第44話 初めてのチュウ
ひとしきり泣き終えた俺は、恵美ちゃんから差し出されたティッシュを受け取り、ズビッと盛大に鼻をかんだ。
「ごめん、みっともないところ見せて……。でも、今日は色々と教えてくれて、本当にありがとう」
赤く腫らした目をこすりながら感謝を伝えると、恵美ちゃんは優しく微笑んだ。
「ううん。私の方こそ、会長に話を聞いてもらって、少し肩の荷が下りた気がします」
そう言って、恵美ちゃんは俺の隣に座り直す。
「だから、会長もひよりちゃんの事、どうかこれからも見守っていてください」
「……ああ、もちろんだ。生徒会の大切な仲間だからな」
俺が力強く頷くと、恵美ちゃんは自分の胸にそっと手を当てた。
「あの子、虐められている時、家族や離れていった友人たちに迷惑や心配をかけないようにって、一人でずっと苦しみを耐え忍んだ優しい子なんです」
伏せられた長い睫毛が、微かに揺れる。
「一見すると、今はカースト上位のギャルとして明るく振る舞っていますけど……私にはわかるんです。本当は今もまだ、少し無理をしているんじゃないかって」
過去のトラウマは、そう簡単に消えるものじゃない。
オタク趣味がバレた時のひよりの異常なまでの怯え方を思い出し、俺は無言で話に聞き入った。
「いっぱい楽しいことをして、笑い合って……彼女の苦しみがいつか完全に消え失せて、本当の意味で幸せになってくれること。それが、私の心からの望みなんです」
まっすぐな瞳でそう語る恵美ちゃんを見て、俺は自然と頬が緩んだ。
「ひよりは、本当に素晴らしい友人に巡り会えたんだな」
「えっ……ふふっ、そんなことないですよ。私はただのお節介な幼馴染もどきです」
照れ隠しのように笑う恵美ちゃんと、そこから少しの間、俺たちはひよりの話題で盛り上がった。
「この前なんて、生徒会室で……」と俺がひよりの奇行や面白エピソードを話せば、恵美ちゃんも「クラスでもこの間……」と笑いながら教えてくれる。
深刻だった空気はすっかり和らぎ、気づけば外は完全に日が落ちて、すっかり夜になっていた。
「そろそろ帰るよ。遅くなっちゃったし」
ソファーから立ち上がった俺に、恵美ちゃんも「そうですね」と頷く。
「今日は、本当に楽しかったよ。色々と連れ回してくれたのも、ひよりの話をしてくれたのも。ありがとうな」
俺が素直な気持ちで笑いかけると、恵美ちゃんも本当に楽しそうな笑顔を返してくれた。
「はい。私も、すっごく楽しかったです!」
俺は彼女の部屋を出て、恵美ちゃんの家の玄関に向かった。
借りていたスリッパを脱ぎ、自分の靴に足を入れる。
踵をトントンと鳴らして履き心地を確かめ、「それじゃあ、またな!」と別れの挨拶をするために後ろを振り向いた。
「んっ!?」
──その瞬間、俺の視界は完全に塞がれた。
目の前、数センチの距離に、恵美ちゃんの顔があった。
そして、俺の唇に、信じられないほど柔らかい感触が押し当てられていた。
「んむぅ……!?」
思考が、真っ白に染まる。
何が起きているのか全く理解できず、彫像のように固まってしまった俺の口元に、一度離れた恵美ちゃんの顔が再び近づく。
ちゅっ、という水音。
無防備にわずかに開いていた俺の唇の隙間から、するりと滑らかな『舌』がねじ込まれてきた。
「んんっ……!?」
ビクンッと肩が跳ねる。
口の中をかき混ぜられるような、甘くて、熱くて、未知の感覚。
恵美ちゃんの吐息と、微かなフローラルの香りが脳内を直接揺さぶってくる。
抵抗する暇もなく、俺は数秒間、完全にされるがままになっていた。
やがて、名残惜しそうに唇が離れる。
繋がった唾液の糸が切れるのが見えて、俺は顔を真っ赤にして息を呑んだ。
「ふふっ……デートの最後は、キスが常識ですよ? 会長」
恵美ちゃんは目を細め、先程までの優しい親友の顔から一変、妖艶で肉食系なメスの顔をして笑っていた。
「あ……う、ぁ……」
俺の人生、正真正銘の、初めてのキス。
男だった頃にずっと夢見ていた甘酸っぱいファーストキスが、まさか女の子の姿で、しかも舌まで入れられる形で奪われるなんて。
