第47話 狼と子ヤギ
ある日の学校での昼休み。
俺は親友である佐藤を、人通りの少ない旧校舎の渡り廊下へと呼び出していた。
ひんやりとした風が吹き抜ける中、俺は深刻な面持ちで腕を組む。
腕を組むのは良い。この瞬間は重みのあるFカップが重力から解放され、肩が少し楽になるのだ。
本当は人前でも出来たら良いのだが、胸を強調することになるので『こいつ誘ってるのか?』と思われたくない。
そんなしょうもない事を考えていると、佐藤がやってきてくれた。
「……佐藤。実はお前に、聞いてほしい重大な話があるんだ」
俺が重々しい口調で切り出すと、佐藤は少しだけ警戒したように眉を寄せた。
「なんだよ、改まって。また遠藤みたいなヤツに襲われそうにでもなったのか? それとも、盗撮か何かされたとか?」
「違う。そうじゃない。……俺は、キスをされた」
「は……?」
佐藤の動きが、ピタリと止まった。
男だった頃から散々女子にモテながらも、誰とも付き合ったことがなく恋愛経験ゼロだったこの俺が、ついにキスをした。
その事実に、親友の佐藤は目を見開き、そして俺の身体を上下に見てから、少し顔を引きつらせた。
「ま、まさかお前……相手は、男なのか……?」
「馬鹿野郎! 女の子だよ! 俺の精神は完全な男だって知ってるだろ! 恐ろしいことを想像すんなよ!」
若干引き気味の佐藤に、俺は慌てて全力で否定した。
いくら身体が美少女になってしまったからといって、中身は正真正銘の男なのだ。
そっちの趣味に目覚めることなど断じてありえない。
「そ、そうか。ビビらせんなよ……。で? ついにあの鉄壁要塞とまで呼ばれたお前を落とした相手ってのは、誰なんだ?」
鉄壁要塞……? なにそれ知らん……。
「いや、実はその子とは付き合ってるわけじゃないんだ。でも、『付き合ってください』って言われて、その場の流れというか……一緒に遊びに行って、デートみたいなことをした帰りに、いきなり唇を奪われたんだよ」
俺が神妙な顔でそう告げると、佐藤は「お、おう……」と戸惑ったような声を漏らした。
「俺にとっては、これが人生で初めての大事なファーストキスだった。だからこそ……やっぱり男としては、ちゃんと責任を取って、結婚も視野に入れて真剣に付き合うべきかなと悩んでいて……」
「ぶっ! あっはははははは!」
俺の真面目な相談に対し、佐藤は腹を抱えて盛大に吹き出した。
「な、なにを笑っているんだ! 俺は真剣なんだぞ!」
「いや、結婚も視野に入れて付き合うとか……お前、真面目にも程があるだろ! いつの時代の人間だよ!」
「だ、だってキスだぞ!? 唇と唇を重ね合わせたんだ! 責任が生じるのは当然じゃないか!」
「いいか翔、よく聞け」
笑い涙を拭いながら、佐藤は呆れたように肩をすくめた。
「学生の恋愛なんて、基本的には数をこなして経験を積むもんだ。俺が以前カノジョと付き合っていた時は、お互いに大人になったら結婚しようなんて微塵も考えたことねえよ。お前はただのキス1つで重く考えすぎなんだって」
「そう……なのか? 恋愛とは、もっとこう、生涯を誓い合うような……」
「お前の恋愛観、重すぎ。そりゃ今まで彼女ができなかったわけだわ」
佐藤にあっさりと切り捨てられ、俺は言葉に詰まる。
文武両道を掲げていた俺だが、恋愛というジャンルにおいてのみ、俺は完全にポンコツらしい。
なぜだ。愛し合う者同士が付き合うってのは、もっと神聖で大切なものだろ……?
「で? 誰がお前にそんな熱烈なアプローチを仕掛けてるんだよ。教えてくれよ」
佐藤がニヤニヤと笑いながら聞いてくる。
俺は少し躊躇したが、相手のプライバシーを守るためにも念を押すことにした。
「……絶対に、誰にも言うなよ? 彼女に迷惑がかかったら嫌だからな」
「わかってるって。親友の秘密をベラベラ喋るかよ」
「一年生の、橘恵美ちゃんだ」
「…………は?」
その名を聞いた瞬間、佐藤の顔から表情がすっぽりと抜け落ちた。
そのままゆっくりと頭を抱える。
「お前、マジかよ……。よりによって、あの子かよ……」
「え? なんだよ、そのリアクションは。お前、恵美ちゃんの事を知ってるのか?」
佐藤は深く、長いため息を吐き出してから、疲れたような声で答えた。
「知ってるも何も……橘恵美は、俺の妹の元カノだよ」
「お……、おぉ……?」
俺は完全に返す言葉を失った。
恵美ちゃんが男女問わず様々な人と彼氏彼女の関係になってきた「肉食系」だということは本人から聞いていたが、まさか自分の親友の妹までもが、彼女の『カノジョ』になっていたとは夢にも思わなかったのだ。世間は狭すぎる。
「いいか、翔。橘恵美が相手なら、マジでキスの責任なんて考えないほうがいいぞ。あの子はなぁ、これまでに付き合った人間の数は優に二桁を超えてるんだ。キスどころか、肉体関係だって大ベテランなんだからさ」
「ふ、ふたけた……!? 大ベテラン!?」
俺の頭の中で処理限界を超えたワードが木霊する。
高校一年生で二桁の交際人数……!?
