第54話 恋愛狼の聖域
「おい、待てよ! 待てってば姫子ー!」
一人で猛ダッシュして走り去った姫子を追いかけ、俺は川沿いの土手を必死に走っていた。
バストサポートバンドのおかげで胸の揺れこそ抑えられて走りやすくなっているものの、やはり絶対的な体力差はいかんともしがたい。
あっという間に姫子の背中は小さくなり、カーブの先へと消えてしまった。
「はぁっ……はぁっ……あいつ、マジで速すぎる……っ」
膝に手をついて息を整えていると、不意に、背後から明るく元気のいい声が降ってきた。
「おっ、会長じゃん! ちーっす!」
「ん……?」
今度は誰だろうと、荒い息を吐きながら声のした方へと振り向く。
そこに立っていたのは、長い金髪をなびかせ、耳元のピアスをキラキラと光らせたギャル。
ひよりのクラスメイトである、伊藤留美子ちゃんだった。
「ランニングですかー? 爽やかな趣味ですね!」
留美子ちゃんは、スポーツウェア姿の俺を見て、眩しいほどの笑顔でピースサインを作ってみせた。
俺は一旦姫子を追いかけるのを諦め、彼女に向かって軽く手を振り返した。
「ああ。クレーンゲームの時以来だね。久しぶり」
「ですねー! 今日も一段と可愛いっすよ、会長!」
「はは、ありがとう。……そういえばさっき、あっちの方で恵美ちゃんとひよりとも会ったよ。キミは今日、二人とは一緒じゃないんだな」
てっきりこの三人は、休日もいつも一緒に遊んでいる仲良しグループなのだと思っていた俺は、少し不思議に思って尋ねてみた。
すると、留美子ちゃんは「あー。今日かぁ」と、何かに合点がいったように顎に手を当てた。
「今日はですねぇ、月に一度の『二人っきりの日』なんですよ」
「二人っきりの日?」
謎の単語に、俺は思わず首を傾げた。
留美子ちゃんは少しだけ声を潜め、周囲を警戒するようにキョロキョロと見回してから、俺のすぐ近くまで歩み寄ってきた。
「ひよりの先輩だから話しますけど……今からする話は、絶対に誰にも言わないでくださいよ?」
内緒話のお願い。
一体何を言われるんだとドキドキしながら、俺は真剣な顔で頷いた。
「え? あ、ああ。キミがそう言うなら、勿論約束するよ」
「えっとですね……先輩は、恵美が男も女もどっちもイケるって知ってますよね。そして……恵美にデートをお願いされて、キスされたんですよね?」
「はッ!?」
爆弾発言だった。
心臓が跳ね上がり、俺は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げてしまった。
「な、なんでその事をキミが知ってるんだ!?」
「あはは、やっぱり本当だったんだ! 恵美が私に、すっごく嬉しそうに報告してきたんですよ。『告白は断られちゃったけど、ファーストキスは貰っちゃった! あ~先輩本当に可愛かったなぁ。いつか本気で付き合ってほしいな~!』って」
留美子ちゃんは、恵美ちゃんの口調を真似ながらケラケラと笑う。
俺は、自分の人生で最も重大なイベントであるファーストキスの喪失が、女子高生たちのネットワークで筒抜けになっていたという事実に、顔から火が出るほどの羞恥を覚えた。
「あぁ、気にしないでくださいよ会長。あの子、本当に見境ないんで。私なんて、あの子と仲良くなった二ヶ月後に、『ねぇねぇ留美子ちゃん。私と一度セックスしてみない?』なんて、とんでもない事言われたんですから」
「え、うえええええええええええええええ!?」
今度こそ、俺は土手に響き渡るほどの大声で叫んでしまった。
「そ、そんな馬鹿な! いくらなんでも、大事な同性の友人に、ちょっと遊びに行かない? くらいのノリで、そんな提案をするなんて……っ!」
「あはは。イカれてますよね、恵美。理由は、『だってだって、留美子ちゃん、友達として私に優しくしてくれるし居心地も良いから、次は身体の相性が知りたいんだもん。お願い!』ですって。私は同性の友人にまさかそんな事言われるだなんて思わなかったから、思いっきりゲンコツを食らわせちゃいましたよ」
留美子ちゃんは、まるで昨日食べたごはんの話でもするかのように、あっけらかんと笑い飛ばした。
俺の脳裏に、佐藤が言っていた『あの子にとってはキスなんて挨拶の延長みたいなもんで、肉体関係だって大ベテラン』という言葉がフラッシュバックし、思わず顔をしかめる。
「で、そんな見境のない恵美がですね。月に一度、ひよりと二人っきりで遊ぶ日があるんですよ。その日は、私や他の友人には口車を合わせさせて、『今日は別の子と遊ぶ予定がある』って事にするんです」
「え!? 何で!?」
留美子ちゃんの言葉に、俺は意味がわからず困惑する。
「ま、まさか恵美ちゃんは、二人きりになったところで、ひよりとセ……寝ようと狙ってるのか!?」
いじめからひよりを救い、陰ながら見守ろうと誓っていた恵美ちゃんが、まさかそんな狼のような目的でひよりと二人っきりになろうというのか。
俺が本気で心配していると、留美子ちゃんは「あはは、逆なんですよ」と笑って否定した。
「いろんな人との相性を確かめたがる恵美が、唯一絶対に迫らない相手……『不可侵の聖域』が、ひよりなんです」
「唯一迫らない相手? 不可侵の聖域?」
俺は完全に混乱した。
付き合った相手は優に二桁を超え、教師とも関係を持ち、俺や、あろうことか同性の友人である留美子ちゃん、さらには初対面の姫子にまで迫ったあの恋愛暴走機関車のような恵美ちゃんが。
ひよりにだけは、絶対に手を出さない?
