第37話 狐に化かされたような気持ち
二人で並んで座った神社の石段。
空はいつの間にか、オレンジ色に染まり始めていた。
ひんやりとした風が木々の葉を揺らす中、ホカホカの肉まんを分け合った時間は、なんとも言えない穏やかで温かいものだった。
最後の一口を名残惜しそうに飲み込み、ふぅと満足げな息を吐いた少女が、首を傾げて俺の顔を見上げてきた。
「お兄さん。お兄さんは今、幸せですか?」
金色の瞳が、夕陽の光を反射してキラキラと輝いている。
あまりにも唐突な問いかけだった。
急にどうしてそんな事を聞くのだろうかと不思議に思ったが、その全てを見透かすような不思議な眼差しを向けられ、俺は『果たして、今の俺はどうなんだろうか』と自問自答していた。
ある日突然、朝起きたら女になっていた。
ずっと鍛えてきた筋肉は消え失せ、身長は縮み、胸には重い脂肪の塊が2つ。
歩幅は変わり、ブラジャーの付け方すらわからなくて途方に暮れた。
男のプライドを粉々に打ち砕かれるような出来事の連続。
体育倉庫での遠藤の一件や、コンビニ帰りにガラの悪い男たちに絡まれた時には、男に犯される恐怖を知り、自分の無力さに絶望して涙を流したこともあった。
初めての生理の痛みと不快感には、これからの人生を悲観して憂鬱になった。
大変なことだらけだった。苦しいことも、悔しいこともたくさんあった。
しかし、俺がその度に立ち直れたのは、間違いなく周囲の支えがあったからだ。
俺が傷ついた時、誰よりも激昂して、自分の身を挺してでも守ると誓ってくれた妹の姫子。
暴漢から俺を救い出し、自分だって怖かったのに俺を気遣って抱きしめてくれた夕映先輩。
俺が女になっても、変わらずバカ話をしてくれる佐藤や、慕ってくれる透、いじりながらも気遣ってくれるひより。
そして、俺を受け入れてくれたクラスメイトたち。
俺は、決して一人じゃなかった。
むしろ、自分がこれほどまでに多くの人に大切にされているのだということを、女になったからこそ深く知ることができたのだ。
だから、幸せかどうかと聞かれたら。
俺は間違いなく、こんなにも友人や家族に恵まれている自分は幸福だと、胸を張って言える。
「そうだな。……うん、幸せだよ」
俺が少女の目を真っ直ぐに見つめ返し、心からの笑顔でそう答える。
その言葉を聞いた少女はパァッと顔を輝かせ、まるで自分のことのように嬉しそうに目を細めた。
「そうですか。それはとても良かったです!」
少女の背後で、あるはずのない尻尾が千切れんばかりにブンブンと振られているような、そんな幻覚が見えるほどの喜びようだった。
何なら、一瞬犬……いや、これは多分狐? の耳のような物も見えた気がする。
疲れてるのかな俺……?
「それじゃあ、聞きたいことも聞けましたし、私はそろそろ帰りますね! またお会いしましょうね! お兄さん!」
少女は勢いよく立ち上がると、巫女服のような裾を翻し、元気いっぱいに両手を大きく振りながら神社の奥へと走り去っていく。
「うん、またな。気をつけて帰れよ!」
俺も立ち上がり、小さくなっていく彼女の背中に向かって手を振り返した。
木立の向こうに少女の姿が完全に見えなくなると、俺は小さく息を吐いて苦笑いを浮かべた。
(まさか、何も知らない子供に向かって『俺、実は元・男で、何故か突然女の身体になったんだよ。幸せではあるけど、わからないことだらけで大変なんだ』なんて事情は答えられないよなぁ。頭がおかしいと思われそうだ)
元の俺を知らない人に、わざわざ説明が難しく不審に思われそうなことは言わないほうが良い。
真実のすべてを語るのが正解ではないのだ。
俺は帰路につくため、神社の鳥居へ向かって歩き出した。
──その時、ふと気がついた。
ピタリと足を止め、俺は振り返って神社の境内を凝視した。
(……ん? 待てよ?)
