第29話 動き出した姫子
初めての生理から六日が経過し、ようやく俺の体調は完全に元通りになった。
下腹部を襲い続けたあの重い痛みも引き、どんよりとしていた思考も今は嘘のように晴れ渡っている。
身体が羽のように軽く感じられた。
しかし、本当にこの一週間は地獄だった。
体育の授業を一人だけ端っこで見学する羽目になった情けなさ。
数時間おきにナプキンを取り替えるために、誰にも見られないようコソコソとポーチを隠し持って多目的トイレに向かう屈辱。
おまけに、少しでも立ち上がったり動いたりするたびに、血が漏れて制服を汚していないかと冷や汗をかく恐怖。
それに、男の友人たちに俺が生理だと気付かれるのではないかという心配。
その全てが、俺の男としてのプライドをゴリゴリと削っていった。
これから毎月、もしも男に戻れなければ何十年もこんな日が来るのかと思うと心底憂鬱になったが、姫子も含めて世の女性たちはみんな、この辛さに耐えて隠して涼しい顔で生きているのだ。
男の中の男を目指すこの俺が、月に数回の出血ごときに耐えられなくてどうする。
痛みや不便さから逃げていては、大切なものを守れる強い人間になどなれはしない。
「よし、頑張るぞ俺! 生理などいくらでもかかってこい! ……いや、いくらでもは言いすぎたな。できれば来ないでください。ああ、でも来ないと良くないんだっけ? はぁ……」
一人ベッドの上で拳を握りしめて意気込んでいると、ガチャリとドアが開いて姫子が俺の部屋に入ってきた。
「ん? どうした? また漫画を借りに来たのか?」
俺が声を掛けると、姫子は首を横に振った。
「いえ、兄さんの体調が気になって確認しに来ました」
そう言って、姫子は俺のベッドの脇にチョコンと腰を下ろす。
思えば、この生理期間中、姫子はいつものような鋭い毒舌を一切吐かず、ずっと俺の体調を気にかけて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた。
お腹が痛いと丸まっていれば温かいココアやカイロを持ってきてくれたし、俺が学校にナプキンを持っていくのを忘れて絶望していた時は「こんなこともあろうかと」と言って、常備していた自分の分を分けてくれた事もあった。
あの時の姫子は、俺の目には後光が差す女神のように見えたものだ。
「色々と助かったよ、姫子。お前のおかげで乗り越えられたようなものだよ。本当に感謝してる」
俺が心からのお礼を口にすると、姫子は優しく微笑んだ。
「何かこのお礼をさせてほしいけど、俺にできることなら何でも言う事を聞くぞ。何かあるかなぁ」
俺が腕を組んでそう言うと、姫子はニッコリと笑みを深めた。
「私のおかげですか。兄さんにしては、よくわかってるじゃないですか。……それなら、是非お願いしたいことがあるのですが」
そう言って、姫子がベッドの上をにじり寄って、ゆっくりと俺に近付いてくる。
なんだろう。いつもの姫子なのだが、妙に目が据わっているというか、怖いぞ……?
