第6話 便所飯
それから、俺の「いつも通りのようでいつもとは違う」学園生活が幕を開けた。
担任の先生は、事前にうちの親から連絡を受けていたとはいえ、実際に俺を見るまでは半信半疑だったようで、教室に入ってくるなり開口一番「……マジか」と呟いていた。
各教科の担当教師たちも一様に困惑し、チョークを落としたり、出席簿の名前を二度見したりと、反応は様々だった。
無理もない。
有史以来、朝起きたら細胞レベルで性別が反転していた人間など、記録に残っていないはずだ。
フィクションの世界では使い古された設定だが、ここは現実だ。
物理法則と生物学が支配するリアルワールドだ。
しかし、それが起きてしまったのだから、受け入れるしかない。
そして、問題は授業中だけではなかった。
休み時間のたびに、廊下は黒山の人だかりとなった。
噂は瞬く間に広まり、他クラスどころか他学年の生徒までが「TSした生徒会長」を一目見ようと押し寄せてきたのだ。
生徒会長として学年問わず顔が知られていたため、元とどれほど変わったのか見比べたいのだろう。
「どれ? どの子が女の子になった会長?」
「あの窓際の子だよ!」
俺は生徒会長として、愛想よく振る舞おうと努めた。
「やあ、皆! 俺がその生まれ変わった生徒会長だぜ! よろしくな!」
笑顔で手を振ると、驚愕の悲鳴が上がる。
「えっ!? めちゃくちゃ可愛いじゃん!」
「あれがあの生徒会長!? ガチ美少女なんだけど!」
「あれが元男子!? ウソでしょ!?」
元々人前に立つことには慣れている。
視線を浴びる事に特別感はないはずだった。
休み時間のたびに人が集まり、口々に俺へと視線を浴びせる。
男だった時には日常だったはずの視線。
だが、今の視線は違う。
ただの好奇の目ではない。
一部の男子生徒の視線が、俺の顔ではなく、胸元や太ももへと注がれているのが分かるのだ。
(こんなにわかるものなんだなぁ……男に戻ったら俺も気をつけよ……)
苦笑いしながら手を振る。
この身体になってしばらくは、注目の的になるのは仕方がないだろう。
だが、注目の的になるだけなら良かったが、体育の時間に問題は起こった。
問題の発端は、着替え場所だった。
うちの高校では、男子は教室で、女子は更衣室で体操着に着替えるのが通例だ。
だが、今の俺は「中身は男、身体は女」というイレギュラーな存在だ。
俺の着替え場所を巡ってクラスは真っ2つに割れた。
「身体は完全に女子なんだから、女子更衣室を使うべきでしょ!」
「でも、中身は翔くんだよ? 男子生徒が女子更衣室に入ってくるのと同じことじゃん。それはちょっと……」
女子たちの間でも意見が分かれる。
「翔くんはもう女の子だから男子と一緒に着替えるのマズイよ」という擁護派と「そうは言っても、着替えを見られるのは恥ずかしい」という慎重派。
一方、男子たちの意見はもっと露骨だった。
「翔、お前は男だろ? だったら今まで通り、俺たちと一緒に教室で着替えようぜ!」
「そうだそうだ! 仲間外れなんて水臭いぞ!」
数人の男子が熱烈に誘ってくる。
一見、友情に厚い提案のように聞こえるが、その目は笑っていなかった。
思春期のギラギラとした、下心が透けて見えている。
佐藤が呆れたようにツッコミを入れる。
「お前らなぁ……露骨すぎるんだよ。欲望がダダ漏れだぞ」
「うるせえ! これは友情だ!」
「でもさ、この見た目で男子の中で着替えるのは良くないんじゃね? これって女装とかじゃなくて本物の女だろ……?」
議論は平行線をたどり、収拾がつかない。
このままでは貴重な体育の時間が削られてしまう。
俺は自分のせいでクラスが揉めるのを見るのが辛かった。
「……わかった! 良い案があるぞ!」
俺はパンと手を叩いて、無理やり笑顔を作った。
「俺のせいで皆に迷惑かけちゃってゴメンな? 大丈夫だよ! 俺は体育倉庫で着替えるからさ!」
「えっ、でも……」
「いいっていいって! 一人なら誰にも気兼ねしなくていいしな。よし、解決!」
俺はそう結論づけると、体操着を持って逃げるように教室を出た。
「たしかにそれなら角が立たないか」と納得する声が背後から聞こえてきた。
*
ひんやりとした空気が漂う体育倉庫。
マットの匂いと埃っぽさが鼻をつく。
