【第17話】 凱旋の陰影と揺らぐ神座
魔王城が崩壊し、四魔将の最後の残党すらも完全に撃ち破られてから一ヶ月。
王都グラニアへの道中、私の耳に届くのは、世界が「平和」へと向かっているという歓喜の噂ばかりだった。魔王軍は完全に瓦解し、脅威は世界から立ち消えた。
だが、王都の城門を潜った瞬間、私の鼻を突いたのは——香水と金銭、そして腐敗した欲望の生臭い匂いだった。
「勇者レオン様万歳ーっ!」
「人類の救世主万歳っ!」
降り注ぐ花吹雪と、割れんばかりの民衆の歓声。
王都は三度目の「凱旋」に湧きかえっていた。かつて魔王である私を倒したとされた時以上の、狂熱的なお祭り騒ぎ。
しかし、その熱狂の渦を通り抜け、王城の謁見の間へと足を踏み入れたとき、そこに待っていたのは「平和への感謝」などではなかった。
「……よくぞ戻られた、レオン卿!」
玉座に座る老王は、爛爛とした欲望の光を目に宿して私を迎えた。その周囲を囲む貴族たちの顔にも、かつて魔王の影に怯えていたような青ざめた色は欠片もない。
「魔王城が落ち、魔大陸の全容が明らかになったと聞く。つきましては、我が王国が主導となり、旧魔王領の『分割統治』と『資源開発』を進めたいと考えておる。ついては、卿にその先兵として領土の選定と現地魔族の排除を命じたい」
「左様!」
老王の横に立つ第一王子が、下品な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「魔族どもなど、生かしておいても害にしかならん。鉱山で奴隷として働かせるか、見せしめに処刑するのが筋というもの。勇者殿の力があれば、隣国に先んじてあの肥沃な闇の資源を独占できましょう!」
(……呆れたものだな)
私は甲冑の兜を外し、レオンの柔らかな金髪をなびかせながら、彼らを冷たく見下ろした。
魔王という絶対的な重石が外れた途端、人間どもは早くも他者の領土を貪り、生存権を奪い合う牙を剥き出しにしている。かつて魔大陸で出会った、飢えと恐怖に震えながら身を寄せ合っていた魔族の子供や民たちの姿が、私の脳裏をよぎった。
あの小さく儚い者たちを「奴隷」にし、「排除」するだと?
「……お言葉ですが、陛下、王子殿下」
私は胸に手を当て、レオンの完璧な一礼を捧げながら、氷のように澄んだ声を響かせた。
「旧魔王領は、長年の毒素によって土地が荒れ果て、人間が足を踏み入れられる環境ではありません。それに……生き残った魔族の残党は、もはや戦う意志を失った弱者ばかり。彼らを追い詰めれば、死に物狂いの反撃を招き、無用な兵の犠牲を出すことになります」
「ぬ……なに?」
第一王子が不満げに眉をひそめた。
「勇者ともあろう者が、害虫同然の魔族を庇う
ような口を叩くのか?」
「言葉を選びなさい、殿下」
私は一歩、踏み出した。
トツ、と石床を叩いた私の足音と同時に、ほんのわずか――人間には感知できない密度の「覇気」を、第一王子だけに指向して放った。
「ヒッ……!?」
第一王子は急激な呼吸困難に陥ったように顔を蒼白にし、ガタガタと膝を震わせてその場にへたり込んだ。あまりの恐怖に股間を濡らし、扇子を落とす。
周囲の貴族たちは、王子が急病で倒れたのだと勘違いし、大慌てで駆け寄っていた。
「私の務めは、世界に平和をもたらすこと。無意味な殺戮と略奪の手伝いをすることではありません」
私は老王に向かって静かに微笑んだ。
「王国の益を考えるのは結構ですが……どうか『真の勇者』の忍耐を、試すような真似はお控えくださいますよう」
老王は第一王子の惨状と、私の底知れぬ笑みに
呑まれ、ゴクリと唾を飲み込んで頷くしかなかった。
