第51話 夜のトレーニング
夕映先輩の道場を見学し、己の圧倒的な体力不足を痛感した翌日の夜。
俺は学校から帰宅し、夕食と入浴を早々に済ませると、自室のラグマットの上で一人、黙々とトレーニングに励んでいた。
「ふんっ……! ぐっ……! はぁっ……!」
入念なストレッチでカチコチの身体をほぐした後、俺が取り組んでいたのは基礎中の基礎である腹筋運動だった。
仰向けになり、膝を立て、両手を頭の後ろで組んで上体を起こす。かつて男だった頃は、50回や100回は余裕でこなせていたはずの動作だ。
しかし、女の子になって筋肉が完全に削ぎ落とされた今の身体では、恐ろしいほどの重労働だった。
男だった時との差をまざまざと突きつけられるようで、悲しくなる。
「きゅーっ……! じゅーっ……!」
たった10回。
たった10回上体を起こしただけで、俺の額には玉のような汗が浮かび、肩で激しく息をする状態になっていた。
腹の奥が焼けるように熱く、筋肉が悲鳴を上げている。
(キツい……! けど、このキツさは確実に筋肉が鍛えられている証拠だ!)
男としての闘争心が、俺を突き動かす。
俺はもう、誰かに守られるだけのか弱い存在でいたくはないのだ。
夕映先輩のように強く、そして姫子のような大切な家族を守れる力を取り戻すためにも、ここで諦めるわけにはいかない。
「よしっ……! あともう少し、頑張るぞ……っ!」
気合を入れ直し、俺は乱れた呼吸のまま、11回目の腹筋へと移行しようとした。
「はぁっ……んっ……ふぁっ……」
息を荒らげながら天井を見上げた、その時だった。
ふと、部屋のドアが数センチだけ開いていることに気がついた。
(あれ? 閉め忘れたっけ……?)
そう思って何気なく顔を向けた瞬間、俺の全身の血液が凍りついた。
暗い廊下と部屋を繋ぐ、わずかなドアの隙間。
そこから、ジッとこちらの様子を窺う『誰かの目』と、バッチリ視線が合ってしまったのだ。
「う、うわあああああああああッ!?」
ホラー映画さながらのシチュエーションに、俺は情けない悲鳴を上げて腰を抜かし、ラグマットの上を後ずさった。
ビクッ! と隙間の目が揺れたかと思うと、覗き見がバレて観念したのか、ドアがギィィ……とゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、不審者でも幽霊でもなく──。
「……こんばんは、兄さん」
気まずそうに視線を泳がせる、我が妹・一条姫子だった。
「な、なんでお前、隙間から覗いてたんだよ! 声くらいかけろよ、ビックリして寿命が縮むかと思っただろ!」
心臓をバクバクさせながら俺が非難すると、姫子はモジモジと指先を弄りながら、消え入るような小声で呟いた。
「……声が」
「な、何だって? 声がどうしたって?」
聞き返すと、姫子はサッと視線を逸らし、頬をほんのりと赤らめながら、とんでもないことをのたまわった。
「……喘ぎ声が、私の部屋まで聴こえてきたので……。てっきり兄さんが、一人でオナニーでもしているのかと思いまして……」
「────オナッ!?」
一瞬、思考が停止した。
脳内で姫子の言葉がリフレインし、意味を理解した瞬間、俺は顔面から火が出るほどの羞恥心に襲われた。
「あ、喘ぎ声!? ち、違う! そんな破廉恥な声出してない! 俺はただ、真面目に筋トレをしてただけだよ!」
顔を真っ赤にして叫びながら、俺は内心で激しく動揺していた。
(烈火先生も『エロすぎ』って言ってたけど……俺の疲れた時の息遣いって、そんなにアレなのか!? 妹に自家発電を疑われるレベルのRー18音声なのか!?)