俺は跳び箱の上に体操着を置くと、ふぅっと息を吐きながらブレザーを脱ぎ始めた。
「そっかー、こういう問題も出てくるよなぁ……」
慣れないスカートのホックに手をかけながら、独りごちる。
心は男性で、身体は女性。
トランスジェンダーの人たちが抱える悩みとは逆のベクトルだが、社会的な居場所のなさという点では共通するのかもしれない。
そんなことを考えていた、その時だった。
ギギィ……。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
「え?」
俺は慌ててシャツのボタンを留め直した。
隙間から顔を出したのは、クラスメイトの遠藤だった。
先程の議論で「ぜひ俺たちと一緒に着替えよう」と強く主張していた一人だ。
「えっ、ちょっ……遠藤? 何やってんだよお前。着替え中だぞ」
「……」
遠藤は無言のまま中に入ってくると、後ろ手で静かに扉を閉めた。
そして、鍵をかけた。
カチャリ、という金属音が、やけに大きく響いた。
「おい、どうしたんだよ。何か用か?」
「なあ、翔」
遠藤が近づいてくる。その顔は、俺が見たことのないものだった。
「胸、触らせてくれよ」
「……は?」
俺は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
思考がフリーズする。
「何を言ってるんだお前……? 俺だぞ? 翔だぞ?」
「いや、ほら。お前も男だからわかるだろ?」
遠藤はヘラヘラと笑いながら、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「男子だったら、おっぱい見たいし触りたいじゃん? それは本能だろ? でも、普通の女子にはこんなこと言えないし、言ったら犯罪になるけどさ……」
「……っ」
「お前は中身は男なんだから、いいだろ? 減るもんじゃないし。ちょっと揉ませろよ。なぁ、いいだろ? どんな感じなんだ? どんくらい柔らかいんだよ?」
ゾワリ。
全身の毛穴という毛穴から、鳥肌が立った。
恐怖? いや、これは嫌悪感だ。
生理的な、拒絶反応。
「お前……!」
俺は後ずさり、跳び箱に背中をぶつけた。
両腕で自分の身体を強く抱きしめる。
「今日一日、俺のことそんな目で見てたのかよ!? 友達だと思ってたのに……ふ、ふざけんなよ!!」
叫び声が裏返る。
男として、彼の「触りたい」という欲求自体は理解できる。
俺だって男だ。エロいことは考える。
だが、まさか自分がその「対象」として見られ、消費されようとしているという事実に、今まで感じたことのない吐き気がこみ上げてきた。
「うっ……く……」
目に涙が溢れてくる。
怖い。気持ち悪い。触られたくない。
俺の泣きそうな顔を見て、遠藤がハッとしたように足を止めた。
憑き物が落ちたような顔になる。
「あ……」
「出ていけよ! 二度と近づくな!」
「ご、ごめん! そんなに嫌だとは思わなくてさ! 男同士なら『いいよ』ってなるかなって、軽い気持ちだったんだよ! 悪かったよ! 忘れてくれ!」
遠藤はバツが悪そうに謝ると、慌てて鍵を開け、逃げるように体育倉庫から出ていった。
バタン! と扉が閉まり、再び静寂が戻る。
俺はその場にへなへなと座り込んだ。
心臓が早鐘を打っている。
震える手で、自分の膝をさする。
(……そういえば)
今日一日、俺に向けられていた視線。
廊下で、教室で、すれ違いざまに。
「可愛い」という純粋な称賛に混じって、彼らの一部もまた、遠藤と同じように俺の身体に興奮し、あわよくば触りたいと思っていたのだろうか。
昨日まで「イケメン生徒会長」として浴びていた視線とは全く違う。
欲望の視線。
「っ……」
寒気が全身を駆け巡る。
俺は今までの人生で体験したことのない、得体の知れない恐怖に震えながら、膝に顔を埋めた。
*
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、俺は弁当を持って教室をこっそりと抜け出した。
誰にも見られない場所で、一人になりたかった。
逃げ込んだ先は男子トイレの個室だった。
「はぁ……なんだか動物園のパンダの気持ちが分かった気がする……」
鍵をかけた個室の中で、俺は便座の蓋の上に座り込み、弁当箱を開けた。
