なる森の民。彼らは閉鎖的であり、かつて魔王軍と人間軍の戦争においても完全な中立を貫いていた種族だ。
その彼らが、なぜわざわざ王都まで足を運んできたのか。
「使節団を率いているのは、神樹の巫女・セレスティナ様です! 『勇者レオン様に、至急お渡ししたい儀礼がある』と……!」
「……通せ」
私は立ち上がった。
王城の大広間。
久々に開かれた謁見の場に、数人のエルフたちが足を踏み入れてきた。
その中心に立つのは、透き通るような白銀の髪と、深い翡翠色の瞳を持つ美しい女性――神樹の巫女セレスティナ。その身に纏うのは、清廉な精霊の加護を宿した緑のローブだ。
彼女は私の姿を認めると、優雅に礼を捧げた。
「お初にお目にかかります、世界を救いし勇者レオン様。私は神樹の巫女、セレスティナと申します」
「遠路はるばる感謝する、巫女殿。不干渉を貫いていたエルフ族が、我がもとへ赴いた理由を聞かせてもらおうか」
私はレオンの威厳ある声で尋ねた。
セレスティナはゆっくりと顔を上げ、その翡翠色の瞳でまっすぐに私を見つめた。
その瞬間。
彼女の瞳に、微かな驚愕と疑念の色が走った。
「……勇者様。我が森の神樹が、魔王の討伐以降、急速に枯れ始めております」
セレスティナは静かな、しかし確信に満ちた声で語り始めた。
「神樹は世界に満ちる『魂の調和』を映す鏡。魔王という絶対的な悪が消え去ったのであれば、世界は調和を取り戻し、神樹はかつてない輝きを放つはずでした。……しかし、現実は逆です。世界を覆う『歪み』は、魔王が居た頃よりも一層重く、深く、森を蝕んでおります」
大広間の貴族たちや騎士たちがざわめき立つ。
「な……何を言うか! 魔王は滅び、勇者様によって平和が訪れたのだぞ!」
「神樹が枯れたなど、エルフどもの管理不足ではないか!」
口々に非難する人間たちを、セレスティナは一瞥もせず、ただ私だけを注視していた。
「勇者レオン様。……神樹の精霊は言いました。『世界を救った光の核に、あまりにも深き漆黒の闇が混ざり込んでいる』と」
(……ほう)
私は心の中で不敵に笑った。
なるほど。精神世界の幻術でも、人間の政治工作でもなく、世界の理そのものを感知する精霊の力か。
私がいくら完璧に勇者レオンを演じようと、私という「魔王の根源」が存在している以上、世界の調和には絶対的な矛盾(歪み)が生じる。
エルフどもは、その「世界の不協和音」を感じ取ってここへ来たのだ。
「巫女殿」
私は一歩前に出た。
「神樹の異変……見過ごすわけにはいかないな。私がその『歪み』の原因を突き止め、森を救おう」
「レオン!?」
クラリスが驚きに声を上げる。
「王都の改革も始まったばかりよ! あなたがまた遠くへ行くなんて……!」
「大丈夫だ、クラリス。王都の政治は君たちに任せられるまでに整った。それに……世界の調和を保つことこそ、勇者としての私の真の務めだ」
私は完璧な救世主の笑みを浮かべ、セレスティナに向き直った。
「神樹の森へ案内してもらおう、セレスティナ殿」
セレスティナは深々と頭を下げた。
「……感謝いたします、勇者様。その身に宿る光が、真に世界を照らすものであることを祈っております」
彼女の言葉の裏にある「確かめてやる」という鋭い意思を、私は見逃さなかった。
王都を出発する準備を終え、私は一人、夜の回廊で腰の聖剣エルシドを引き抜いた。
鏡のように澄んだ刀身に、私の碧色の瞳が映る。
「世界の歪み、か……」
魔王である私が勇者として君臨し、人間を導き、平和を作り上げている。
これ以上ないほど美しく、そして狂った矛盾。
「いいだろう、精霊とやら。私という存在が世界を救う光となるか、それともすべてを呑み込む闇となるか……試してみるがいい」
偽りの英雄は、次なる舞台――精霊と古代の記憶が眠る『神樹の森』へと足を踏み入れるのだった。




