第53話 陥落する白雪姫
爽やかな朝の空気は、一瞬にして見えない火花が散る戦場へと変わっていた。
無表情のまま、一切の感情を読み取らせない能面のような顔で、姫子が恵美ちゃんの目の前に立つ。
「恵美ちゃん……だったかしら?」
氷のように冷たい、絶対零度の声だった。
「うちの兄さんとデートしたって言ったわね? ……デートって言葉の意味は、わかってる?」
「はい! もちろんです!」
強烈なプレッシャーを放つ姫子に対し、恵美ちゃんは全く怯む様子もなく、ひまわりのような満面の笑みで即答した。
「だって私、会長の事が好きになったんです! だから、カノジョになりたくてデートを申し込んだんですよ」
ピシリ、と。
空間にヒビが入るような錯覚を覚えた。
その直球すぎる言葉に、姫子と、そして今まで事情を全く知らなかったひよりが、首の骨が折れそうなほどの勢いで同時に俺の方へと振り向いた。
「ちょっ、恵美ちゃんが翔先輩の事を好き!? し、知らない知らない! 聞いてない! いつの間にそんな事になってたんすか会長ー!?」
パニックに陥ったひよりが、俺の腕をガシッ! と掴んで前後に激しく揺さぶってくる。
「わわっ、揺らすなひより! 俺だってあの日突然言われたんだから!」
俺が言い訳をしている間にも、姫子はギリッ! と大きな音が鳴るほど強く歯を食いしばり、再び恵美ちゃんへと視線を戻していた。
「へ、へぇ……? そうなのね。……それで、ど、どうなったの?」
普段の『猛毒白雪姫』と呼ばれる完璧な彼女からは想像もつかないほど、姫子の声は微かに震え、動揺が隠しきれていなかった。
恵美ちゃんは不思議そうに小首を傾げる。
「どうなったって、何がですか?」
「だ、だから……っ。デートしたんでしょ……」
その先の言葉を聞くのが、決定的な事実を突きつけられるのが恐ろしいかのように、姫子は言葉を濁した。
すると、恵美ちゃんは「ああ!」とポンッと両手を叩いた。
「デートの結果ですね? もちろん、『付き合ってください』って告白しましたよ」
「────ッ」
その瞬間、姫子の顔からサーッと血の気が引き、真っ青に青ざめた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えているのがわかる。
恵美ちゃんは、そんな姫子の絶望的な反応をじっくりと観察し、ほんの少しだけ口角を吊り上げた後、明るい声で続けた。
「ふふっ、でも、フラレちゃいました。『付き合うってのは、もっとお互いを知ってからじゃないといけない』ですって」
「っ……! ぁ……」
恵美ちゃんの言葉を聞いた瞬間、姫子は胸を強く押さえ、肺に溜まっていた息を「ふぅぅ……」と長く吐き出した。
張り詰めていた糸が切れたように、目に見えて安堵の表情を浮かべる。
絶望から安堵へ。
コロコロと目まぐるしく表情を変える姫子を、恵美ちゃんはハンターのような鋭い瞳で見つめていた。
やがて、何かの『確信』に至ったのか、恵美ちゃんはスッと手を伸ばし、姫子の両手を優しく握りしめた。
「姫子先輩って……」
そして、信じられないほど甘く、同時に残酷な言葉を紡いだ。
「もしかしなくても、お兄さんの事が『大好き』なんですね?」
「なっ……!?」
とんでもない指摘だった。
姫子は弾かれたように顔を上げ、顔を真っ赤にして激昂した。
「け、見当違いも甚だしいわ! 初めて会ったばかりの貴方に何がわかるの!? 私が兄さんの事を好きだなんて……っ、兄妹として少しは愛情もあるけれど、貴方みたいな人に俗な感情で語ってほしくないわね!」
声を荒らげて否定する姫子。
だが、俺はその言葉の一部だけを切り取って、内心でこっそりとガッツポーズをしていた。
(そうかそうか! 優しくなったと思ったら急に厳しくなったり、俺への当たりが強くてちょっと怖かったけど、あいつも『少しは愛情がある』ってちゃんと思ってくれてるんだな! お兄ちゃん嬉しいぞ!)
