第42話 黒髪眼鏡の少女の絶望
駅前の喧騒から離れ、閑静な住宅街をしばらく歩いた先。
恵美ちゃんに案内されてたどり着いたのは、彼女の家だった。
「えっ、家? どっかのファミレスとかで話すんじゃなかったのか?」
立派な一軒家の前で、俺は思わず足を止めて困惑の声を漏らした。
外見は女の子の俺だが、中身は男だ。
いくらなんでも、出会って数日の女子の家に上がり込むのはハードルが高すぎる。
そんな俺の焦りを見透かしたように、恵美ちゃんはクスッと笑って鍵を取り出した。
「大丈夫ですよ、会長。今の時間は両親も出かけていて、家族の誰もいませんから安心してください」
「いや、誰もいないなら、それはそれで心配なんだけど……」
男女(見た目は女同士だが)が誰もいない家で二人きり。
健全な男子高校生としての倫理観が「それはマズイだろ」と警鐘を鳴らしている。
だが、恵美ちゃんは真剣な表情になって、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「絶対に、他の誰にも聞かれたくない話なんです。だから、私の部屋が一番安全なんですよ」
その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。
ひよりが抱えている過去のトラウマ。それを他人の耳に入るかもしれない場所で話すのは、たしかに軽率だ。
「……わかった。お邪魔するよ」
「はいっ! どうぞ上がってください!」
俺が納得すると、恵美ちゃんは嬉しそうに微笑んでドアを開けた。
案内された彼女の部屋は、いかにもカースト上位の女子高生といった雰囲気だった。
白を基調とした家具に、ピンク色のクッション。
ほんのりとフローラルな良い香りが漂っている。
ひよりの部屋の、美少女フィギュアやアニメポスターが所狭しと並ぶ『ガチオタの聖域』とは真逆の空間だ。
「適当に座っててくださいね」
俺が部屋の隅にある小さなソファーに腰を下ろすと、恵美ちゃんは手際よく温かい紅茶を淹れて俺の前に置いてくれた。
カップから立ち上る湯気をお礼を伝えて眺めながら、俺は居住まいを正す。
「それじゃあ……教えてくれるか。ひよりの中学時代に、何があったんだ?」
俺が尋ねると、恵美ちゃんは自分のカップを両手で包み込むように持ち、ふうっと小さく息を吐いた。
「はい。……あれは、私たちが中学三年生になって、クラス替えから数週間経った春の日のことでした」
恵美ちゃんの静かな声とともに、俺の脳裏に彼女が語る『過去』の情景が浮かび上がっていく。
当時から友人が多く、目立つグループにいた恵美ちゃんは、ある日、廊下を歩いている時に友人から「隣のクラスでちょっとした揉め事が起きてるらしいよ」と耳打ちされた。
野次馬根性で隣のクラスを覗きに行くと、教室の後ろの方で、数人の女子生徒がひとりの少女を囲んで囃し立てていた。
自分の机に座り、俯いて肩を震わせているのは、地味な黒髪で眼鏡をかけた大人しい女の子だった。
「ねえねえ、こいつアニメのキャラに恋してるんだってさ! マジでウケるんだけど!」
「うわっ、キモーい。中3にもなって2次元の男に本気になるとか、頭おかしいんじゃないの?」
中心にいた性格のキツそうな女子が、少女の鞄からむしり取ったアニメキャラクターのキーホルダーを掲げて嘲笑い、その友人たちが手を叩いてゲラゲラと笑う。
黒髪眼鏡の少女は、涙目で「かえして……」と手を伸ばすが、キーホルダーはポイッと床に投げ捨てられ、無残にも踏みつけられていた。
「……それが、私が初めて見た天道ひよりの姿です。でも、その時の私は『なんてしょうもない事で騒いでるんだろう』って、冷めた目で見ていただけで……すぐに興味を失って、自分のクラスに戻っちゃったんです」
恵美ちゃんは、当時の自分を悔やむように目を伏せた。
それから数日後。
休み時間にトイレに向かった恵美ちゃんは、個室のドアがギイッと開く音に足を止めた。
中から出てきたのは、制服のままずぶ濡れになった女の子だった。
髪からボタボタと水滴を落とし、顔は真っ青で、唇を震わせている。
「えっ……? ちょっと、大丈夫!?」
驚いて駆け寄り、声を掛けた瞬間に気がついた。
それは、数日前に隣のクラスでキーホルダーを踏み躙られていた、あの黒髪眼鏡の少女だった。
明らかに「トイレの個室の上から水をかけられた」という陰湿なイジメの痕跡。
だが、少女は恵美ちゃんから逃げるように体をすくませると「大丈夫……です……」と、消え入りそうな声で呟き、逃げるようにトイレから去っていった。
「その時の彼女の背中が、あまりにも小さくて、ボロボロで……。どうしても気になってしまったんです」
恵美ちゃんは紅茶を一口飲むと、さらに過去の深淵へと足を踏み入れた。
数日後、恵美ちゃんは当時の彼氏を呼び出した。
彼女は昔から恋愛経験が豊富で、その時の彼氏も何人目かの相手だったが、偶然にも『ひよりと同じクラス』の男子生徒だったのだ。
「ねえ、あなたのクラスのあの子……天道さんだっけ? なんであんなに虐められてるの? 何か知ってる?」
