第49話 お嬢様の舞闘と、最強の証明
張り詰めた空気が、道場全体を支配していた。
審判役の門下生が「はじめ!」と叫んだ直後から、俺の目の前では常識を覆すような戦いが繰り広げられていた。
「シッ!」
鋭い呼気と共に、夕映先輩が踏み込む。
道着の擦れる音が鳴ったかと思うと、先輩の華奢な身体がバネのように弾け、滑るように烈火先生の懐へと潜り込んだ。
放たれたのは、ジークンドー特有の無駄を削ぎ落とした最短距離からの刺突──ストレートリード。
流れるような前手での突きが、烈火先生の顔面を的確に捉えにいく。
「おらっ!」
だが、烈火先生は一歩も引かない。
飛んできた先輩の拳を、最小限の動きでパァンッ! と弾き落とす。
しかし、夕映先輩の攻撃はそこで終わらない。
弾かれた腕の反動すら利用し、瞬時に身体を回転させて裏拳を放ち、さらには下段、中段、上段と流れるような連続蹴りへと繋げていく。
バァンッ! ダァンッ! パァァンッ!!
打撃と防御がぶつかり合う炸裂音が、広い板張りの道場に連続して響き渡る。
息をするのも忘れるほどの超高速の攻防。
男だった頃、格闘ゲームでコンボの練習を体に染み込ませるように繰り返した事がある俺だが、現実の、しかも可憐な女性二人がこんな漫画みたいな動きをしていることに、ただひたすら感動する。
(す、すげえ……っ! なんだよこの動き、速すぎて残像が見えるぞ!?)
夕映先輩の動きは、本当に美しかった。
長い髪をポニーテールにまとめた彼女の姿は、まるで蝶のように舞い、蜂のように刺すという言葉を体現しているかのようだ。
あんなに優雅でおっとりとしたお嬢様が、内にこんなにも激しい闘志を秘めているなんて。
あの時、コンビニの裏路地で俺を襲った暴漢たちを瞬殺したのも納得だ。
あれは決してまぐれなんかじゃない。
血の滲むような鍛錬の末に手に入れた、確かな『暴力』の結晶だ。
「……すげぇ。夕映お嬢様、また一段と速くなってないか?」
「ああ。ウチの道場じゃ、間違いなく門下生の中でトップの実力だ。あの烈火先生を相手に、ここまで渡り合えるなんて……」
壁際に退避している屈強な門下生たちが、二人の戦いを見つめて冷や汗を流しながらヒソヒソと囁き合っている。
彼らの言う通り、素人の俺の目から見ても、序盤から中盤にかけての展開は完全に『接戦』だった。
「ふぁっ! せやぁっ!」
夕映先輩のハイキックが、烈火先生の側頭部を掠める。
烈火先生はそれをスレスレで躱しつつ、重いローキックを返す。
先輩はそれを膝でブロックし、すかさず接近戦へと持ち込んだ。
腕と腕が絡み合い、互いの打撃を封じ合うトラッピングの攻防。
目まぐるしく変わる立ち位置。床を蹴るたびに、バンッ! という太鼓のような音が鳴り響く。
「ふふっ……どうですか、烈火先生! 今日は調子が良いんです!」
「へへっ! 確かに鋭くなってるじゃねえか、夕映! 見学してる可愛い後輩に、良いところ見せようって魂胆か!?」
「ええ、もちろん! 翔くんに憧れられるような先輩になりたいですからね!」
激しい打ち合いの最中だというのに、二人は余裕すら感じさせる笑顔で言葉を交わしている。
俺は自分の名前を呼ばれてドキッと肩を揺らしたが、同時に胸の奥が熱くなるのを感じた。
(俺に……憧れられるような先輩……)
今の俺は、悲しいくらいに弱い。
身長は縮み、筋肉は落ち、無駄に大きな胸と引き換えに、男だった頃の力は完全に失われてしまった。
暴漢の腕を振りほどくことすらできなかったあの日、俺は自分の無力さに絶望した。
けれど、目の前で戦う夕映先輩はどうだ。
俺と変わらない、細くしなやかな女性の身体でありながら、その技術と精神力で、屈強な男たちすら凌駕する強さを手に入れている。
俺は、男だ女だという以前に、一人の人間として彼女のその強さに心の底から惚れ惚れしていた。
「いける! 夕映お嬢様のペースだ!」
「もしかして、今日こそ先生から一本取れるんじゃないか!?」
門下生たちの熱を帯びた声援が飛ぶ。
