第28話 白雪姫と、歪な奇跡
夕暮れ時の通学路。茜色に染まる空の下を、私と兄さんは並んで歩いていた。
「いやぁ、女の子は大変だな。俺は甘く見てたよ」
隣を歩く兄さんは、歩きにくそうにお腹のあたりを擦りながら、前を向いたままそんなことをこぼした。
保健室で白河先生に痛み止めの薬をもらい、少し休んだおかげで歩けるようにはなったものの、その横顔にはまだ疲労が滲んでいる。
「薬で痛みはだいぶ治まったけど、それでも血は止まらないし、数日こんなのが続くのかぁ……」
大きなため息をつく兄さんに、私は気の利いた言葉をかけることができず、ただ黙って寄り添うことしかできなかった。
すると、兄さんはふとこちらを向き、あの頃と変わらない、太陽のように温かい笑顔を向けた。
「姫子は凄いな。俺はこんなに辛さを表に出してしまったのに、お前は俺達には辛い表情を見せず、何年もこれと付き合って生きてたんだな。尊敬するよ」
罪悪感で心臓がキュッと絞まる。
真っ直ぐな称賛と、心からの労いの言葉。
本来なら、愛する兄さんからそんな風に言われて、有頂天になってもおかしくないはずだった。
けれど、今の私にはその優しい言葉が、鋭いナイフのように胸の奥をえぐり取っていく感覚しかしなかった。
「……いえ」
私はたまらず視線をそらし、足元の影を見つめた。
「私も最初は驚いたし、母さんに怖くて泣きつきましたよ。だから、兄さんも初めてなんだから仕方ないです」
か細い声でそう返すのが精一杯だった。
それは紛れもない事実だったけれど、今の兄さんにかける言葉としてはあまりにも空々しく感じられた。
「そっか。お前もやっぱり大変だったんだな。俺だけが取り乱してるみたいじゃなくてよかった」
兄さんは私の態度を気に留める様子もなく、安心したようにアハハと笑う。
その無邪気な笑い声を聞くたびに、胸の奥底で黒い罪悪感がどろどろと渦を巻く。
──違う。違うんです、兄さん。
兄さんが今そんな風に苦しんでいるのは、全部、私のせいなのだから。
家にたどり着き、兄さんが自室のベッドで横になったのを見届けてから、私は「少し出てきます」と母に告げて家を飛び出した。
向かった先は、自宅から少し離れた小高い丘の上にある、寂れた小さな神社だった。
木々が生い茂り、昼間でも薄暗い境内には、参拝客の姿など一人もない。
石段を登りきると、古びた拝殿がひっそりと佇んでいる。
ここは、私が中学一年生の頃から高校二年生になるまでの兄さんが女になるまでの五年間、雨の日も風の日も、雪が降る日も、毎日欠かさず通い続けた場所だった。
落ち葉を踏みしめる音だけが響く静寂の中、私は拝殿の前に立ち止まった。
「……」
目を閉じ、静かに息を吐き出す。
すると、眼の前の空間にふわりと光の粒子が集まり始めた。
蛍の光のような無数の輝きが渦を巻き、やがてそれは1つの確かな『人の形』を成していく。
「久しぶりですね。姫子ちゃん」
童女ような、愛らしい声が境内に響き渡った。
そこに顕現したのは、小学生くらいの背丈しかない幼い少女だった。
しかし、その姿は明らかに人間のものではない。
キツネ色の美しいセミロングヘアに、頭にはふさふさとした狐耳。
腰からは立派な狐の尻尾が生えている。
巫女服を独自にアレンジしたような神々しい装束を身に纏い、背中には実体のない光輪がゆっくりと回転していた。
金色の瞳が、夕闇の中で神秘的な光を放っている。
幼い容姿とは裏腹に、対峙しただけで肌が粟立つような、圧倒的な上位存在としての威圧感──いや、神威がそこにはあった。
彼女は、実体化するなり愛嬌のある笑顔を浮かべた。
「どうですか? お願い通りに、お兄さんとは恋人になれましたか?」
無邪気なその問いかけに、私は深く俯いた。
「いえ……申し訳ございません、白妙ノ狐姫様」
ぎゅっと拳を握りしめ、唇を噛む。
「私が貴方に望んで、兄を女体化させたというのに……未だ兄に、私を恋愛対象として意識させる事が出来てはおりません……」
そう。私の目の前でふわりと宙に浮いているこの幼き少女こそ、『白妙ノ狐姫』という名を持つ、正真正銘の神様だった。
*
思えば、私はいつ頃からか狂っていたのだ。
中学一年生になった私は、過去のトラウマから極度の男性恐怖症をこじらせ、男という生き物がどうしても好きになれなかった。
同級生の男子が近くに来るだけで吐き気がし、同じ空気を吸うことすら汚らわしいと感じていた。
しかし、兄さんだけは例外だった。
血を分けた実の双子の兄妹だというのに、私はどうしようもなく兄さんのことが好きで、好きで好きでたまらなかった。
他の誰かと付き合うなんて想像もできない。
私は、兄さんと一生を共にしたいと本気で考えていた。
ただ、そんな完璧な兄さんの唯一の欠点が『男』であるということだった。
それに世間の常識や、倫理という壁。
そして何より、私が男を愛せないという矛盾。
どんなに愛していても男である以上、心の奥底で身体が強張り拒否反応を示す。
それならば、いっそ兄さんが女の子になってくれればいい。
そうすれば、私達は結ばれることができる。
