第34話 兄より優れた妹など存在しない事はない
庶務の水無瀬透との勝負を制した俺は、ゆっくりと息を吐き出し、机を挟んで次の対戦相手と向き合った。
向かい側に立つのは、このゲームにおいてすでに一人の犠牲者を出している恐るべき暴君、一条姫子だ。
凶器であるハリセンを手にした姫子は、俺の顔を見下ろすようにして、ぞくりとするような嗜虐的な笑みを浮かべた。
「ふふ、可愛いですね兄さん。今の貴方の貧弱な反射神経と肉体で、この私に勝てるとでも思っているんですか?」
挑発的な言葉とともに、姫子の冷たい瞳が俺を射抜く。
たしかに、今の俺は筋肉皆無のぷにぷにボディだ。動体視力も反射神経も、以前の男だった頃とは比べ物にならないほど低下している。
だが、ここで引き下がるわけにはいかない。
「舐めるなよ、姫子」
俺は机の上に置かれた黄色いヘルメットを見つめ、ギュッと両手で拳を握りしめた。
「男ってのはな、ここぞというときは決めて見せるものだ。……たしかに、お前が凄いやつなのは誰よりも知っているつもりだ。お前のその強さは、並大抵の努力で手に入るものじゃない」
昔、いじめられていた姫子を助けたあの日から、彼女は血の滲むような鍛錬を重ねてきたのだ。
その実績と実力を、俺は誰よりもリスペクトしている。
「だとしてもだ! 俺はお前に勝って見せる。兄というものは、いつだって妹より強くあるべきで……俺は、お前を守る存在だからだ!」
女の身体になろうと、胸が重かろうと、俺の魂は『兄』のままだ。
俺が真っ直ぐに姫子を見据えて力強く宣言すると、拍手の音が生徒会室にこだまする。
「わぁ~、翔くんカッコいいよ~」
背後で試合を見守っていた夕映先輩が、パチパチと拍手をして黄色い声を上げる。
その声にハッとしたのか、絶対的な余裕を見せていた姫子の表情に、微かな動揺が走った。
白雪姫のように白い頬がほんのりと朱に染まり、スッと視線を泳がせる。
「なっ……い、いいから始めますよ! 口だけなら何とでも言えますからね!」
姫子は照れ隠しのように早口で急かすと、机の上にスッと右手を差し出した。
俺もまた、全神経を右手に集中させて構える。
勝つ。勝って、兄としての威厳を取り戻すんだ!
「じゃんけん……」
「ぽん!」
俺が出したのはチョキ。
対する姫子が出したのは、グー。
──負けた! ヘルメットだ!
そう認識し、俺の脳が腕の筋肉に「動け」と命令を出そうとした。
その、次の瞬間だった。
…………。
……………………。
「……ん?」
ふわりと、鼻腔をくすぐる上品なフローラルの香りがした。
後頭部には、暖かくて柔らかく、それでいて程よい弾力を持った極上の感触がある。
ゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに、優しく微笑む美しい女神の顔があった。
「あ、翔くん起きたね~」
女神──いや、夕映先輩が、俺の顔を覗き込みながら嬉しそうに目を細めている。
俺は瞬きを繰り返し、現状を把握しようと試みた。
見慣れた生徒会室の天井。俺の顔のすぐ眼の前にある、夕映先輩の豊かな胸。
そして、俺の後頭部を優しく包み込んでいる、先輩の柔らかな太もも。
「えっ!? あれ!? 何で俺は夕映先輩に膝枕されてるの!? っていうか、姫子との対決は!? えっ!?」
俺がパニックになって身をよじると、傍らに立っていたひよりが同情するような声を出した。
「翔先輩はですねー、姫子先輩にジャンケンで負けた直後、信じられない速度でハリセンを頭に叩き込まれて、そのまま気絶したんすよー」
「……は?」
気絶? 俺が?