そして───。
*
「ほら、どうですか兄さん? 見てください」
姫子から手鏡を渡され、俺は恐る恐るその鏡面を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、自分で言うのは非常に恥ずかしいのだが……いつもより物凄く、いや、とんでもなく可愛い『俺』の姿だった。
元々女になってから顔の造形は美少女そのものだったが、今は違う。
ほんのりと色づいた桜色の唇、パッチリとした目をさらに際立たせるアイメイク、そして透き通るような肌にはチークが薄く乗せられ、血色の良さをアピールしている。
そう、姫子は俺に『兄さんの顔を使ってお化粧の練習をさせてください』と言ってきたのだ。
恩人からの頼みとはいえ、男が化粧なんてと渋った俺は「何故練習なら自分の顔でやらないんだ」と真っ当な疑問をぶつけた。
しかし姫子は「他人の顔を使ったほうが、様々な角度や距離から客観的にチェックができるので、より効果的な練習ができるのです。それに、兄さんの素材が良いのでやり甲斐があります」と、もっともらしい理由で俺を丸め込んできたため、しぶしぶ承諾したのだった。
「け、化粧で随分と変わるものなんだな……」
俺が手鏡から目を離せずに呟くと、姫子は満足そうに何度も頷いた。
「そうでしょうそうでしょう。世の女性は、自分磨きをするために日々こうして努力しているのです。それはまさに、兄さんが最高の男を目指すと言って、毎日汗水垂らして筋トレに励んでいたのと同じことです」
「な、なんだって……!?」
俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「美という武装を身に纏うための化粧と、筋肉という鎧を身につけるための筋トレ……アプローチが違うだけで、根底にある『自分をより良く見せたい、強くなりたい』という精神は全く同じなのです」
「そ、そうか! 化粧は自分磨き……! 自己改革なんだな!?」
俺は深く感銘を受けた。
男が化粧なんて女々しいと考えていたが、それは大きな間違いだった。今の自分の身体は女性なのだ。
女性として生きている以上、そのポテンシャルを最大限に引き出す努力、すなわち化粧をすることこそが自然で当然の義務なんだと考えを改める。
「そうですよ。だから兄さんは、もっと可愛くなる努力をするべきなんです。私に身を委ねて、もっともっと可愛い女の子になりましょうね?」
姫子の甘い声が、耳元で悪魔の囁きのように響く。
「わかったよ姫子……! 俺、頑張るよ! 誰もが憧れるような最高の女を目指して自己改革をしていくぜ!」
俺が熱く拳を握りしめて宣言すると、姫子はふいっと顔を逸らし、口元を手で覆った。
「チョロ……」
「ん? 今なんか言ったか?」
「いえ? 気のせいです」
姫子はすぐに元のクールな表情に戻ると、手を叩いた。
「それでは次のステップですが、私、最近マッサージの研究も行っていまして」
「マッサージ?」
「ええ。エステ、リンパドレナージュ、デトックスなど、様々な言い方や技術がありますが、女の子が美しくなるためのそれらの技法を実践で学びたいと思いまして。兄さんの身体で練習をさせてください」
そう真剣な表情で語る姫子に、俺は深く頷いた。
「そっか。お前は本当に向上心の塊だな。感心するよ。俺で良かったら、いくらでも練習台として付き合うよ」
「……ありがとうございます、兄さん。それではベッドで横になってください」
そう言って、姫子は一度自室に戻り、数分後に小さなボトルのようなもの──おそらくマッサージ用のオイルを持って戻ってきた。
俺が言われた通りにベッドにうつ伏せになって待機していると、姫子がベッドの縁に腰を沈める気配がした。
「さて、上着を脱いでください。それと、まずは仰向けでお願いします」
姫子はオイルの入ったボトルを円を描くように振りながらそう言った。
「えっ!? 脱ぐの!? それに仰向けって……!」
俺は跳ね起きるように振り返った。
いくら妹とはいえ、俺の今の身体には、主張の激しい大きな胸の膨らみがあるのだ。
上着を脱いで仰向けになるなど、あまりにも無防備で恥ずかしい。
「当たり前です。服の上からではリンパの流れも筋肉の張りもわかりません。兄さんはエステというものを知らないのかもしれませんが、直に肌に触らないと全く意味がないでしょう?」
「うっ……そ、それはそうかもしれないけど……」
「自己改革をすると、先程ご自分で宣言したばかりですよね? それとも、あれは口だけだったんですか?」
「くっ……わ、わかったよ! 脱げばいいんだろ、脱げば!」
痛いところを突かれた俺は、自ら退路を断ってしまったことを後悔しつつも、しぶしぶ部屋着の上着を脱いだ。
下着姿になった俺は、恥ずかしさから顔を真っ赤にしながら、ベッドの上で仰向けに寝転がる。
天井の照明がやけに眩しく感じられた。
「素直でよろしい。じゃあ、始めますよ」
姫子の冷たい手が、オイルの滑らかな感触と共に俺の肌に触れる。
俺は緊張のあまり目をギュッと閉じていたが、薄目を開けて見上げた姫子の表情はいつものクールな妹のそれではなく、どこかギラギラとした危険な光を宿しているように見えたのだった。




