第57話 公開デレ期
姫子が俺の布団に潜り込んできて、二人で一緒に寝たという衝撃の夜から一夜明けた翌朝。
俺と姫子が連れ立って教室のドアを開けた瞬間から、2年A組の空気はどこかおかしかった。
「……なぁ、気のせいか? 今日、あの一条兄妹、なんか距離近くないか?」
「それどころか、ヒメちゃんが翔くんの袖をずっと軽く掴んでるんだけど……。あの氷の視線で翔くんを射殺しそうだった白雪姫が、あんなデレデレな顔するの……?」
教室のあちこちから、ひそひそとしたざわめきが聞こえてくる。
無理もない。これまで俺たち兄妹は、少なくとも学校では一方的に妹から冷たくあしらわれている兄という扱いで通っていたのだ。
俺が声をかけても姫子には毒を吐かれ、常に距離を置かれていた。
だが、昨日姫子は胸の内を明かしたことで、何か決定的なスイッチが入ってしまったらしい。
朝から俺の隣をキープして離れようとせず、周囲の目など一切気にする様子がないのだ。
俺はと言えば、その急激な変化に戸惑いっぱなしで、頬を引きつらせて作り笑いを浮かべることしかできなかった。
そして、事件は1時間目終わりの休憩時間に起きた。
俺はいつものように、男友達の進藤と佐藤の席の近くに立って、昨日のテレビ番組の話で盛り上がっていた。
いつもなら、姫子はこの時間、自分の席で静かに文庫本を読んだり、数人の女子の友人と談笑しているはずだった。
だが、コツ、コツと硬い足音を響かせ、まっすぐに俺たちの輪に向かって歩いてくる美少女が一人。
姫子だった。
「兄さん」
「お、おう? どうした姫子」
「そんな男臭い連中と絡まずに、私と遊んでください」
そう言って、姫子は俺の右腕を両手でぎゅっと掴んできた。
細くしなやかな指が俺の腕に食い込む。
「えっ、姫子ちゃん俺達と遊びたいの!?」
いち早く反応したのは、非モテで万年彼女募集中の進藤だった。
デレデレとだらしない顔を浮かべて身を乗り出すが、姫子はそんな進藤の存在など視界に入っていないかのように完全にガン無視する。
「さあさあ、兄さん。兄さんは今やれっきとした『女の子』なんですから、いつまでもこんな発情期の猿みたいな男と仲良くしてたら、妊娠しちゃいますよ?」
「ぶふっ!?」
あまりにも直球すぎる姫子の言葉に、俺は思わずむせてしまった。
妊娠って! 俺の中身はまだゴリゴリの男だぞ!? いくらなんでも飛躍しすぎだろう!
妊娠ってことは進藤と俺がベッドの上で……!? お、オエエエエエ!
なんて想像をさせるんだ姫子! オゲエエエエエエエ!