毒舌はブラコンの妹が素直になれないツンデレを発揮しているのだと、俺は一人で勝手に解釈してホッコリしていた。
しかし、現場の空気は俺の呑気な思考とは全く違う次元へと突入していた。
恵美ちゃんは、何がそんなに楽しいのか、ペロリと艶かしく舌なめずりをした。
そして、握っていた姫子の手を離すと、今度は姫子の華奢な肩にそっと触れた。
「姫子先輩……すっごく可愛い」
「……は?」
突然の褒め言葉に、姫子の口から間の抜けた声が漏れる。
「可愛い。本当に可愛いです」
恵美ちゃんはそのまま、スッと距離を詰め、姫子の身体を柔らかく抱きしめるようにして背中に手を回した。
「本心を明かして、関係が壊れるのが怖いんですよね?」
「え……?」
「世間的な常識に反する自覚があるからこそ、もしその想いを受け入れられなかった場合、今の『兄妹』という修復不可能な状況すら失ってしまうのが、怖くて怖くて仕方ないんでしょう?」
俺の距離でギリギリ聞こえる程度の小さな声で耳元に囁いたその言葉は、鋭いナイフのように、姫子の心の最も深く、最も柔らかい部分を正確に抉り出していた。
一言一言が致命傷となって刺さっているのか、姫子は恵美ちゃんを跳ね除けることすらできず、石のように固まってされるがままになっていた。
「本当は誰よりも怖がっているくせに、その恐怖を誤魔化すために、必死に強がって『強いふり』をしている」
恵美ちゃんの声は、どこまでも優しく、慈愛に満ちていた。だからこそ、逃げ場がなかった。
「あ、貴方……っ、わかったような事を、べらべらと……!」
姫子は震える声で反論しようとするが、その声にはいつもの絶対的な自信や冷酷さが完全に欠落していた。
「わかるんですよ。人は、目を見ればわかります」
恵美ちゃんは姫子を抱きしめたまま、その瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「私、先輩みたいな人、いっぱい見てきましたから。……以前、先生と私が付き合った時も、『生徒と先生の関係で許されるのか』って怯えて、葛藤する目を先生はしていました。姫子先輩のお兄さんを見る目は、あの時の目にとてもよく似ています」
「……ッ」
「先輩は、とっくに覚悟を決めているつもりなんでしょうけど、心の底ではまだまだ悩み、苦しんでます。……だから、一番大切な人に、本心を明かせないんですよね?」
至近距離、あと数センチで唇が触れ合いそうな距離から紡がれる言葉。
完全に心を読まれ、逃げ道を塞がれた姫子の瞳に、薄っすらと涙が浮かび上がった。
「私は……そんな……そんなんじゃ……!」
否定の言葉が形にならず、空気に溶けていく。
あの『猛毒白雪姫』と呼ばれ、屈強な男子生徒たちすら震え上がらせる姫子が、初対面の一年生の言葉責めによって完全に圧倒され、言葉を失っている。
その信じられない光景に、俺とひよりは呼吸すら忘れて、ただただポカンと口を開けて固まることしかできなかった。
恵美ちゃんは、涙目で言葉に詰まる姫子を愛おしそうにジッと見つめた後、その黒髪を優しく撫で始めた。
「あぁ、可愛い……。姫子先輩、本当に、本当に可愛いですよ。たまらないです!」
そして、その場にいる全員の耳を疑うような、とんでもないセリフを放った。
「私と付き合ってください。私を、姫子先輩のカノジョにしてください!」
「「「ええええええええええええええッ!?」」」
俺、ひより、そして姫子の三人の叫び声が、早朝の土手に響き渡った。
兄である俺にアタックしてきたかと思えば、今度はその妹である姫子にまで告白!?
男女も年齢も問わないとは聞いていたが、まさかここまでの無差別爆撃機だとは!
「あぁ。でも、姫子先輩は私を見てはくれないですよね」
恵美ちゃんは少しだけ寂しそうに微笑むと、チラリと俺の方へ視線を向けた。
そして、ポツリと、しかしはっきりと聞こえる声で呟いた。
「うーん……普段はクールで強がってる姫子先輩が、ベッドの上でドロドロに乱れる姿が見たかったんだけどなぁ」
「は!? はぁ!? あ、貴方何を言ってるの!? 本当に何を言ってるの!?」
「先輩って、間違いなく処女ですよね? でも、その独占欲の強さは確実に性欲が強い。持て余してるその欲求、私が解消してあげましょうかぁ?」
恐ろしい分析を次々と投げかける恵美ちゃんの言葉に、顔面を青ざめさせ、限界を超えた姫子が、バッと勢いよく恵美ちゃんの腕の中から逃れ出した。
そのまま猛ダッシュで俺の背後に回り込むと、俺の背中に隠れるようにして服の裾をギュッと掴み、グイグイと背中を押してきた。
「に、兄さん! 行きましょう! 早く! 早くジョギングの続きをしますよ! こんな変質者に関わっていてはダメです!」
「お、おい! 押すなよ姫子、転ぶだろ!」
早く恵美ちゃんという得体の知れない存在から逃げ出したい一心で、姫子は俺を盾にしてその場を離脱しようとする。
俺は背中を押されながらも、振り返って恵美ちゃんとひよりに手を振った。
「じゃ、じゃあまたな、二人とも!」
ひよりは完全に魂が抜けたように放心して固まっていたが、恵美ちゃんは余裕たっぷりの笑顔で手を振り返してくれた。
「ええ。また学校でお会いしましょうね、会長! ……姫子先輩も、私が余計な姿を晒す羽目になった償いに今度私とデートしてくださいね!」
「け、結構よ!!」
姫子が半泣きのような声で叫び、ついに俺を置いて一人で猛スピードで走り出してしまった。
「お、おい、待ってくれよ姫子!」
慌てて妹の後を追いかけながら、俺は胸の内で激しく戦慄していた。
まさか、あの無敵の姫子が、一年生の後輩に完膚なきまでに敗北して逃げ出す日が来るなんて。
恵美ちゃんが姫子に何を言いたくて、なぜあそこまで姫子が動揺していたのか、俺には全く理解できなかったけれど、1つだけはっきりとわかったことがある。
(恵美ちゃん……すごい奴だし、めちゃくちゃ可愛いけど……底が知れなくて、マジで怖え……ッ!)
朝の澄んだ空気の中を走りながら、俺は改めて、女の世界の恐ろしさにブルリと身震いするのだった。




