第7話 妹による徹底指導! お風呂場は危険がいっぱい!?
波乱万丈という言葉では片付けられないほど濃密な一日が、ようやく幕を閉じようとしていた。
女子としての初登校、体育倉庫でのトラウマ体験、そして男子トイレでの便所飯未遂。
あらゆる尊厳がジェットコースターのように乱高下した一日だったが、家に帰ればそこは安息の地だ。
母さんの作ったハンバーグを食べ、家族団欒の空気に触れ、俺の弱っていた精神はようやく平穏を取り戻していた。
「ふぅ……。やっぱり家が一番だな」
脱衣所でパジャマを着込みながら、俺は大きく息を吐く。
一日の汚れと疲れを洗い流す入浴タイムは終了だ。
所要時間、約十分。男である俺にとって、風呂なんてものはカラスの行水で十分なのである。
シャワーで汗を流し、湯船にドボンと浸かって百数えればそれでミッションコンプリートだ。
「よし、あとは勉強とゲームでもして寝るか」
俺は濡れた髪をタオルで適当にワシャワシャと拭きながら、脱衣所のドアを開けた。
その瞬間だった。
「――早いですね、兄さん」
目の前に、仁王立ちした白雪姫がいた。
「うおっ!?」
あまりの不意打ちに、俺は情けない声を上げてのけぞった。
そこにいたのは、教室で俺を救ってくれた救世主にして、我が家における絶対強者、一条姫子だ。
彼女は腕組みをしたまま、まるで遅刻した部下を見下ろす上司のような冷徹な視線を俺に向けている。
「ひ、姫子? どうしたんだよ、そんなところで突っ立って」
「どうした、ではありません。昨日も思いましたが、お風呂から上がるのが早すぎます」
「はあ? いや、昔から俺はこのくらいだったろ? 十分あれば十分……って、なんかギャグみたいになっちまったが」
「それは『男だった頃』の話です」
姫子は有無を言わせぬ圧で一歩踏み込んでくる。
俺が後ずさると、彼女はスッと俺の頭に手を伸ばし、まだ半乾きの毛先に触れた。
「見てください、この惨状を。まだこんなに湿っているじゃないですか。それにこの手触り……トリートメントもちゃんとしていませんね? 毛先が絡まっています」
「い、いや、タオルで拭いたから自然乾燥でいいかなって……」
「自然乾燥!? 信じられません……! 女の子の髪がどれだけデリケートだと思っているのですか!」
姫子は深いため息をつくと、俺の手首をガシリと掴んだ。細い指とは思えないほどの力強さだ。
「え、ちょ、姫子さん?」
「戻りますよ、兄さん。兄さんには『女の子の入浴のマナー』というものを、一から叩き込んであげる必要があります」
「はあ!? いやいや、もう入ったから! 体も洗ったし!」
「そんなの洗ったうちに入りません。いいから来てください」
俺の抵抗などさざ波のようなものだった。
今の俺は、筋肉皆無の「ぷにぷにボディ」。
対する姫子は戦闘民族だ。ズルズルと脱衣所に引き戻され、逃げ場を失う。
「待て待て! わかった、洗い直すから! 一人でやるから!」
「信用できません。今の兄さんは自分の体の価値を全く理解していない、無知な赤子同然です。私が手取り足取り教えます」
言うが早いか、姫子はおもむろに自分の服に手をかけた。
スルリと部屋着が落ち、白い肌が露わになる。
「な、ななな何やってるんだ姫子ォオオ!?」
俺は慌てて後ろを向き、両手で顔を覆った。
「なんで脱ぐんだよ! 兄妹だぞ!?」
「入浴指導をするのに服を着ていたら濡れるでしょう? 合理的判断です」
「合理的とかそういう問題じゃなくてだな!」
「大丈夫ですよ。私はタオルを巻いて隠しますから。残念でしたね」
「残念がってねえよ!? 何を言ってるんだお前は!」
抗議も虚しく、俺のパジャマは姫子の手によって無慈悲に剥ぎ取られた。
「ひゃっ! 手がつめたっ!」
「大人しくしてください。ほら、行きますよ」
抵抗虚しく、俺は全裸のまま浴室へと連行された。湯気が充満する空間に、俺とバスタオルを巻いた姫子、二人きり。
……なんだこの状況。エロゲか? いや、血の繋がった双子の兄妹はもっとタチが悪いぞ。
「座ってください」
姫子に促され、俺は小さくなって風呂椅子に座る。
鏡に映るのは、不貞腐れた顔をした美少女(俺)と、その後ろで妖しく微笑む美少女(妹)だ。
絵面だけ見れば天国だが、当事者としては地獄である。
幼い頃ならまだ良いが、俺達は高校生だぞ。
何らかの刑事罰が発生しないのか?