俺は自分の頭に手をやった。たしかに、脳天のあたりがジンジンと痺れている。
恐ろしいことに、俺は『自分がハリセンで叩かれた』という事実すら認識する間もなく、一瞬で意識を刈り取られていたのだ。
あまりの姫子の強さに、俺は愕然とした。
格闘技の達人が放つ見えない打撃を、まさかこんなバラエティ番組のゲームで味わうことになるとは。
「っていうか……んんっ!?」
そこで俺は、さらなる異常事態に気がついた。
膝枕で仰向けになっている俺の太ももを、下から這うようにして、誰かの手が撫で回しているのだ。
視線を下げると、そこには無表情のまま俺の素足を堪能している妹の姿があった。
「っていうか姫子! お前、さっきからどさくさに紛れて何触ってんだよ! それに、いくらなんでも強く叩きすぎだろ! 遊びなのに気絶するくらい本気で叩くとか、あんまりだろ!」
俺が抗議の声を上げると、ひよりも我が意を得たりとばかりに便乗してきた。
「そうっすよ! 私もさっき気絶したんすよ! 先輩のゴリラ! 脳細胞が死滅したらどうしてくれるんすか!」
俺たちの猛抗議に対し、姫子は俺の太ももから名残惜しそうに手を離すと、すんっと澄ました顔で言い放った。
「だって、兄さんが言ったんじゃないですか。『戦いの場において手加減などするな。それは相手を一番愚弄する行為だ』って」
「ぐっ……!?」
俺は言葉に詰まった。
たしかに、俺はつい数分前、透に対して偉そうに全く同じセリフを吐いていた。
自分の発言が特大のブーメランとなって突き刺さり、ぐうの音も出ない。
だが、ひよりは違う。
「わ、私はそんなこと一言も言ってないっすよ!?」
ひよりが涙目で抗議すると、姫子は氷のような視線を彼女に向けた。
「あなたは普段からムカつくから、本気で叩いただけよ」
「えぇ……?」
身も蓋もない姫子の理不尽な理由に、ひよりはドン引きして後ずさった。
透も「ひ、姫子先輩、容赦ないなぁ……」と苦笑いしている。
「ふふっ。じゃあ、いよいよ決勝戦だね、姫子ちゃん。楽しみだな~」
俺が名残惜しさを感じつつも夕映先輩の膝枕から頭を離して立ち上がると、先輩もスカートの皺を伸ばしながら立ち上がった。
のほほんとした笑顔はそのままに、夕映先輩が机の前に進み出る。
姫子もまた、定位置についた。
「ええ、そうですね。……手加減はしませんよ?」
姫子の瞳に、鋭い光が宿る。
対する夕映先輩は、ニッコリと笑顔で応えた。
「望むところよ、姫子ちゃん」
生徒会メンバーが息を呑んで見守る中、シード枠の夕映先輩と、無敗の暴君である姫子が机を挟んで対峙した。
二人の間に、目に見えないバチバチとした火花が散っているように錯覚する。
「「最初はグー、じゃんけん……ぽん!」」
姫子がチョキ、夕映先輩がパー。
姫子の勝利だ。
瞬間、空気が爆ぜた。
俺やひよりを沈めた時と同じ、いや、それ以上の速度。
姫子の右腕がブレたかと思うと、相変わらず常人の目では追えない神速のハリセンが、夕映先輩の頭部めがけて鋭く振り下ろされた。
パァンッ!!
という、銃声のような爆音が室内に木霊する。
「ああっ! 先輩!」
俺が思わず叫んだ、その時。
「ウフフ。流石ね、姫子ちゃん。ちょっと危なかったわ」
そこには、姫子のフルスイングのハリセンを、黄色いヘルメットで完璧にガードしている夕映先輩の姿があった。
姫子よりもさらに素早い反応速度で、すでにヘルメットの装着を完了させていたのだ。
その見事な防御に、姫子はニヤリと好戦的な笑みを深めた。
「流石ですね、夕映先輩。私の一撃を防いだのは、貴方が初めてですよ」
「ふふっ、師匠の突きに比べれば、まだ見える範囲だもの」
ハリセンとヘルメットが軋む音を立てながら、二人の美少女が互いの実力を認め合い、不敵に笑い合う。
その光景を見つめながら、俺はただただ呆然と立ち尽くしていた。
(え? 何? 何が起きてるの……?)
たかが『たたいてかぶってジャンケンポン』である。
なのに、なぜ彼女たちはここまで全力で戦っているのか。
俺の目には、彼女たちからオーラのようなものが立ち昇っているように見える。
この二人……少年誌のバトル漫画キャラか何かなの……?
その後も生徒会室の中央で、かつてない高次元の戦いが繰り広げられる。
パァァァンッ!!