俺なんて、十七年間生きてきて一度も誰かと付き合ったことがないというのに!
「どうしてそんなにいろんな人と付き合うのか、うちの妹が直接聞いたことがあるらしいんだよ。そしたら彼女、こう言ったんだとさ。『運命の赤い糸で繋がった恋人を探している』ってな」
「運命の……赤い糸?」
「ああ。運命の相手を見つけるためには、男女も年齢も問わず、より多くの人と付き合って、心も身体も繋がってみる必要がある。そうして全ての要素が完璧に合致した相手こそが、本当の運命の相手に違いないんだってさ」
佐藤の言葉に、俺は思わず唸った。
なるほど、理にかなっている。
数を打てば当たる確率が上がるというのは、何事においても勝負の鉄則だ。
初めて出来たパートナーが必ずしも生涯を共にするのに適した相手だとは限らない。だが──。
(だからといって、いろんな相手と心も身体も繋がるって……俺には絶対に真似できない……!)
根本的な貞操観念の違いに、俺は一人でぶるぶると震えた。
親からもらった大切な俺の身体は、軽々しく他人に明け渡していいものではないのだ。
いや、親からもらった身体はどっか行ったけどさぁ!?
「それだけ大勢と関係を結んだら、恨みや嫉妬も多そうだな……。刺されたりしないのか?」
「それが不思議なもんでさ。橘恵美と付き合った相手は、みーんな後腐れなく綺麗さっぱりな別れ方をするらしいんだよ。うちの妹なんて、別れた後も電話で『また恵美ちゃんと機会があったら付き合ってほしいなー』なんて笑い話にしてたくらいだからな」
「す、すごいな……ある種のカリスマだな」
感心する俺の肩を、突然佐藤がガシッと強く掴んだ。
見れば、佐藤の目は一切笑っていなかった。暗い瞳で俺を見つめている。
「……翔。お前に、わかるか?」
「な、なにがだよ……」
「自分の妹が、『今日、恵美ちゃんの家にお泊まりするから爪切り貸して』って言ってきた時の、兄の気持ちが……ッ!」
「え……? 爪切り……?」
なぜお泊まりに行くのに、わざわざ爪を切る必要があるんだ?
俺は一瞬首を傾げたが、すぐに自分と同じ──女の子特有の、柔らかく傷つきやすい肌を思い出し、ある強烈な事実に気がついた。
女の子同士が、お互いの肌を傷つけないために、爪を短く切り揃える理由。それはつまり――。
「ば、バカバカぁ! 俺に変なこと想像させるなよッ!!」
「俺はあの夜、可愛がっていた妹の幼い頃を思い出しながら泣いたよ……」
ボフンッ、と音が出るほど顔を真っ赤にしてツッコミを入れる俺に、佐藤は遠い目をして窓の外を見つめていた。
親友の背負っていた心の闇が深すぎる。
「ま、色々言ったけどさ。橘は決して悪いヤツじゃないんだ。ただ、あの子にとってはキスなんて挨拶の延長みたいなもんで、そんなに重い行為じゃないってことさ。だから、お前もキスされたくらいで『付き合わなきゃいけない』なんて気負う必要は全くないからな?」
「そ、そうか……。俺が勝手に一人で重く受け止めてただけなんだな……」
「ああ。そもそも、お前みたいな恋愛偏差値ゼロの初心者が、あの恋愛ベテラン狼の橘に勝てるわけがないんだよ。今の女になったお前なんて、綺麗なお皿に乗せられて差し出された『美味しそうな子ヤギ』みたいなもんだろうさ」
あっはっは、と笑う佐藤の言葉に、俺は反論できなかった。
俺の脳裏に、別れ際に俺の唇を奪った時の、恵美ちゃんの妖艶な微笑みが鮮明に蘇る。
『ウブな会長がまだ知らない恋人同士の楽しみ、私がいーっぱい教えてあげますから』
あの時、舌まで絡め取られた熱い感触を思い出し、俺は自分の身体をギュッと抱きしめた。
(恐るべし……恵美ちゃん……ッ!)
去っていく佐藤の背中を見送って、俺は一人、得体の知れない強者への恐怖にブルリと身を震わせるのだった。




