【第12話】 魔大陸の門と偽りの心臓
要塞ガルガニアの喧騒が、少しずつ静まり返っていく。
『幻魔将軍』シェルファ率いる軍勢を退けた要塞には、歓喜の余韻とともに、重苦しい現実の匂いが残っていた。立ち上る煙、肉の焦げる臭い、そして怪我人たちの呻き声。
勝利の歓声に包まれながらも、兵士たちの戦いは終わっていない。
「勇者レオン様、改めて心より感謝申し上げます」
要塞司令官のバートン将軍が、包帯の巻かれた腕をかばいながら、私に深く頭を下げた。
「あなた様がシェルファを討ち取ってくださらねば、このガルガニアは今頃、灰燼に帰していたでしょう。ですが……シェルファが狙っていたのは、要塞の壊滅だけではなかったようです」
「どういうことだ?」
レオンの声で尋ねる。
バートン将軍は苦々しい表情を浮かべ、私を要塞の最地下――かつて古代人たちが築いたという巨大な地下大空洞へと案内した。
そこに鎮座していたのは、見上げるほど巨大な黒鉄の扉だった。
扉の表面には幾重もの重厚な魔術封印が施されているが、その中央には生々しい亀裂が走り、禍々しい紫色の魔力が漏れ出していた。
「これは……『魔界の門』か」
「はい。旧魔王領と、かつて魔王城が存在した『絶望の大陸』を直接繋ぐ古代の転移門です。シェルファは数万の魔物の命を贄にし、この門の封印を強引に解こうとしておりました」
バートン将軍が扉を見上げる。その瞳には、隠しきれない恐怖が宿っていた。
「門の向こう……旧魔王城の跡地には、いまや四魔将最後の生き残りである『極魔将軍』ヴァルグレイらが集結しております。……奴らは、恐ろしい儀式を進めているとのことです」
(ヴァルグレイ……)
私の頭の中に、最凶の肉体と無比の破壊力を誇
る武闘派の魔将の顔が思い浮かぶ。
力のみを信奉し、私の圧倒的な暴力の前に服従した狂信者だ。
「奴らが進めている儀式とは?」
「……『魔王様の御心の回収』と、奴らは呼んでいるそうです」
バートン将軍の声が震えた。
「奴らは……討たれたはずの魔王の『残された心臓』を依り代にし、新たなる完全体として魔王を再降臨させようとしているのです……!」
「魔王の……心臓だと?」
私は思わず、己の胸元にそっと手を当てた。
私の心臓は、当然ながらレオンの肉体の中で休むことなく脈打っている。
私が生きてここにいる以上、魔王城に『魔王の心臓』など存在するはずがない。
(……なるほど。ヴォルガスやシェルファとは違い、ヴァルグレイは知能犯ではない。奴は誰かに踊らされているな)
考えられる理由は一つ。
私が去った後の魔王城で、何者かが「魔王の残滓」を偽造し、残された魔族たちをまとめるための象徴として担ぎ上げようとしているのだ。
己の存在しない「偽物の心臓」を掲げて、世界を再び混沌に陥れようとする配下ども。
(不快極まりない。私の名を勝手に使い、泥を塗る愚者め)
私の内に、かつての魔王としての冷徹な怒りが沸き立った。
「勇者様……お願いです」
バートン将軍が、私の前に両膝をついた。
「この門の封印が完全に破られれば、再降臨した魔王と魔族の軍勢が再びこの人里へ押し寄せます。どうか……どうか門の先へ渡り、奴らの狂った儀式を止めてはいただけないでしょうか……!」
「……顔を上げてくれ、将軍」
私はレオンの柔らかく、しかし意思の固い笑みを浮かべ、バートン将軍の肩を抱き起こした。
「言われるまでもない。魔王の残虐な遺志が、再びこの世界を脅かすなど……決して許しはしない。仲間の命と引き換えに掴み取った平和を、私が守り抜いてみせる」
「おお……勇者様……!」
バートン将軍の目から涙が溢れ出た。
私は地下空洞を後にし、要塞の自室へと戻った。
一人になると、懐から旅の中で集めた遺品を取り出す。
机の上に並べられたそれらを、月光が静かに照らし出す。
「魔王の心臓、か……」
胸の奥が、かすかに疼いた。
大賢者アルバスが残した『人間たちの想いが、お前を浸食する』という言葉。
(私は魔王だ。だが……世界は私を『勇者』と呼び、私の前にひざまずき、私に希望を託す)
もし、門の向こうで偽りの魔王が降臨したとき。
『本物の魔王』である私が、『偽りの魔王』を倒
すために聖剣を振るうことになる。
なんと歪で、狂った滑稽劇だろうか。
私は静かに口元を歪めた。
「いいだろう、ヴァルグレイ。お前たちが望む『魔王』がどんなものか……この私が直接引導を渡してやる」
翌朝。
要塞の地下深くで、『魔界の門』の封印を一時的に解除する儀式が行われた。
「勇者レオン様! ご無運を!」
「世界を……世界をよろしくお願いいたします!」
要塞の兵士たちが、総出で私を見送る。
幾千もの熱い視線と、祈りの声。
私は彼らに向かって一度だけ深々と首を振ると、解き放たれた黒鉄の扉の中へと足を踏み入れた。
視界が強烈な闇に包まれ、空間が歪む。
転移の衝撃が収まった時、そこに広がっていたのは――かつて私が千年の時を過ごした、見覚えのある「絶望の大陸」の風景だった。
空は紫黒色の雲に覆われ、大地は亀裂からはみ出る溶岩で赤く染まっている。
鼻をつくのは、硫黄と血と、濃厚な魔力の匂い。
人間界の温かな風とは違う、殺意と暴力だけが支配する魔族の領域。
「帰ってきた、というわけか」
私はレオンの姿のまま、紫の空を見上げた。
ここから数キロ先には、かつて私が鎮座していた巨大な城郭――魔王城の影がそびえ立っている。
その時。
ザク、ザク、と荒野の土を踏みしめる音が近づいてきた。
「……誰だ?」
私が聖剣エルシドの柄に手をかけると、岩の陰から姿を現したのは、全身に傷を負った幼い魔族の少年だった。
漆黒の小さな角が生え、ボロボロの布を纏っている。
少年は私――金髪碧眼の勇者の姿を見るなり、ガタガタと激しく震え出した。
「ひ……ヒッ……! ゆ、勇者……! 勇者レオン……!?」
少年は逃げ出そうとしたが、傷ついた足がもつ
れ、その場に激しく転倒した。
「た……助けて……殺さないで……っ!」
少年が頭を抱えて縮こまる。
私は静かに少年に近づき、見下ろした。
(魔族の子供か。……以前の私なら、一瞥もくれずに踏み潰していたような存在だな)
だが、私の頭にふと、王都で出会ったあの人間の少女の姿が重なった。
家族を奪われ、怯えながらも私にお守りを手渡した、あの小さな手。
人間も、魔族も。
戦火の渦中においては、ただの小さく脆い命に過ぎない。
私は膝をつき、怯える魔族の少年に目線を合わせた。
「安心しろ。……お前を殺しに来たわけではない」
「え……?」
少年が恐る恐る顔を上げた。その紫色の瞳には、信じられないものを見るような驚愕が浮かんでいた。
偽りの勇者と、居場所を失った魔族の子供。
絶望の大陸で、新たな巡礼の旅が始まろうとしていた。