「まずは髪からです。兄さん、いつも通りにやってみてください」
「おう。こうだろ?」
俺はシャンプーを手に取り、頭皮にこすりつけてガシガシと力任せに洗おうとした。男ならこれが基本だ。
爪を立てて汚れをこそぎ落とす快感。
バシッ!
「痛っ!?」
俺の手が姫子にはたかれた。
「ダメです! なんですかその野蛮な洗い方は! 親の仇みたいに擦らないでください!」
「えぇ……だって痒いところとか……」
「女の子の頭皮は繊細なんです! 爪を立てるなんて言語道断。まずはブラッシングで汚れを浮かせ、予洗いを入念に。シャンプーは手で泡立ててから、指の腹で優しくマッサージするように洗うんです」
姫子の指が、俺の頭皮に触れた。
「こうやるんです。優しく、円を描くように……」
細い指先が、とろけるような手つきで髪を梳いていく。
……あ、これ、すげぇ気持ちいい。
人に髪を洗ってもらうなんてまるで美容院だが、姫子の手つきは妙に丁寧で、それでいて繊細だ。
うなじのあたりを洗われる時、ぞわりとした感覚が背骨を走る。
「次は体です。はい、スポンジ」
「おう」
俺は渡されたスポンジで、ゴシゴシと腕を擦り始めた。摩擦こそ正義。垢よ落ちろ。
「ストップ!!」
「またかよ!」
「だから力任せに擦らない! 肌が赤くなってるじゃないですか!」
姫子は呆れ顔で俺からスポンジを奪い取ると、たっぷりの泡を作り出した。
「いいですか? 今の兄さんの肌は、高級な桃の表面と同じだと思ってください。少しの衝撃で傷つくんです。泡で包み込んで、撫でるように洗うのが正解です」
姫子の手が、泡まみれのスポンジを滑らせて俺の背中を洗う。
柔らかい。優しい。
そして、手が前に回ってくる。
「ひゃうっ!?」
敏感になっている胸元を、泡が、いや、姫子の手が包み込んだ。
「ちょ、姫子! そこは自分で!」
「ダメです。兄さんはどうせ雑に洗うでしょう? ここは特にデリケートな場所なんですから、下から持ち上げるように……」
「説明が具体的すぎる! あと揉むな! 洗う動きじゃないぞそれ!」
「何を勘違いしているのですか。これだけ大きいのですから、こうやって持ち上げたり形を変えたりしないと、谷間や胸の下の汚れが洗えないんですよ。……ふぅ……はぁ……はぁ……」
「どうした!? 鼻息荒いぞ!? 本当に大丈夫か!?」
そんな攻防を繰り広げること数十分。
髪のトリートメントから、足の指一本一本のケアまで、姫子のスパルタ(どこかセクハラじみた)指導は続いた。
「女の子って……マジでめんどくせぇ……」
俺はげんなりとしながら、ようやく許しを得て湯船に向かった。
はー、やっと温まれる。
ドボン、と湯船に浸かろうとした、その時。
「ああもう! 兄さん!」
「な、なんだよ今度は!」
「髪! 湯船に浸かってます! 長い髪は頭の上でまとめるか、タオルで巻いてください! 不衛生でしょう?」
「あ、そうか……ごめん」
忘れてた。テレビでも温泉番組とかでよくやってるやつね。
言われた通りに髪をまとめ、ようやく肩までお湯に浸かる。
ふぅ、と漏れる吐息。体の芯まで温かさが染み渡るようだ。
ふと横を見ると、姫子が満足そうに俺を見下ろしていた。
いろいろと煩かったが、結局のところ、こいつは俺のことを心配して世話を焼いてくれているのだ。
昨日の今日で、俺がまともな女子生活を送れるか不安だったのだろう。
文句ばかり言っていたが、感謝くらいは伝えねばなるまい。
俺はパーフェクトな生徒会長だからな。礼儀は欠かさない。
俺は湯船から顔を上げ、笑みを浮かべた。
「ありがとうな、姫子。おかげで正しい風呂の入り方ってやつがわかった気がするよ。やっぱお前は頼りになる妹だ」
俺の言葉に、姫子の動きがピタリと止まった。
目を見開き、頬がわずかに朱に染まる。
「……っ」
数秒の沈黙。
やがて彼女は、視線を逸らしてボソリと呟いた。
「……わかれば、良いのです」
そして。
バサッ。
姫子は身体に巻いていたバスタオルを、躊躇なく床に落とした。
「ぶほっ!?」
俺は湯船の中でむせ返った。
白い肌。なだらかな曲線。俺とは違う、スレンダーでモデルのような女性的肉体が露わになる。
そして姫子は何食わぬ顔で風呂椅子に座り、シャワーを浴び始めた。
「ちょ、ちょちょちょ! 姫子!? なんで脱いでるんだ!?」
俺は目を逸らしながら叫ぶ。壁のタイルを見つめる視線が泳ぐ。
「なんで、とは? 体や髪を洗うのに服を着ている人間はいませんよ」
「そうじゃなくて! なんで今、ここで、俺がいるのに入り始めるんだよ! 指導は終わっただろ!?」
「何言ってるんですか。このまま一緒に入ったほうが効率的でしょう? お湯の節約にもなりますし」
「効率とか節約とかの問題じゃねえ! 兄妹だぞ!? 年頃の兄妹が一緒に入るなんておかしいだろ!」
俺の抗議に対し、姫子はシャワーの手を止めず、鏡越しに俺をチラリと見た。その目には、挑発的な色が宿っている。
「……兄さん。今の私たちは『女同士』じゃないですか」
「それは……そうだけど、中身は男だ!」
「あら。それともなんですか? 兄さんは、妹の裸を『異性として』意識するというのですか?」
ニヤリ。
悪魔的な笑みがそこにあった。
これは罠だ。「意識する」と言えば変態扱いされ、「意識しない」と言えば混浴を正当化される。完全なる二択の地獄。
だが、俺に大切な妹を性的な目で見る趣味はない! 断じてない!