ガンッ!!
「「最初はグー、じゃんけん……ぽん!!」」
パシィィィンッ!!
俺の双子の妹である一条姫子と、生徒会副会長にして令嬢武闘家の桐生夕映先輩。
二人の美少女による『たたいてかぶってジャンケンポン』の決勝戦は、すでに遊戯の域を遥かに凌駕していた。
夕映先輩がジャンケンに勝てば、姫子と同等──いや、それ以上の神速でハリセンを振り抜き、強烈な一撃を叩き込む。
しかし、姫子も負けじと超反応でヘルメットを引き寄せ、間一髪でそれを防御する。
ハリセンとプラスチックのヘルメットが激突するたびに、生徒会室に風圧が巻き起こり、積まれた書類がパラパラと宙を舞った。
「あ、あの……私たちは一体、何を見せられているんすかね……。私、全然あの人達の動きが見えないんすけど」
壁際に避難したひよりが、引きつった笑顔で俺の袖を引っ張ってきた。
「安心しろ。俺にも全く見えん……」
俺も冷や汗を流しながら答える。
元・男であり、スポーツ万能だった俺の動体視力をもってしても、二人が腕を動かした『結果』しか視認できないのだ。
「ひぃ……あの二人ってこんなに凄かったの……!?」
透に至っては、両手で口を覆いながら小動物のようにガタガタと震えている。
「ふっ……甘いですよ、夕映先輩!」
「あら、姫子ちゃんこそ、少し息が上がってきたんじゃない?」
ジャンケンの合間にも、二人の高度な心理戦と挑発が交差する。
姫子がフェイントを交えてパーを出し、勝利の瞬間にハリセンを水平に薙ぎ払う。
だが夕映先輩はそれを見越し、体を沈めてかすめるように回避した。
その流麗なディフェンスから、即座に次のジャンケンの構えに移行する。
いや、たたいてかぶってジャンケンポンはそんな攻撃と回避しないからな!?
その後も二人の実力は、完全に拮抗していた。
打撃、防御、そしてジャンケンの運。
すべてが高い次元で噛み合い、勝負はいつ終わるとも知れない千日手の様相を呈していた。
だが、どんな戦いにも必ず終わりは訪れる。
数十回にも及ぶ攻防の末、ほんのわずかな隙──夕映先輩がヘルメットを掴む手に、ミリ単位の遅れが生じた瞬間だった。
「もらった……!」
姫子の目が鋭く光り、手首のスナップを極限まで利かせた一撃が放たれた。
空気を切り裂く鋭い風切り音。
回避も防御も間に合わないと悟った夕映先輩が、ギュッと目を閉じる。
ピタリ。
ハリセンは、夕映先輩の美しい頭部に直撃する数ミリ手前で、完全に静止していた。
寸止めによって発生した風だけが、先輩の長い髪をふわりと揺らす。
「……はぁ……はぁ……夕映先輩、やりますね……! まさか、ここまでとは」
姫子が荒い息を吐きながら、感嘆の声を漏らした。
いくら勝負とはいえ、自分に優しく接してくれる先輩の頭を本気でひっぱたくほど、姫子も鬼ではなかったらしい。(ひよりと俺には容赦なかったが)
「姫子ちゃんも……はぁ……はぁ……流石ね……! あーあ、残念。負けちゃったわ」
夕映先輩も息を整えながら、清々しい笑顔で答える。
そして、二人はハリセンとヘルメットを机に置き、互いの健闘を称え合うように固い握手を交わした。
そのあまりにも少年漫画チックな美しい光景に、俺とひより、そして透は、誰からともなく熱い拍手を送っていた。
「いやー、思いがけない名勝負だったな! スポーツの試合を見た後みたいだ」
「マジで感動したっす! ……まあ、私と翔先輩は一瞬で瞬殺されたんですけどね!」
ひよりが自虐気味に笑うと、生徒会室は和やかな空気に包まれた。
──だが、悪夢はこれで終わらなかった。
「さて! それじゃあ最後は、1回戦で負けた私と透くんで、最下位決定戦をするっすよ!」
ひよりの突然の提案により、消化試合のような最下位決定戦が急遽行われることになった。
そして、結果は火を見るより明らかだった。
先程の俺の説教で「男として手加減はしない」と誓ったはずの透だったが、根本的に彼は運動が苦手なのだ。
ひよりの容赦のないハリセンが透の頭にポコンと決まり、あっけなく透の最下位が決定した。