夕映先輩の猛攻はさらに加速し、道場の端へと烈火先生を追い詰めていく。
先輩の放った鋭いワンインチパンチが烈火先生の胸元を捉えかけ、烈火先生が大きく後ろへステップを踏んだ──その時だった。
「──っ」
道場の空気が、凍りついた。
いや、比喩ではない。
本当に、肌を刺すような冷気が足元から這い上がってきたかのような錯覚を覚えたのだ。
「……ははっ」
後退したはずの烈火先生が、低く、獰猛な笑い声を漏らした。
その瞬間、今まで『楽しそうなスパーリング』だった空気が、一瞬にして『命の奪い合い』のようなヒリヒリとしたプレッシャーへと変貌した。
俺は全身の産毛が逆立つほどの悪寒を感じ、無意識にゴクリと生唾を飲み込んだ。
屈強な門下生たちも皆、息を呑んで硬直している。
烈火先生は、燃えるような赤い髪を片手でかき上げながら、ニヤリと唇の端を歪めた。
「強くなったな、夕映。お前の努力は本物だ。……ご褒美に、本当の強さを教えてやる」
その言葉が放たれた直後。
消えた。
俺の目には、烈火先生が文字通りその場から『消失』したようにしか見えなかった。
「なっ──!?」
夕映先輩が驚愕の声を上げた時には、既に勝負は決していた。
圧倒的。次元が違う。
今まで接戦に見えていたのは、単に烈火先生が『本気を全く出していなかった』だけなのだと思い知らされた。
手加減をやめた烈火先生の動きは、速さも、重さも、その全てが夕映先輩の遥か上をいっていた。
「甘え!」
気づけば、烈火先生は夕映先輩の懐に完全に侵入していた。
先輩が防御の姿勢をとるよりも早く、烈火先生の足が先輩の軸足を刈り取る。
バランスを崩し、宙を舞う夕映先輩。
だが、烈火先生は彼女をただ転ばせるようなことはしなかった。
空中に浮いた先輩の道着の胸ぐらを掴むと、そのまま床に向かって強引に押し倒したのだ。
ドァァンッ!!
道場が揺れるほどの豪快な音。
仰向けに床に叩きつけられた夕映先輩の上に、馬乗りになるような形で烈火先生が覆い被さっている。
そして、烈火先生の右手が、鋭い刃物のような『手刀』の形を作ったまま、夕映先輩の白く細い首筋の、わずか数ミリ手前でピタリと止まっていた。
手刀が放った風圧だけで、先輩のポニーテールの髪がブワッと靡く。
もしあれが寸止めでなければ、先輩の首の骨は間違いなく砕け散っていただろう。
「…………っ」
夕映先輩は目を見開き、荒い息を吐きながら、首筋に突きつけられた手刀を見つめている。
抵抗する術は、完全に失われていた。
静寂。
道場にいる全員が、瞬きすら忘れてその光景に釘付けになっていた。
やがて、烈火先生はゆっくりと手刀を下ろし、覆い被さっていた先輩の顔を覗き込んで、ニシシッと子供のように笑った。
「へへ、まだまだガキだな。もっと頑張りな」
その言葉と共に、張り詰めていた殺気のようなプレッシャーが霧散し、先程までの気怠げで明るい烈火先生の空気に戻った。
「……ふふっ。完敗です、先生」
夕映先輩も、悔しそうにしながらもどこか晴れやかな笑顔を浮かべ、差し出された烈火先生の手をとって立ち上がった。
一呼吸遅れて。
うおおおおおおおおっ!!! と、道場が揺れるほどの割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
門下生たちが興奮の面持ちで二人に拍手を送る中、俺はギャラリーの端っこに立ったまま、ただただ圧倒されて震えていた。
(すげえ……本当に、すげえよ……!)
胸の高鳴りが止まらない。
男としてのプライドを粉々に打ち砕くほどの、圧倒的な女性たちの強さ。
恐怖よりも、嫉妬よりも、ただ純粋な『憧憬』が俺の心を支配していた。
今の俺の身体は小さくて、柔らかくて、非力な美少女のそれになってしまったけれど。
それでも、あんな風に強くなれるのなら。
あんな風に、大切な人を守れる力を身につけられるのなら──。
「……俺も、負けてられないな」
拍手喝采の響く道場の隅で、俺は無意識のうちに、ギュッと両の拳を握りしめていたのだった。