「そ、そんなわけないだろ! 俺はお前を家族としてしか見てない!」
「なら、良いじゃないですか。何も問題はありませんね」
姫子は勝ったと言わんばかりに鼻歌を歌い始めた。
「~~♪」
シャワーの音。石鹸の香り。
すぐ隣、手を伸ばせば届く距離で、妹が鼻歌交じりに身体を洗っている。
なんでこんなに上機嫌なんだコイツ……鼻歌を歌う姿なんて生まれて初めて見たぞ?
チャプ、と水音が響くたびに、俺の心臓は早鐘を打った。
なんなんだこの状況は。どうなってるんだ。
俺は男だったはずだ。昨日までは、こんなこと絶対にありえなかった。
それが今や、女子になったというだけで、妹と風呂に入り、女子としてのイロハを教え込まれ……。
頭が沸騰しそうだ。のぼせたわけじゃない。
困惑と恥ずかしさで、脳みそがショート寸前なのだ。
ダメだ、耐えられん!
「お、俺、先に上がるからな!」
これ以上の滞在は精神衛生上危険すぎる。
俺はバシャリと湯船から立ち上がり、逃げるように洗い場へと足を踏み出した。
だが、それが間違いだった。
姫子が使ったボディソープの泡が、床に残っていたのだ。
「あっ」
ツルッ。
足が虚しく空を切る。視界が回転する。
今の俺の運動神経では、体勢を立て直すことなど不可能だ。
「兄さん!」
姫子の悲鳴が聞こえた。
彼女は反射的に立ち上がり、倒れ込む俺を支えようと手を伸ばす。
しかし、お互い裸で立つ浴室の床は踏ん張りが効かない。
結果として、俺たちは二人もつれ合うようにして、洗い場の床へと倒れ込んだ。
ドタンッ!
「いててて……」
背中と腰に衝撃が走る。だが、思ったほどの痛みはない。
「ご、ごめん姫子、大丈夫か? 怪我は……」
目を開けた俺は、言葉を失った。
姫子が俺の体の上に覆いかぶさっていた。
いや、正確には「俺の胸」に埋もれていた。
俺が下敷きになり、姫子が覆いかぶさる体勢。
そして姫子の顔面は、俺の自慢(?)のFカップの谷間に、見事にダイブしていたのだ。
「むぐっ……」
姫子がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は焦点が定まっておらず、片手は俺の胸を鷲掴みにしてる。
彼女は何度か目をパチクリと瞬かせ、俺の顔と、自分の顔が埋まっていた場所を交互に見て……。
ツツーッ。
一筋の鮮血が彼女の鼻から垂れ落ち、俺の胸の谷間に吸い込まれる。
「ひ、姫子?」
「…………っ!!」
瞬間、姫子の顔が沸騰したやかんのように真っ赤に染まった。
「こ、これはわざとじゃ、わざとじゃないですから!! 不可抗力です! あくまで事故ですぅぅぅ!!」
姫子は奇声を上げながら立ち上がると、タオルも持たずに脱衣所へと脱兎のごとく逃げ出した。
バタン! と乱暴にドアが閉まる音が響く。
あとに残されたのは、全裸で床に転がったままの、泡まみれの俺一人。
静寂が戻った浴室に、シャワーの音だけが虚しく響いている。
「……えぇ……?」
俺は間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。
俺の「女の子」としての生活は、前途多難なんてレベルじゃなさそうだ。