「イエーイ! 私の勝ち! じゃあ、最下位の透くんには罰ゲームがありまーす!」
ひよりが満面の笑みでビシッと透を指差す。
「ええ!? 罰ゲームなんて聞いてないよ!?」
驚いて後ずさる透を逃すまいと、ひよりはヘルメットとハリセンを隠していた大きな紙袋に手を突っ込み、バサリと『ある物』を取り出した。
「さぁ透くん! これを着て!」
ひよりが突き付けたのは、フリルがあしらわれた可愛らしいブラウスと、チェック柄のフレアスカート。
どう見ても女性物の服だった。
「ちょ、ちょっと! これスカートだよ!? なんで僕がこんなの着なきゃいけないの!?」
「いいからいいから! 透くんみたいな可愛い顔なら、絶対に似合うと思うから1回着てほしかったんだよね! ほら、勝負に負けたんだから男らしく諦めて!」
ひよりに両手を合わせて懇願され、男のプライドをチクチクと刺激された透は、最終的に「うぅ……今回だけだからね」と涙目で陥落した。
数分後。
生徒会室の隅に設置された簡易パーテーションの裏から、着替えを終えた透がおずおずと姿を現した。
「……ど、どうかな……? やっぱり、変だよね……?」
スカートの裾を両手でギュッと握りしめ、上目遣いでこちらを窺う透。
その瞬間、生徒会室は不自然なほどの静寂に包まれた。
「へぇ……これは凄いわね」
普段は男を褒めない姫子が、まじまじと透を見つめて素直な感嘆を漏らす。
「凄い凄い! よく似合ってるよ透くん! すっごく可愛い!」
夕映先輩は目を輝かせ、透の両手を取って上下に振り回して喜んでいる。
俺はというと、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
華奢な肩のライン。ブラウスから覗く細く白い首筋。チェックのスカートから伸びる、スラリとした脚。
恥じらいに染まった頬の赤み。
どこからどう見ても、街を歩けば男が十人中十人振り返るレベルの、可憐で清楚な美少女そのものだったのだ。
(……こいつ、本当に男なんだよな? 実は俺みたいにTSしてるんじゃないのか!?)
そう疑いたくなるほどの完成度だ。女の身体になった俺ですら、女子力では負けているかもしれない可愛さである。
周囲の絶賛に、透は複雑な表情を浮かべた。
「あ、ありがとうございます……。でも皆さん、忘れないでくださいね。僕、男ですからね?」
必死に念を押す透だったが、その声すらも中性的なボーイソプラノであり、美少女の照れ隠しにしか聞こえない。
「ふっふっふ……甘いっすよ透くん」
その時、透の背後に忍び寄っていたひよりが、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「え? 天道さ──」
透が振り向こうとした瞬間、ひよりは背後からパサリと、透の頭に何かを被せた。
それは、さらさらとした質感の『黒髪ロングのウィッグ』だった。
手際よくウィッグの位置を調整し、透の顔周りに自然に髪を流すひより。
「女装するなら、やっぱり髪型も大事っしょ! どうっすか透くん! これで完璧な美少女の完成っす……よ……え……?」
自慢げに言い放ち、ニコニコ笑顔で透の顔を正面から覗き込んだひよりの言葉が、途中でピタリと止まった。
ひよりの表情からスッと笑みが消え、目を丸くして固まっている。
「どうしたんだ、ひより? ……って、えっ!?」
俺も透の顔を見て、雷に打たれたように絶句した。
黒髪ロングのウィッグを被り、少し困ったように眉を下げて立つ透の姿。
それは、先日スマホの画面越しに見た、超人気ソーシャルゲーム『魔法少女ピュアリーハート』のキャラクター・エクレール役の新人声優『水無瀬リン』その人だった。
顔の造形、華奢な体つき、そして何より、その独特の可憐な雰囲気。
もはや「似ている」というレベルではない。完全なる一致である。
沈黙が支配する生徒会室で、俺の頭の中には確信が浮かんでいた。
──水無瀬リンの正体は、間違いなく目の前にいる透なのだ、と。