許容量を超えた情報と羞恥心で脳のヒューズが完全に飛んだ俺は、その場に膝から崩れ落ちた。
「わわっ!? 大丈夫ですか、会長!?」
ドサッと座り込んだ俺の体を、慌てて恵美ちゃんが支える。
俺は焦点の合わない目で、パクパクと金魚のように口を動かすことしかできない。
その反応を見て、恵美ちゃんはハッとして目を丸くした。
「ひょっとして……今のキス、初めてでしたか?」
「…………ッ」
こくりと、情けないほど小さく頷く。
すると、恵美ちゃんの顔がパァァッと明るくなり、何かに目覚めたような歓喜の表情に変わった。
「わぁ……ご、ごめんなさい会長! でも……ほんっっっとうに、可愛いです! 最高すぎます!」
恵美ちゃんは俺の体を抱きしめ、頬をすりすりしながらテンション高くまくし立てる。
「ねえねえ会長! やっぱり私と付き合ってくださいよ! ウブな会長がまだ知らない恋人同士の楽しみ、私がいーっぱい教えてあげますから!」
「ひぃっ!?」
その言葉に含まれた底知れない欲望に、俺は生存本能を刺激された。
「お、俺にはまだそういうの、早すぎるからーっ!!」
真っ赤な顔で絶叫した俺は、火事場の馬鹿力で立ち上がり、恵美ちゃんの家から脱兎のごとく逃げ出したのだった。
無我夢中で、夜の住宅街を全力疾走した。
「はぁっ、はぁっ……!」
肺が酸素を求め、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴っている。
頭の中では、先ほどのキスの感触が、スローモーションのように何度も何度もリフレインしていた。
唇に残る、他人の熱と甘い香り。
「なんなんだよ、アレ……! 女子の友情って、あんなことまで込みなのか!? いや、あれは完全にそんなレベルじゃなかったって!」
混乱の極みに達しながらも、俺はどうにか自分の家へと帰り着いた。
玄関を開け、ふらふらとした足取りで廊下を歩く。
(とにかく、早く自分の部屋に戻って横になりたい……布団を被って、今日起きた衝撃的すぎる出来事をリセットしたい……)
そう思いながら重い足を前に出していると、廊下の奥からスゥッと影が近づいてきた。
「おかえりなさい、兄さん」
「ひ、姫子……ただいま」
感情の抜け殻のような声で返すと、姫子は無言で俺の目の前まで歩み寄り、立ち止まった。
そして、スッ……と顔を近づけてきた。
「ちょっ、おま、なにを──」
クンクン……。
姫子は俺の首元から胸のあたりにかけて鼻を近づけ、猟犬のように匂いを嗅ぎ始めたのだ。
背筋に、ゾクリと冷たいものが走る。
数秒後、姫子はゆっくりと顔を上げ、氷点下の声で告げた。
「……男友達と遊びに行ったのでは、なかったんですか?」
「えっ」
「兄さんから、ひどく甘ったるい……女の匂いがします」
「匂い!?」
俺はギョッとして、自分の服の匂いを嗅ごうとしたが、姫子の言葉は止まらない。
「ひよりの安っぽい香水ではない……夕映先輩の高級なシャンプーの匂いでもないですね……。この見知らぬ女の匂い……」
姫子の瞳孔が、スッと細くなる。
「これほど匂いがしっかりと付いたということは、ただ並んで歩いただけではない。密着し……抱き合ったんじゃないですか?」
「な、ななな、何を言って──」
ドンッ!!
言い訳をしようとした俺の背中が壁に押し付けられ、耳の横に姫子の手が激突した。
いわゆる、壁ドンだ。
逃げ場を失った俺を見下ろす姫子の顔には、一切の感情が抜け落ちており、ただ底なしのど黒い瞳だけが俺を捉えていた。
「……一体、どこの泥棒猫ですか?」
地の底から響くような、怨念の込もった声。
(お、男だった俺が、まさか女の子に壁ドンされる日が来るなんて……!)
状況だけ見れば、少女漫画のようなシチュエーション。
確かに、心臓はこれ以上ないほどバクバクと高鳴っている。
ドキドキしている。
だが、俺はガチガチと全身の震えを止められなかった。
(ちがう……! このドキドキは、恋愛的な胸のときめきなんかじゃない!)
──純度百パーセントの、生命の危機に対する『恐怖』だ。
ヤンデレのような妹の尋問に対し、俺はただひたすら、声にならない悲鳴を上げるしかなかった。




