【第18話】 蠢く陰謀と黒き王冠
第一王子が謁見の間で失禁し、昏倒したという噂は、当然ながら「王子の急病」として処理された。しかし、権力の権化のような貴族たちが、その裏にある私の存在と圧倒的な威圧に勘づかないはずもなかった。
「勇者レオンは変わってしまった」
「魔王を討ち取ったことで、己を神と錯覚しているのではないか」
「魔族を庇い、王家の命を拒むなど……反逆の兆しだ」
王宮の暗がりで、密やかな囁きが伝播していく。
彼らにとって、魔王という共通の敵が消えた今、最も恐ろしいのは「王国の法や権力に従わない、圧倒的な力を持つ単独の英雄」なのだ。自分たちの思い通りに動かない最強の駒ほど、喉元に突きつけられた刃に等しい。
「……愚かしいな」
私は自室の窓辺で、月光に照らされる王都の街並みを見下ろしていた。
正面から挑めば一瞬で首が飛ぶことを理解している人間どもが選ぶ道は、いつの時代も決まっている。毒殺、失脚、あるいは不名誉な濡れ衣だ。
その時、室内に微かな足音が響いた。
「レオン様……」
姿を現したのは、私に専属としてあてがわれた若き侍女だった。手には、夜食として運ばれてきた温かなスープとパンのトレイがある。
彼女の手は、微妙に震えていた。呼吸は浅く、視線は決して私の目を見ようとしない。
「置いておいてくれ」
「は、はい……。あの、レオン様……それは、
王宮の料理長が勇者様のお疲れを癒やすためにと、特別に作られた『秘伝の薬草スープ』でございます。どうか、温かいうちにお召し上がりください……」
侍女は絞り出すような声でそう言うと、深々と頭を下げて早足で部屋を去ろうとした。
「待ちなさい」
私の短い一言に、彼女の身体が氷の像のように固まった。
私は立ち上がり、トレイの前に歩み寄った。
湯気を立てる琥珀色のスープ。その中に仕込まれているのは、匂いも味もない至高の遅効性麻痺毒――『無声の涙』だ。かつてルーク子爵が使おうとした粗末な毒とは違い、魔法的な耐性すらもすり抜けて神経を侵食する、王家秘伝の暗殺毒であった。
「綺麗な色だ」
私はスープ皿を手に取り、静かに揺らした。
「……レ、レオン様……?」
「君の妹は、王宮の地下牢に捕らわれているそうだな。第一王子の側信に『勇者のスープに毒を入れなければ、妹の命はない』と脅されたか」
「っ……!? な……なぜ、それを……!?」
侍女は膝から崩れ落ち、顔を蒼白にして涙をこぼした。
レオンの持つ鋭敏な五感と、私という魔王が持つ精神探知の術があれば、城内の薄汚い密談などすべて筒抜けだった。王子は昼間の屈辱を晴らすため、そして思い通りにならない勇者を排するために、この哀れな侍女を脅迫して毒を盛らせたのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ! でも、あの子しか家族がいないのです……っ! 勇者様を殺せば、私も死ぬつもりでした……っ!」
地面に額を擦り付け、必死に謝罪する少女。
私はスープ皿を持ったまま、彼女の前でしゃがみ込んだ。
かつての私であったなら、この場で侍女の首を刎ね、毒入りのスープを王子のもとへ投げつけて城ごと灰にしていただろう。
だが、私はレオンの柔らかい眼差しで、彼女の頭に手を置いた。
「泣くことはない。君も、君の妹も……誰も死ぬ必要はないのだから」
「え……?」
私はスープを一気に口に含み、飲み干してみせた。
「レ、レオン様……!? 何を――っ!?」
「安心しろ。私には……毒など効かない」
体内に侵入した毒素が、私の魔力によって一瞬で分解され、無害な水へと変わる。
青ざめる侍女の手を優しく取り、引き起こしてやった。
「さあ、涙を拭きなさい。王子には『毒は確実に盛った』と報告するといい。……これからの『劇』の主役には、最高の気分で踊ってもらわねばならないからな」
翌朝。
王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「勇者レオンが昏睡状態に陥った」という報せが、城内に駆け巡ったからだ。
第一王子は狂喜乱舞した。自分が仕掛けた毒が完璧に効き、邪魔な英雄が動けなくなったと確信した彼は、すぐさま親衛隊を動かし、王宮の兵権を掌握しようと動き出した。
「勇者殿は重病だ! 世界の平定を急ぐため、これより我らが権限代行として旧魔王領への出兵を命じる! 反対する者は謀反人とみなす!」
大広間に貴族たちを集め、勝ち誇った顔で宣言する第一王子。
その傍らには、捕らえられたクラリスの姿もあった。彼女は王子の暴走を止めようとして、真っ先に拘束されたのだ。
「王子殿下! レオンが倒れた隙にそのような暴
挙、絶対に許されません!」
「黙れ、クラリス副団長! 勇者なき今、この国を引っ張るのは王族である私だ! 逆らうなら貴様も処刑するぞ!」
下品な笑いを浮かべる第一王子。
貴族たちも、最強の盾であった勇者が不在と聞いては、王子の威光に平伏するしかなかった。
だが――大広間の重厚な扉が、豪快な音を立てて内側から吹き飛んだのは、まさにその時だった。
バァァァン……!!