教室中が水を打ったように静まり返り、次いで「えっ」「今なんて言った?」「妊娠……!?」とざわめきが爆発する。
見かねた佐藤が、呆れたような顔で口を開いた。
「姫子ちゃん、いくらなんでもそりゃ言い過ぎだろ。翔は俺達にとっても大切な友人だぜ? いきなり勝手に連れて行かれても困るよ」
佐藤の言う通りだ。俺だって男友達との他愛もないバカ話は、俺が俺を男として認識できる貴重なオアシスなのだ。
しかし、姫子はジロリと冷ややかな視線を佐藤へと向けた。
「そうですか。でも、私だって大好きな兄さんと一緒に過ごしたいんです。今まで我慢していた分、一秒でも長く一緒にいたいんですから、邪魔しないでいただけますか?」
「だ、大好きな……っ!?」
佐藤が絶句し、教室が再び大きくどよめいた。
あの姫子が。兄である俺に向かって、毎日のように毒舌を吐き捨てていた猛毒白雪姫が、クラスメイトの前で堂々と『大好きな兄さん』と宣言したのだ。
クラスメイトたちの「嘘だろ」「天変地異の前触れか」といった顔が、今の状況の異常さを物語っていた。
「ま、まあまあ姫子! 気持ちは嬉しいけどさ、今はこいつらと話してたんだから、な? お前とは昼休みの時間にでも話そうぜ? な?」
俺は冷や汗をだらだらと流しながら、必死の笑顔を作って姫子を宥める。
ここでこれ以上拗らせたら、俺の兄としての尊厳はおろか、クラス内の人間関係まで崩壊しかねない。
姫子は俺の言葉に、少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、やがて小さくため息をついた。
「……わかりました。それでは、次の昼休み時間以降はずっと私とお話しましょう」
「バランス! バランスよくな!? あとは時と状況で! 男同士の友情も大事だからな!?」
俺は慌てて補足するが、姫子は「……わかりました」と渋々といった表情で頷いた。
よし、なんとか切り抜けた。
俺が安堵の息を吐いたその時、場の空気が読めない進藤が再び口を挟んできた。
「じゃ、じゃあさ、姫子ちゃんも俺達と遊ぼうぜ! そしたら俺達も姫子ちゃんもハッピ──ぎゃああああああ!?」
進藤の提案は、最後まで言い終わることはなかった。
振り返りざま、姫子の白くて細い手が、進藤の顔面を鷲掴みにしていたからだ。
凄まじい握力によるアイアンクロー。ギリギリと骨の軋むような音が聞こえてきそうだ。
「ひ、姫子ちゃん!? 顔、顔がっ! 痛い痛い痛い!」
「気安く私に話しかけないでください。兄さんとの貴重な時間を邪魔した罪は万死に値しますよ」
氷の刃のような声で言い捨て、姫子は進藤の顔面を振り払うと、ツンと澄ました顔で自分の席へと戻っていった。
自分の席に戻った姫子を待ち受けていたのは、当然のように彼女の友人女子たちだった。
「え!? ちょっとどういう事!? ヒメちゃん、翔くんの事、嫌ってたんじゃないの!?」
興奮気味に問い詰める友人たちに、姫子は全く悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張って答えた。
「いいえ? 今までの私は偽りでした。本当の私は、兄さん大好きラブチュッチュですよ?」
「キャアアアアアッ!!」
「嘘ー!? なにそれヒメちゃんそんな事言えたのー!?」
姫子の口から飛び出した「ラブチュッチュ」という謎の単語に、女子たちの黄色い歓声が教室に響き渡る。
ラブチュッチュってなんだよ……。いつの時代の言葉だ。
俺は頭を抱えながら深いため息をついた。
すると、顔面を赤く腫らした進藤が、フラフラと立ち上がりながら俺の両肩をがっしりと掴んできた。
「おいおいおい! お前、何があったら嫌われてたはずの猛毒白雪姫にあんなに好かれたんだよ!? 俺にも教えろ! 俺もあんな風に好きになってもらえるようにしてくれよ!」
必死の形相で迫ってくる進藤。近い! 顔が近いんだよ!
すると、その背後に凄まじい殺気を放つ影が接近していたが、彼は気づかなかった。
「汚い手で兄さんに触れるな!!」
「ぎゃあああああああっ!?」
メキッという鈍い音と共に、進藤の後頭部に再びアイアンクローが炸裂した。
そのまま床に沈んでいく進藤を見下ろしながら、俺は「あはは……」と乾いた笑いをあげるしかなかったのだった。
*
波乱の午前中が終わり、待ちに待った昼休み。
俺は約束通り、購買で買ってきたパンを片手に姫子の席へと向かった。
そこには姫子だけでなく、数人のクラスメイトの女子たちも机をくっつけて昼食をとっていた。
「わあ! 翔くんだ!」
「こっちこっち! 一緒に食べよ!」
「いつも男の子とばっかり遊んでるから、せっかく可愛い女の子になったんだし、私たちも一緒に遊びたかったんだよねー!」
女子特引の明るく華やかな歓迎ムードに、俺は完全に気圧されていた。
「あ、ああ……よろしくな」
ぎこちなく挨拶をして空いている椅子に座ると、途端に女子たちがぐいっと顔を寄せてきた。
近っ! 近いよ!