一体、どういうことだ。
そういえば、俺とデートしてキスしたことも、さっきの様子だとひよりには全く教えていなかった。
「月に一度、恵美はひよりと二人っきりで遊びます。この日はあの子、ただ純粋に、一人の友人としてひよりと遊ぶんですよ」
「それは……どういった意図で?」
「ひよりはね、会長。恵美がいろんな相手と付き合ってたことを知らないし、自分の特殊な恋愛事情のこともひよりには完全に黙ってるんですよ? なんでだと思います?」
留美子ちゃんから謎掛けのように尋ねられ、俺は腕を組んで考え込んだ。
何を言いたいのか全く察せられず、とりあえず思いついたことを口にする。
「えっと……一番の親友だから……とか?」
「うーん、惜しい!」
留美子ちゃんは、指で大きくバッテンのジェスチャーを作って、悪戯っぽく笑った。
「正解は、『恋愛大好き恵美ちゃんの本命中の本命が、ひよりだから』でしたー!」
「────ッ」
その瞬間、俺の頭の中で全てのピースがカチリと音を立ててはまった。
本命中の本命。
それはつまり、恵美ちゃんが本当に、心の底から真剣に恋愛対象として愛しているのが、天道ひよりだということ。
だからこそ、自分が恋愛経験豊富で、肉体関係も多いという事実がバレて、ひよりに引かれるんじゃないかと恐れているのか。
そして、本気の、生涯でたった1つの本物の愛だからこそ。
俺や他の人に迫るように、軽いノリで関係を求めることは絶対にできない。
普通の、ピュアな恋愛のように、ゆっくりと時間をかけて、大切に関係を深めたいと願っているのか……!
(すげえ……! あの恋愛ベテラン狼の恵美ちゃんが、本命の相手に対しては、そんな乙女みたいなピュアな感情を抱えていたなんて……っ!)
想像を絶する純愛に、俺は心底驚愕し、言葉を失った。
「これ、絶対誰にも言わないでくださいよー?」
留美子ちゃんは、クスクスと笑いながら続けた。
「以前、私に迫ってきたみたいに、ひよりには告白しないの? って尋ねたら、『ひよりちゃんは……そんなんじゃないから!』って、私が気持ちに気付いてないと思って必死に誤魔化したんですよ、あの子。恋愛強者のくせに、ひよりの前でだけ不器用になるの、面白すぎでしょ」
「はは……本当に、面白いな」
留美子ちゃんの言う通りだ。
あの余裕たっぷりの恵美ちゃんが、ひよりの前でだけは、ただの不器用な恋する乙女になってしまうのだとしたら。
それはとても、いじらしくて、可愛いことだと思う。
「あれ? でも、ひよりが本命ならどうして未だに俺たちに告白するんだ? それはおかしくないか?」
「それは多分、あの子にとって本命以外との恋愛って『食事のような日常の当たり前の行為』なんじゃないですかね? ひよりに向ける感情が恋愛なら、他の人に向ける感情は親愛なんだと思います。あの子の親愛の示し方が多分、キスやセックスなんでしょうね。それくらいあの子にとってそれらの行為は特別でもなんでも無い普通のことなんでしょう。だからこそ逆に、ひよりに対してはどうしたら良いかわからず何も出来ずにいるんだと思います」
「お、おお……。もしそれが本当なら、俺の常識が全く通用しない……」
「あっはは! ホントそうですよね! 私もあの子のそんなとこはよくわからないですもん。さーて、それじゃ、私はこれで! 会長、お邪魔しましたー!」
「ああ、ありがとう留美子ちゃん。また学校でな!」
留美子ちゃんと別れ、俺は再び姫子を追いかけて走り出した。
走りながら、俺は恵美ちゃんのことを考えていた。
中学時代、いじめで心を壊されたひよりを救うために暗躍し、自分の正体を隠してまで、ツインテールになってひよりの隣に立ち続けた彼女。
特別な思いがあることは知っていたが、まさかそこまで深く、強く、純粋な想いを抱えていたとは。
いったいいつからなんだろう? 最初から? 途中から? それとも高校で再会してから?
その答えを知るのは、恵美ちゃん本人だけだ。
(なんだ。恵美ちゃん、ちゃんと可愛いところあるじゃないか)
いつか、あの不器用な狼が、大切な聖域に自分の本当の気持ちを伝えられる日が来るのだろうか。
その時の、ひよりの驚く顔と、恵美ちゃんの照れた顔を想像し。
あの二人なら、きっとすごくお似合いの関係になりそうだなと、俺は自然と優しい笑みを浮かべるのだった。