美少女ボディの恐るべきデバフに戦慄しつつ、俺は咳払いをして姫子をジロリと睨みつけた。
「っていうか! 百歩譲って、もし本当に俺がそういうことをしていたとして、何でこっそり見に来るんだよお前!? 普通そういうのって、家族なら気がついたとしても、そっとしておくものじゃないか!?」
デリカシーの欠片もない妹の行動に抗議する俺。
しかし、姫子は悪びれる様子など微塵も見せず、むしろ不思議そうに小首を傾げた。
「いいえ? 見たいですね。元は男だった兄さんが、自分のこの女性の身体をどんな風に慰めるのか……どんな顔をして、どんな手順で行うのか、激しく気になるじゃないですか」
「お前、本当に自分の発言のヤバさに気づいてないのか……ッ!?」
真顔でとんでもない好奇心を口にする妹に、俺はゾッとして背筋を震わせた。
異性のそういった最もプライベートな場面を見たくないかといえば、正直見たくないと言うのは嘘だ。
しかし、それは赤の他人が対象の時限定の話であって、肉親のそんな場面は頼まれても見たくない。
もし今後、本当にどうしようもなく自分を慰めたい衝動に駆られたとしても、絶対に、何があってもこいつにだけはバレないよう厳重に鍵をかけて行わなければならないと、俺は心に固く誓った。
「コホン。まあ、それはそれとして」
姫子はあっさりと話題を切り替え、ラグマットの上で座り込んでいる俺を見下ろした。
「筋トレなら、私がお手伝いしますよ」
「えっ?」
「今の兄さんは、筋力も体力も一般女子以下です。そんな状態で、かつての男性時代の記憶のまま無茶な回数の腹筋を行えば、腰や首を痛めるだけですよ。基礎体力が低い内は、無理をしても絶対に長続きしません」
武道の達人でもある姫子は、理路整然とした口調で俺のフォームとペースの乱れを指摘した。
「まずは自分の身の丈に合った運動が大事です。回数よりも、正しいフォームで筋肉に効かせること。今日は腹筋をあと10回だけにして、明日は軽いスクワット……という風に、私が兄さんの体力に合わせた専用のトレーニングメニューを組んであげます」
「おお……!」
先ほどまでの変態発言が嘘のように、的確で頼もしいアドバイス。
さすがは母さんのスパルタ教育を乗り越え、実戦レベルの格闘術を身につけているだけはある。
俺は姫子の提案にすっかり感心してしまった。
「ありがとうな、姫子。確かに、いきなりハードなトレーニングをしても仕方ないもんな。お前がメニューを考えてくれるなら、無理なく続けられそうだよ」
「ふふっ、気にしないでください。出来る妹として当然のことですから」
俺が素直に感謝すると、姫子は嬉しそうに微笑んだ。
「それでは、腹筋を続けましょうか。私が足を押さえてあげますよ」
姫子がラグマットに上がり、俺の足元に座り込んで、両手でしっかりと俺の足首を固定してくれた。誰かに足を押さえてもらうだけで、腹筋への力の入り方は劇的に変わる。
「よーし、あともう少し頑張るぞ!」
俺は再び頭の後ろで手を組み、意気込んで上体を起こし始めた。
「いーちっ……! にーっ……! さーんっ……!」
「はい、その調子です。反動を使わず、お腹の筋肉を意識して」
姫子の的確な声かけに合わせ、俺は必死に腹筋を繰り返す。
しかし、やはり体力は限界に近かった。5回、6回と重ねるうちに、再び息が激しく上がり始める。
「はぁっ……! ふぁっ……! ひぅっ……!」
上体を起こすたび、俺の顔は足元にいる姫子の顔に近づくことになる。
汗ばんだ肌、紅潮した頬、そして呼吸のたびに大きく波打つ胸。
俺はただ純粋に筋肉と向き合っているだけなのだが、ふと気がつくと、足を押さえている姫子の様子がおかしかった。
「……んっ……! はぁっ、はぁっ……ひめ、こ……? どうした……?」
10回目を終え、ラグマットに背中を預けて荒い息を吐きながら、俺は尋ねた。
姫子は、俺の足を掴んだまま、ひどく複雑な……というか、何かに耐えるような切羽詰まった表情で、ジッと俺の全身を凝視していた。
やがて、姫子は震える唇を開き、絞り出すような声で言った。
「……兄さん。何と言えば良いのか……」
「はぁっ、んっ……なんだよ……?」
「兄さんにそんな気はなくて、純粋に頑張っているだけだということは、頭ではわかっているのですが……」
「だから、なんだって……?」
「あの……エロいんですけど……! 凄く!」
顔を真っ赤にして、悲痛な叫び声を上げる姫子。
その言葉に、俺の頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「え……エロい!?」
道場での烈火先生に続いて、実の妹にまで。
「そんなにか!? そんなに俺は、筋トレしてるだけで卑猥な存在になってるのか!?」
「ええ、もう……滴る汗とか、潤んだ目とか、苦しそうな声とか、揺れる胸とか……! 私の理性を削り取るためにわざとやっているのかと疑うレベルです!」
「わざとじゃない!!」
俺は絶望し、ラグマットに顔を突っ伏して頭を抱えた。
男らしく強くなりたいという純粋な願いは、なぜかいつも『エロい』という理不尽な評価によって打ち砕かれてしまう。
「……はぁ。道は、険しいな……」
俺のパーフェクトなボディへの道のりは、自身の肉体が放つ強烈なフェロモンによって、想像以上に困難なものになりそうだった。