卵焼きを一口食べる。味がしない。
ただただ、情けなくて、惨めな気持ちが込み上げてくる。
まさか自分が「便所飯」という行為をする日が来るなんて。
「うっ……」
視界が滲む。
俺は膝を抱えて、小さく鼻をすすった。
「何やってるんですか、兄さん」
聞き慣れた声が、頭上から降ってきた。
ビクリと肩を震わせ恐る恐る見上げると、個室のドアの上から、姫子がひょっこりと顔を出して覗き込んでいた。
「ひっ、姫子!? お前何やってるんだよ!?」
「それは私のセリフです。生徒会長ともあろうものが、何を情けないことをしているのですか。まずはドアの鍵を開けてください」
「い、いやだ! 俺はここで一人で食べるんだ!」
「開けなさい。私にはこの程度のドアを壊すことなど造作も有りませんよ?」
姫子の有無を言わせぬ圧力に負け、俺はしぶしぶ鍵を開けた。
ガチャリと音を立ててドアが開くと、姫子は呆れた顔で俺を見下ろし、その手首を掴んだ。
「私についてきてください。それと、兄さんは今後女子トイレを使ってください。生物学的には女性なのだから、こんなむさ苦しいところに入っちゃいけませんよ」
「離せよ……どこに行くんだよ」
姫子は俺の抵抗など意に介さず、強引に手を引いて歩き出す。
廊下に出ると、そこは案の定、地獄絵図だった。
俺を捜して集まった生徒たちが「おい、どこだよ会長」と言いながらひしめいている。
「……ごめん、姫子。ちょっと俺、気分が悪くってさ……一人になりたいんだ……」
「……」
俺は足を止め、俯いた。
こんな惨めな姿を、妹に見られたくなかった。
「……大丈夫ですよ、兄さん」
姫子は短く言うと、俺の手を離し、一歩前に出た。
「あっ! あの子が生徒会長らしいよ!」
「どこどこ!? うっわ、胸でっか!」
無遠慮な声を上げる生徒たち。
姫子は彼らをキッと睨みつけると、一度大きく息を吸い込んだ。
「――ッ!!」
そして。
「うちの兄さんは見世物じゃないんですよ! 散れ! 目障りだ!!」
ビリビリと空気を震わせるような怒号が、廊下に響き渡った。
騒いでいた生徒たちが、一瞬にして凍りつく。
「白雪姫」と呼ばれ、普段は冷淡だが静かな彼女が、これほどの大声を張り上げるとは誰も予想していなかったのだ。
姫子は唖然として固まる生徒たちをかき分け、ギャラリーの中に混じっていた数学教師の前に立ちふさがった。
「先生まで何をやってるんですか!」
ビシッ、と人差し指を教師の鼻先に突きつける。
「兄は好奇の目に晒されたせいで疲弊してるんです! 生徒を指導するのが貴方の仕事でしょう!? 野次馬根性で見てる暇があったら、さっさと収集をつけなさい!!」
射殺すような視線と言葉のナイフ。
数学教師はハッとして、顔を真っ赤にした。
「そ、そうだな! お、お前ら教室に戻れ! ほら! 早く!」
「ちぇーっ」
「こえー、白雪姫マジギレじゃん……」
教師の指示と、何より姫子の迫力に恐れをなして、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。
誰もいなくなった静かな廊下。
姫子は満足そうに溜息をつくと、何事もなかったかのように俺の手を取り直した。
「さあ、戻りましょう教室へ。早くお昼ご飯を食べないと、休憩時間が終わってしまいますよ」
「あ……」
俺は涙ぐみながら、姫子の背中を見つめた。
俺を守るために、こんな汚れ役を買って出てくれたのか。
「あ、ありがとう姫子……俺のために、こんな嫌われ役をさせてしまうなんて……」
情けない。兄として、妹に守られるなんて。
俺が声を震わせると、姫子は振り返った。
そこには、いつもの冷たい毒舌家の姿はなかった。
「……」
彼女は優しく、慈愛に満ちた瞳で微笑んだ。
「何があっても、私が絶対に守ってあげますから。だから、もう泣かないでください」
その言葉は、かつて俺が、泣いている小さな姫子に誓った言葉と同じだった。
立場は逆転してしまったけれど、俺たちの絆は変わっていなかったんだ。
俺は涙を拭い、強く頷いた。
「ああ……ありがとうな、姫子」
俺たちは手を繋ぎ、教室へと戻っていった。
その時の俺はまだ知らなかった。
姫子のその言葉が、単なる兄妹愛以上の、もっと深く重い感情から出たものであることを。