「凄い……至近距離で見ると、お肌めっちゃ綺麗……。男の子の時もカッコよかったけど、女の子になっても物凄く可愛いよね」
「本当! まつ毛長いし、毛穴全然ないじゃん! 洗顔とか乳液とか何使ってるの!?」
「えっ? あ、いや、洗顔は普通にドラッグストアで売ってる安いやつで、乳液なんて母さんが使ってるのを借りてるだけで……」
「嘘!? それでこの肌質!? ずるーい!!」
俺の適当なスキンケア事情に、女子たちから非難とも賞賛ともつかない悲鳴が上がる。
さらに、背後に回った一人の女子が、俺のセミロングになった髪に手を伸ばしてきた。
「ねえねえ、髪の毛弄らせて! 翔くん、絶対ポニーテール似合うと思うんだよね!」
「えっ、ちょ、ちょっと待っ──」
俺の抵抗も虚しく、鮮やかな手つきで髪がまとめられ、シュシュで結ばれていく。他にも、サイドを編み込みにされたり、ハーフアップにされたりと、俺の頭はすっかり彼女たちの着せ替え人形状態になっていた。
「きゃー! かわいいー!!」
「ほら、スマホのインカメ見てみて! 超絶美少女爆誕だよ!」
画面に映る自分の姿を見て、俺はドキッとした。
確かに、見慣れないヘアアレンジをされた自分の姿は、認めたくないほど『可愛い女の子』そのものだったからだ。
そんな俺を眺めながら、姫子は隣でうんうんと深く頷いている。
「そうでしょう、そうでしょう。兄さんは誰よりも可愛いですからね。私の自慢の兄さんです」
得意げにふんぞり返る姫子の様子は、まるで自分の宝物を自慢する子供のようだ。
俺はといえば、完全にカチコチに固まっていた。
生徒会長という立場上、人前で話すことには慣れている。
昔から顔が良かったから、女子にキャーキャー言われることにも耐性はあるつもりだった。
だが、それはあくまで『男』としてのモテ方だ。
こうして女子の輪の中に『同性』として混ざり、ガールズトークやヘアアレンジの標的にされるなど、人生で初めての経験だった。
女性と付き合ったこともなく、放課後は男連中とアホなことをして遊んでばかりだった俺にとって、この空間の女子力はあまりにも致死量が高すぎたのだ。
「あれー? 翔くん、ひょっとして私たちに囲まれて緊張してるの?」
「ほんとだ! 顔真っ赤になってる! 可愛い~!!」
俺の硬直具合に気づいた女子たちが、さらに面白がって距離を詰めてくる。
ダメだ、息が、息ができない……! 誰か助けてくれ!
俺が心の中で悲鳴を上げたその時、バッ、と姫子が俺の体に抱きついてきた。
胸の感触……胸? 胸かこれ? とにかく多分胸の感触と、姫子の体温が背中から伝わってくる。
「あの! 兄さんは私の兄さんですからね! あまり気安く触らないでください!」
姫子はぷくぅと頬を膨らませ、女子たちを牽制するようにむくれている。
「あはは! ヒメちゃん嫉妬してるの?」
「本当に、お兄さんの事が好きってマジだったんだねー。美形同士が抱きついてるのぎゃんかわ~!」
姫子の独占欲むき出しの態度すらも、女子たちにとっては絵になる風景でしかないようだった。
キャッキャと盛り上がる女子高生たちの中心で、身動き1つ取れなくなった俺は、遠くの席で弁当を広げている男友達の姿を羨ましく見つめる。
(進藤……! 佐藤……! 頼む、俺を助けてくれ……!)
あんなに当たり前だった男同士のバカで気楽なノリが、今の俺にはたまらなく恋しく思えてならなかった。