煙が巻き起こる大広間に、静かな足音が響く。
「……ずいぶんと賑やかなお茶会だな、殿下」
煙の奥から姿を現したのは、白銀の甲冑を纏い、金髪をなびかせた私――勇者レオンだった。
「な……に……っ!?」
第一王子が目を見開き、顎が外れんばかりに絶叫した。
「ば、馬鹿な……!? 貴様は……毒で……昏睡しているはずでは……っ!?」
「毒? ああ、あの薬草スープのことか」
私は胸元から、一通の羊皮紙を取り出した。そこには、王子が暗殺組織へ出した毒薬の購入記録と、侍女の妹を脅迫していた裏付けとなる署名入りの書状が書かれている。昨夜のうちに王子の書斎から盗み出してきたものだ。
「実に深い味わいだったよ。……王家の腐敗という名の、毒の味がな」
私は書状を大広間の天井へ向けて放り投げた。
散らばる証拠の紙片。そこに書かれた内容を目にした貴族たちが、一斉にざわめき出し、第一王子へ蔑みの視線を向けた。
「ひ……ヒィィっ……! 殺せ! 殺せぇっ! 親衛隊、その男は偽物だ! 今すぐ斬り捨てろ!」
狂乱した第一王子が叫ぶ。
数十人の親衛隊が一斉に剣を抜き、私へと襲い
かかってきた。
「愚かな」
私は聖剣すら抜かなかった。
ただ一歩、踏み出す。
ドォォォン……!!
私から放たれた衝撃波だけで、襲いかかってきた騎士たちの剣がことごとく粉砕され、彼らは壁まで吹き飛んで気絶した。
瞬殺。手を汚す価値すらない圧倒的な力の差。
悲鳴を上げて腰を抜かした第一王子の目の前まで、私は静かに歩み寄った。
「ひ、ひぃぃ……! た、たすけ……許してくれ、レオン……! 私が悪かった、国をお前にやってもいい! だから命だけは――っ!」
這いずりながら乞命する第一王子。
私は彼を見下ろし、レオンの碧色の瞳に、冷酷な魔王の光を宿して囁いた。
「王冠とは、命をかける覚悟のない者が戴いていいものではないのだよ、殿下」
私の指先が、王子の額に軽く触れる。
それだけで、第一王子の精神は恐怖のあまり崩壊し、彼は白目を剥いて泡を吹き、二度と立ち上がれない完全な廃人となって床に転がった。
大広間は、完璧な静寂に包まれていた。
老王も、貴族たちも、ただ恐怖に震えながら私を見上げている。
私はクラリスを縛っていた縄を聖剣で切り飛ばし、彼女を引き起こした。
「大丈夫か、クラリス」
「え、ええ……ありがとう、レオン……」
クラリスは震える声で答えながらも、私の顔をじっと見つめていた。
「レオン……あなた、最初からこうなることが分かっていて……?」
「政治とはそういうものだ」
私はレオンの穏やかな笑みを浮かべ、大広間の貴族たちに向かって声を響かせた。
「陛下、そして諸公。……王国の平和を乱す『毒』は、取り除かれました。これより旧魔王領への不当な侵略、ならびに魔族への迫害を禁じます。異論のある者は……いつでも私のもとへ来られるといい」
反論できる者など、誰一人としていなかった。
圧倒的な力と、完璧な正義。
人間たちは今や、私という存在を「慈愛の勇
者」としてではなく、「逆らってはならない絶対的な裁き主」として恐れ、敬うようになっていた。
(くく……面白いものだ)
私は自室への回廊を歩きながら、静かに可笑しさを噛みしめていた。
魔王として世界を力でねじ伏せようとした時は、人間どもは団結して抵抗してきた。
しかし、勇者の皮を被り、正義を掲げて力を振るえば、彼らは自ら進んで膝を屈し、私を神として拝むのだ。
「真の支配とは、こうして行うものだったのだな……」
ふと、自分の胸に手を当てる。
そこには、毒殺されそうになった侍女が見せた涙と感謝、そしてクラリスが寄せてくれる信頼の温もりが、確実に残っていた。
恐怖で支配しながらも、彼らの祈りを受け止めている己の矛盾。
偽りの英雄は、崩れゆく王国の秩序の中で、さらに深く世界の中心へと鎮座していくのだった。