その夜。王城の静かな回廊を歩いていると、月光の下で私を待つ影があった。
王宮聖騎士団の銀装束を纏ったクラリスだ。
「……レオン」
「クラリス。夜風は冷える、こんなところでどうした?」
私が近づくと、彼女は深く痛ましそうな溜息をついた。
「昼間の謁見の話……城内に広まっているわ。
あなたが王子の無礼を咎め、領土の略奪を突っぱねたと」
クラリスは手すりに寄りかかり、遠い目をして街の明かりを見つめた。
「悲しいわね……。あなたが命をかけて世界を救ったというのに、上層の人たちはもう次の戦争や利権のことばかり考えている。何のために多くの仲間が死んだのか……分からなくなってしまうわ」
「人間とはそういう生き物さ、クラリス」
私は隣に並び、夜空を見上げた。
「欲望があるからこそ発展し、欲望があるからこそ争う。外なる敵が消えたところで、人間の内なる悪魔まで消えるわけではない」
「……冷たいのね、今のレオンは」
クラリスは悲しそうに微笑んだ。
「でも……不思議ね。そんな冷めた言葉を言いながら、あなたはその手で魔族の弱者たちを助け、王国の暴走を止めてくれた。昔のあなたは、正義感に駆られてただ怒っていたけれど……今のあなたは、まるで世界全体を包み込むように、静かに守ってくれている」
「……何?」
「ありがとう、レオン。あなたが帰ってきてくれて……本当によかった」
クラリスはそう言うと、私の手の上に、彼女の温かな手をそっと重ねた。
その瞬間。
胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
激しい動悸。
擬態しているレオンの心臓ではなく、私という「魔王の根源」そのものが、熱く脈打っていた。
クラリスの手の温もりが、私の中に流れ込んでくる。
かつて絶対の悪として孤高に降臨していた頃には知り得なかった、他者の温もり。
それを単なる「不快」と切り捨てることが、今の私にはどうしてもできなかった。
「レオン……? どうかしたの? 顔色が悪いわ……」
「……いや。何でもない」
私は静かに手を引き、あとずさった。
「長旅の疲れが出たようだ。今夜は休ませてもらう」
「ええ……ゆっくり休んでね」
クラリスの前を静かに去る。
胸の中で渦巻くのは、これまで味わったことのない「葛藤」という名の妙な胸騒ぎだった。
自室に戻り、私は一人、暗闇の中で己の手を見つめた。
四魔将はすべてこの手で排した。魔王軍の脅威は消え去り、立ち塞がる絶対的な敵はもうどこ
にも存在しない。
だが、目の前にあるのは腐敗を深める人間の社会と、己の中に少しずつ芽生えつつある不可解
な「心」の働きだった。
人々から向けられる無数の感謝。
クラリスからの純粋な信頼と愛。
助け出された者たちの無邪気な敬愛。
それらを受け止めながら旅を続けるうちに、私の冷徹だった自我は、知らず知らずのうちに揺らぎ始めていた。
(……フッ、くはは)
私は暗闇の中で低く笑った。
かつて玉座から世界を見下ろしていた頃には、こんな感情の機微など知る由もなかった。
敵を力で粉砕するよりも、人間たちの醜い政治工作を裏でコントロールし、己の内の揺らぎと対峙する方が、遥かに複雑で、遥かに興深い。
「試してみるがいい、人間どもよ。そしてこの私自身よ」
私は腰の聖剣エルシドを鞘からわずかに抜き、月光に反射する刃を見つめた。
「偽りの救世主がどこまでこの世界を導けるのか……最後まで演じきってやろう」
暗闇の中で、かつての魔王は静かに微笑んだ。
外なる悪が潰えた今、物語は「人間の皮を被った魔王」が、人間社会の闇と己の心の変容に挑む、新たなる局面へと進んでいくのだった。




