第30話 見えない声
「それでは始めますね」
上着を脱いでベッドに仰向けになった俺を見下ろしながら、姫子は静かにそう告げた。
手にした小瓶からトロリとした透明なオイルを手のひらに垂らすと、両手を擦り合わせて丁寧に揉み込み、人肌に温めていく。
その所作はなんだかやけに本格的で、見ているだけで少し緊張してしまう。
やがて、姫子の手がゆっくりと俺のお腹に触れた。
「んっ」
オイルの滑らかな感触と、姫子の体温が直に伝わってきて、思わず変な声が漏れてしまう。
しかし、姫子はそんな俺の反応を気に留める様子もなく、ゆっくりとした手つきでありながらも、力強く確かな圧をかけてマッサージを開始した。
指の腹で絶妙なツボを押し、手のひら全体で滞ったものを押し流していくような感覚。
「ふぅ……」
そのあまりの心地よさに、緊張して強張っていた身体が次第にほぐれ、ベッドに深く沈み込んでいくのがわかった。
(あぁ……凄いな姫子。マッサージの研究をしていると言っていたけど、本当に上手いな……)
とろけるような感覚に身を任せていると、俺の顔を覗き込むようにして、姫子がドヤ顔で尋ねてきた。
「どうですか兄さん。なかなかのものでしょう?」
「あ、ああ。すごく気持ちが良いよ。母さんにしてあげたら、お小遣いくれるんじゃないか?」
俺が素直に称賛すると、姫子は「私はお小遣い欲しさに技術を身に着けたいわけではありませんよ」と鼻で笑いながら、さらにマッサージを続けていく。
お腹から腰回り、そして太ももへと、姫子の手は的確に疲労の溜まった部位をほぐしていった。
極上の施術に、俺の意識は次第にまどろみの中へと落ちていく。
気持ちよくて、段々と眠くなってきた。
──しかし、事件は不意に起きた。
「……ん?」
明らかにこれまでとは違う種類の気持ちよさを感じて、俺は一気に目が覚めた。
目を開けると、いつの間にか俺のブラジャーのホックが外され、姫子が両手で俺の胸をがっつりと揉みしだいていたのだ。
「ひっ! 姫子!? そこは別にやらないでいいんじゃないかな!?」
慌てて身をよじって叫ぶ俺に対し、姫子は至極真面目な顔で、淡々と語り始めた。
「何を言っているんですか兄さん。兄さんみたいに胸が大きい女性は、普段からクーパー靭帯にかかる負荷が大きいのですよ? だから、こうしてしっかりとマッサージしてあげないと形が崩れるし、肩こりの原因にもつながります。だから大人しく施術を受け入れてください」
「ぐぬ……」
そのあまりにも専門的でもっともらしい発言に、俺は反論の言葉を失った。
たしかに、胸が大きくなってから肩が凝りやすくなったのは事実だ。
これも女の子としての自己改革、そしてメンテナンスの一環なのだろうか。
「わ、わかった。恥ずかしいけど、姫子がそういうのなら……が、我慢する」
俺はギュッと目を閉じ、両手でシーツを握りしめて、未知の感覚を受け入れる覚悟を決めた。
それからしばらくの間、下から持ち上げられたり、左右に広げられたり、円を描くように揉み解されたりと、様々な角度から胸をマッサージされる。
指先が触れるたびに、下腹部や身体の奥がゾクゾクと震えるような奇妙な感覚に襲われ、俺は必死に歯を食いしばって耐えた。
──ポタリ。
ふと、胸元に生温かい液体が落ちてきたのに気が付いた。
新たにオイルを垂らされたのかと思い、恐る恐る目を開けた俺は、信じられない光景を目撃した。
「はぁ……はぁ……ふぅ……っ……兄さん……兄さんの……」
俺の胸を揉みしだく姫子は、顔を真っ赤に紅潮させ、荒い息を吐いていた。
そして、その口元からは、だらしなくヨダレが垂れていたのだ。
今落ちてきた液体は、どう見てもそれだった。
「え!? えぇ!? ど、どうしたんだ姫子!? なんかお前、普通じゃないぞ!?」
俺がパニックになって叫ぶと、姫子は焦点の定まらないトロンとした目で俺を見た。
「ふ、うふふ……どうですか兄さん? 気持ちいいですか? ここですか? ここが良いのですかぁ?」
「ヒッ……!?」
まるでお笑いのコントに出てくるテンプレスケベオヤジのような口調で、姫子がいやらしさ全開で胸を揉んでくる。
そのねっとりとした手つきは、もはや健康的なマッサージとは対極にあるものだった。
「ちょっ、んっ! やめ、やめろって姫子! あぅっ! おかしい! これは絶対おかしいって!?」
「おかしい? 兄さん、おかしくなりそうなんですか? いいですよぉ? おかしくなっちゃいましょう? 私が、女の子の悦びを教えてあげますからねぇ?」
明らかにまともじゃない様子の姫子は、俺が逃げ出そうとするのを強い力で押さえつけてくる。
合気道有段者の妹の力に、今の貧弱な俺が敵うはずもない。
まるで飢えた狼に捕食されそうなウサギのような気分になり、恐怖で俺の目尻に涙が浮かんだ。
「それではぁ、いよいよここをマッサージしてあげますね」
「は……? お前まさか……!? 冗談だよな!? 本気じゃないよな!?」
姫子の指が触れてはいけない箇所へと伸びてくる。
お前マジか!? イタズラでそこまでやるか!?