恵美ちゃんが尋ねると、彼氏はヘラヘラと笑いながら答えたという。
「ああ、ひよりの事? アイツ、元々は結構元気で明るいヤツだったんだけどさ」
彼氏が語った経緯は、あまりにも理不尽で残酷なものだった。
ひよりは元々、同じ趣味を持つ友人たちと集まっては、楽しそうにアニメや漫画の話で盛り上がる、ごく普通の明るいオタク女子だった。
悲劇の始まりは、ほんの些細な偶然だ。
ある日の放課後、ひよりがノートに描いていた自作の漫画のページが、窓からの風に飛ばされてしまった。
ヒラヒラと舞い落ちたその紙は、クラスの中心グループに君臨していた『田川聖子』という女子生徒の足元に落ちた。
聖子がそれを拾い上げて眺めていると、慌てて駆け寄ったひよりが「拾ってくれてありがとう!」と無邪気に笑いかけた。
「貴方が描いたの?」
聖子に尋ねられ、ひよりは嬉しそうに頷いた。
「うん! 私の好きな漫画の二次創作なんだ!」
自分の『好き』を疑うことなく口にしたひよりに対し、聖子は冷ややかな目で見下ろして、こう言ったそうだ。
「──貴方、気持ち悪いね」
まるで汚物を見るかのような、暗い瞳で。
「……そこから、田川聖子の執拗なイジメが始まったんです」
恵美ちゃんの声が、怒りで微かに震えていた。
聖子は、面白いおもちゃを見つけたとばかりに仲間を引き連れ、ひよりにターゲットを絞った。
ひよりが大切に描いていた漫画のノートを奪い取り、クラス全員の目の前でビリビリに破り捨てる。
授業中、先生に指名されて黒板に答えを書きに行こうとするひよりの足を引っ掛けて派手に転ばせ、教室中を笑い声で満たす。
そして、恵美ちゃんが目撃したトイレでの水かけ。
「行為はどんどんエスカレートしていって……ひよりちゃんと一緒にアニメの話をしていた友人たちも、『次は自分が標的にされるかもしれない』って怯えて、一人、また一人とひよりちゃんから離れていったそうです」
自分の『好き』を否定され、宝物を壊され、友人も失い、孤立無援の地獄に突き落とされた少女。
俺の胸の奥で、ドス黒い怒りがマグマのように沸き立つのを感じた。
だが、俺の怒りをさらに加速させたのは、恵美ちゃんの語る『彼氏』の言葉だった。
「その時の彼氏、そんな陰惨な話を、まるでバラエティ番組でも見たかのように、すっごく嬉しそうにニヤニヤしながら話したんです」
恵美ちゃんは、当時の信じられない気持ちを思い出すように眉をひそめた。
「私、唖然として聞いちゃったんです。『どうして、そんなに楽しそうなの?』って。そしたら、アイツなんて言ったと思いますか?」
恵美ちゃんの声のトーンが、スッと冷たく落ちた。
「『だって面白いじゃん。この前なんてさ、教室でアイツ、皆の前で教壇に立たされて聖子たちにスカート脱がされてたんだぜ? 俺達男子もパンチラ見れて役得じゃん!』って、下卑た顔で笑ったんです」
「…………ッ!!」
俺は思わず、持っていたティーカップをテーブルに叩きつけるように置いてしまった。
ふざけるな。
何が面白い。何が役得だ。
同じ男として、いや、人間として反吐が出る。
遠藤に体育倉庫で襲われかけた時のトラウマがフラッシュバックしそうになり、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
「信じられませんでした。だから私──」
恵美ちゃんは、自分の右手をそっと左手で包み込んだ。
「思いっきり、アイツの頬をビンタしてやりました」
「えっ……」
「でも、それだけじゃ全然怒りが収まらなくて。気がついたら拳をギュッと握りしめて、アイツの顔面を思いっきり殴りつけてました。鼻血を出して倒れ込んだアイツを見下ろして、私、叫んだんです」
恵美ちゃんは、当時の光景を再現するように、鋭い視線を宙に向けた。
「『二度とアンタなんかと口を聞きたくない! 一生話しかけないで!』って」
そのまま彼氏を置き去りにして、痛む右拳を撫でながら家に帰った恵美ちゃん。
『あんな最低な奴だと知らなかった。あんなクズと付き合っていたなんて、私の一生の恥だ』
自分の見る目のなさに嫌気が差すと同時に、彼女の胸には、強烈な使命感が湧き上がってきたのだという。
「何も悪いことをしていないのに、ただ自分の好きなものを大切にしていただけなのに……あんな理不尽で酷い目に遭っている可哀想な天道さんを、私がなんとかして助けてあげたいって、心から決意したんです」
恵美ちゃんは、そこでフゥッと長く息を吐き出し、物語の区切りをつけた。
「……それが、私が知っている、中学時代のひよりという女の子です」
部屋の中に、重い沈黙が降りた。
俺は、何も言葉を発することができなかった。
生徒会室でいつも「あっははは!」と無邪気に笑い、俺の胸を揉んでは姫子に制裁され、空気を読まないフリをして場を和ませてくれる、あの明るい天道ひより。
彼女の笑顔の裏に、底なしの絶望と、尊厳を踏みにじられるような凄惨な過去があったなんて。
想像を絶する事実に、俺はただ、唇を噛み締めて絶句するしかなかった。