猛烈な違和感が、背筋をゾクリと駆け上がる。
あの少女は、最初から最後まで、俺のことをずっと『お兄さん』と呼んでいた。
今の俺の容姿は、まごうことなき女子高生だ。
胸だってFカップ以上あるし、声も高く可愛らしいものに変わっている。
誰がどう見ても『お姉さん』としか呼びようがない外見なのだ。
それなのに、あの少女は一切の迷いなく、俺を『お兄さん』と呼んだ。
(それに、だ……)
お賽銭箱の前に立ち『エクレールを引かせてください!』と神頼みしていた時のこと。
俺は間違いなく、心の中で願っていただけで、一言も口には出していなかったはずだ。
それなのに、背後から服を引っ張ってきた彼女は、こう言ったのだ。
『それのゲームのキャラクターが、お兄さんは欲しいんですね! 任せてください!』と。
「なっ……!?」
どういうことだ。
彼女は俺が『元・男』であることを見破っただけでなく、俺の『心の声』まで聞いていたというのか。
俺は慌てて踵を返し、少女が走り去った神社の奥へと全力で駆け出した。
「おいっ! ちょっと待ってくれ! 君は一体──!」
本殿の裏手から、鎮守の森へと続く獣道。
しかし、どこを見渡しても、あの金色の瞳の少女の姿はなかった。
静寂に包まれた夕暮れの神社に、ただ風の音だけが寂しく響いている。
俺が元は男だということを見破り、心の中の願い事を聞くことが出来た彼女。
そして、天文学的な確率のガチャを、まるでおまじない1つで操作してしまったかのような奇跡。
(あの不思議な子は……一体、何者だったんだろう……)
キツネ色の髪を揺らして笑う可愛らしい姿を思い出しながら、俺は首を傾げて家への帰路についた。
すっかり日が落ちて、外は暗くなっていた。
玄関を開け「ただいまー」と声をかけながらリビングを通り過ぎ、二階にある自分の部屋へと向かう。
階段を上り切り、自分の部屋のドアノブに手をかけようとした、まさにその瞬間だった。
ガチャリ、と内側からドアが開き、中から人が出てきた。
「あら。おかえりなさい、兄さん」
何故かほんのりと頬を紅潮させ、微かに息を弾ませた俺の双子の妹、一条姫子だった。
「……お前、また勝手に俺の部屋に入ってたのか?」
俺がジト目で睨みつけると、姫子は悪びれる様子もなく、スッと涼しい顔に戻った。
「換気ですよ、換気。兄さんの部屋は、放っておくとすぐに男臭くなりますからね。私が定期的に空気を入れ替えて、ファブリーズをかけてあげているんです。感謝してください」
息をするように毒を吐く姫子。
俺はすでに女の子だし、最近はJKに人気の香水を使っているので男臭いわけがないのだが、これ以上ツッコむと面倒なことになりそうなので、深く追及するのはやめておいた。
「そうかよ。……それよりさ、ちょっと聞いてくれよ。さっき帰りに神社に寄ったんだけど、そこで不思議な女の子に会ったんだ」
俺は部屋着に着替えながら、姫子に先程の出来事を話して聞かせた。
日本人らしくないキツネ色の髪の毛と、輝くような金色の瞳の純粋で可愛い小学生くらいの子だったこと。
一緒に肉まんを食べたこと。
俺の心の中を読んだようなことを言い、なぜか俺を『お兄さん』と呼んだこと。
「不思議だよなー。あの子、何者だったんだろう」
俺がそう締めくくると、ベッドの端に腰掛けて話を聞いていた姫子の様子が、明らかにおかしくなっていた。
いつもは氷のように冷たく無表情な彼女の額に、冷や汗が浮かんでいる。
「あ、あの……兄さん」
姫子は、どこか引き攣ったような笑顔を浮かべ、恐る恐る尋ねてきた。
「その女の子……もしかして、頭に『狐の耳』と、お尻に『狐の尻尾』が、生えていませんでしたか……?」
そのあまりにも突拍子もない質問に、俺は思わず吹き出してしまった。
「ぶっ! あはははは! 何言ってるんだよ姫子。そんなマンガやアニメじゃあるまいし。そんな狐っ娘が現実にいるわけないだろ?」
俺が腹を抱えて笑うと、姫子は「ふぅっ」と、心底安堵したような、長いため息を漏らした。
「そ、そうですよね。そんなわけないですよね。ええ、私の気の迷いです」
引き攣った笑みを浮かべながら、姫子は胸を撫で下ろしている。
そして、俺に聞こえないような小声で、ブツブツと何かを呟き始めた。
「はぁ……何事かと思いましたけど、人前に出る時はちゃんと隠してたんですね……。っていうか、そもそもなんで兄さんに直接接触したんですか……私、会うなんて話は何も聞いてないんですけど……! ま、まさか兄さんの事が好きになられたのでは……!?」
ギリギリと爪を噛みながら、何やら一人で憤っている姫子。
「ん? 何か言ったか?」
「いえ! 何も! 私は夕食の手伝いをしてきますから!」
姫子は不自然なほど大声でそう言うと、逃げるように俺の部屋から飛び出していった。
「なんだあいつ……変なの」
姫子が何を言っていたのか、俺にはさっぱりわからなかった。相変わらず、情緒の読めない妹である。
俺はベッドにゴロンと横たわり、スマホの画面を開いた。
そこには、今日手に入れたばかりの、最高レアまで限界突破したエクレールの姿が輝いている。
「幸せを共有すれば、2倍幸せか……」
肉まんを美味しそうに頬張っていた、あの金色の瞳の少女。
正体はわからないままだが、俺は可愛い不思議少女の姿を思い浮かべながら「また会ってみたいな」と、自然と優しい微笑みを浮かべていた。