ダメだって! それをやったら本当に冗談じゃ済まされないぞ!?
このままでは、妹に貞操(?)を奪われてしまう──!
そう絶望した、その時だった。
「なんですか、今良いところなんですから……え? 兄さんの顔を見ろですか?」
突然、姫子が煩わしそうに自分の肩を払い、誰かと会話するように一人で喋りだした。
えっ? と俺が戸惑っていると、姫子の視線が俺の顔へと向けられた。
「あ……」
泣きそうな顔でガタガタと震え、涙を浮かべている俺の顔を見た瞬間。
姫子の顔から、さぁっと血の気が引いていくのがわかった。
「───ッ!」
声にならない悲鳴を上げ、姫子はベッドから弾かれたように飛び退いた。
そして、空中で見事な回転を決めると、そのまま床に向かって土下座の姿勢で着地する、世にも美しいジャンピング土下座を披露した。
すげえ! オリンピック選手も真っ青だ!
「すみませんでした調子に乗ってしまいましたごめんなさい本当に申し訳ございませんでした!」
床に額を擦り付けたまま、姫子は息継ぎも忘れたような早口でまくしたてる。
突然の事態の変化に、俺は呆気にとられたままベッドの上で上半身を起こした。
「えっと……」
ブラジャーのホックを直しながら、俺は必死に今の状況を整理する。
要するに『いつものように俺をからかっていたら、イタズラ心が暴走して行き過ぎてしまい、俺の泣き顔を見てハッと我に返った』というところだろう。
「お前のからかいは慣れたつもりだったけど、今回のは流石に良くないと思うよ? 兄妹でも超えちゃいけない冗談のラインはあるからな?」
俺はぎこちない笑顔を作りながら、姫子に許しの言葉をかけた。
大丈夫だから気にすんなよ、と声をかけ、床にへばりついている姫子の肩を支えて起き上がらせる。
すると、姫子は光の消えたグルグルお目々で、虚空を見つめながら呟き始めた。
「私は兄の身体に欲情して我を忘れたゴミです……。どうか、自治体のルールに則り、燃えるゴミの日に適切な手段で処分してください……」
(欲情ってお前……)
ブツブツと物騒なことを口走る姫子を見て、俺は思わず彼女の胸元に視線を向けた。
服の上からでもわかる、見事なまでの断崖絶壁。
(そうか……。自分の胸がフルフラットだから、俺の大きい胸を触っているうちに嫉妬や羨望などの複雑な気持ちが入り混じって、感情がおかしくなっちゃったんだろうな……)
女の子にとって、プロポーションの悩みは深刻だ。
身近にいる俺が急に巨乳になってしまったことで、妹なりに強いコンプレックスを刺激されてしまったに違いない。
俺は、妹の抱える深い闇を理解し、優しい笑顔を向けた。
「本当に気にするなって、姫子。それにほら、お前のマッサージのおかげで凄く体が軽くなったぞ? 凄いよ姫子。ありがとうな!」
ポンポンと肩を叩いて感謝を伝えると、姫子は恐る恐る俺を見上げてきた。
「この矮小で、社会の底辺の私でも、お役に立てたのですか……? 本当に……?」
なんでこいつ、ここまで卑屈になってんだよ……。
ツッコミを入れたくなるほどの圧倒的な卑屈さに戸惑いつつも、俺は大きく頷いた。
「お、おう! 凄いよ! 姫子は凄い! 自慢の妹! よっ、マッサージの達人!」
俺が精一杯のテンションでおだててみせると、姫子はゆっくりと立ち上がった。
そして、ファサッと自慢の黒髪をかきあげると、先程までの卑屈さが嘘のように、ふんぞり返ってドヤ顔を決めた。
「当然です。この私の手にかかれば、どんな疲労もたちどころに治せるでしょう。良かったですね兄さん。私にマッサージしてもらえて。これは栄誉あることですよ?」
「感情の浮き沈みの幅が遊園地のアトラクション並!?」
俺は激しくツッコミを入れたが、とりあえず普段の生意気で強気な姫子に戻ってくれたみたいで、心底ホッと胸を撫で下ろした。
とはいえ、流石に先程の暴走が気まずすぎたのだろう。
「えっと、それでは今日はこのくらいにして、部屋に戻りますね……」
姫子はどこか逃げるようにそそくさと背を向け、俺の部屋から出ていった。
パタン、とドアが閉まる音を聞いてから、俺はベッドの上で大の字に寝転がり、深いため息をついた。
「はぁ……なんだったんだ、あいつ」
天井を見上げながら、俺はふと疑問に思う。
「しかし、正気を失ったあいつが最後に誰かと会話していたみたいだったのは……なんだったんだろうか?」
部屋には俺と姫子しかいなかったはずなのに。
首をひねっても答えは出ず、俺はとりあえず、ブラジャーのホックがちゃんと留まっているか、もう一度確認するのだった。
くうぅ……胸がジンジンするぅ……!