血の繋がりなんて関係ない。
むしろ血の繋がりこそが、他人には真似できない誰よりも強い絆の証ではないか。
そんな狂気じみた願いを胸に秘め、私はこの神社に足を運び始めた。
最初はただの気休めだった。
けれど、想いは日を追うごとに強く、重く、真っ黒に煮詰まっていった。
学校帰りも、休みの日も。三百六十五日、五年間。
『どうか、兄さんが女の子になりますように』
その一念だけで、私は狂ったように祈り続けた。
そしてある日、私の異常な執念が臨界点を超えたのか、奇跡は起きた。
『あわわ……! あまりにも強い願いの気配を感じて顕現しましたが、まさかこんな歪んだ……あっ、いえ! 失礼しました! 強く深い愛の願いとは』
突如光とともに現れた白妙ノ狐姫様は、私の願いの重さに一瞬引いていたようだったが、すぐにコホンと咳払いをして胸を張った。
『わかりました。この世界の創造神、レバムロゴス様の娘である私、白妙ノ狐姫が、その願いを叶えましょう!』
あまりにも現実離れした出来事に呆気にとられて家に帰った翌日。
私の隣の部屋で寝ていた兄さんは本当に、見目麗しい超絶美少女へと変貌を遂げていたのだった。
*
「そうですかぁ」
私の沈痛な報告を聞いた白妙ノ狐姫様は、パタパタと狐の尻尾を振りながら、少し困ったような笑顔を浮かべた。
「姫子ちゃんはお兄さん想いの良い子だから、きっと奥手なんですね。大丈夫ですよ。きっとこのまま頑張れば、いつかきっとお兄さんも姫子ちゃんを恋愛対象として見てくれますよ!」
屈託のない励ましの言葉。けれど、私の心は晴れなかった。
「……今日、兄に生理が来たんです」
ぽつりと、押し殺した声が漏れる。
「とても、辛そうでした。ベッドで丸くなって、お腹を押さえて……。それだけではありません。女の子になった兄は、盗撮されたり、悪い男に暴行されそうになったこともありました。あんなに強くて誇り高かった兄さんが、男の暴力に怯えて、涙を流したんです」
視界が歪み、ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝い落ちた。
「これらは全て……本当なら、起きなかったことなんです。私が……私が自分のエゴで兄を女性にしてしまったばかりに、愛する兄を不幸にしています……っ!」
嗚咽が漏れた。
誰からも尊敬される男になろうと日々努力していた兄さんの人生を、私が根底から壊してしまったのだ。
自分の浅ましい愛情と独占欲を満たすためだけに。
私が余計なことをしなければ、兄さんは今でも学園の王子様として、真っ直ぐに生きていたはずなのに。
罪悪感に押しつぶされ、私は地面に崩れ落ちた。
そんな私を見て、白妙ノ狐姫様は悲しそうな表情を浮かべた。
彼女はふわりと宙に浮かんだまま私の目の前まで近付いてくると、小さな温かい手で私の頭を優しく撫でた。
「泣かないでください、姫子ちゃん」
そして、服の袖で私の頬を濡らす涙を丁寧に拭ってくれる。
「貴方が悲しいと、私も悲しいです。それに……願ったのは貴方ですが、実際にお兄さんの身体を作り変えたのは、神である私の仕業です」
白妙ノ狐姫様は、金色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「だから、一番の責任は私にあります。貴方が、責任を全て背負う必要はないのです」
「でも……っ。こんな私が、兄の恋人になる資格はあるのでしょうか……?」
震える声で尋ねる私に、白妙ノ狐姫様は力強く首を振った。
「心配しないでください。許されない愛などありません」
神様は、満面の笑みでとんでもないことを言い放った。
「これからです。これからお兄さんに『女の子になって良かった』『女の子になって幸せ』と思わせましょう!」
「……え?」
「そうすれば、自ずとお兄さんを女体化させたのは間違っていなかったということになりますし、ゆくゆくは、女体化させた私と姫子ちゃんに感謝してくれるでしょう!」
胸を張って断言する白妙ノ狐姫様の言葉が、私の頭の中にスッと染み込んでいく。
女の子になって、幸せと思わせる。
そうすれば、私のしたことは間違いではなくなる。
兄さんも、女性になったことを肯定してくれる……。
「……」
波立っていた心が、嘘のように静まっていくのを感じた。
暗い絶望の底に、一条の輝かしい光が差し込んだような感覚。
「そうですね……」
涙はもう、すっかり止まっていた。
私はゆっくりと顔を上げ、自然と口元が弧を描くのを感じた。
「ええ、その通りです。兄に、女の悦びというものを心身共に教え込みましょう……!」
暗闇の中で、私の瞳がぎらりと光ったのを感じた。
これまでは少し遠慮があった。突然のことに戸惑う兄さんを思いやって、少しずつ外堀を埋めようとしていた。
だが、それではダメなのだ。中途半端に男としての未練を残させているから、兄さんは苦しむのだ。
「徹底的に、女の子として愛してあげればいい……。そうすれば、きっと私のことを大大大大好きラブラブフォーリンラブという気持ちになってくれるでしょうね……!」
「おやや?」
目の前でふつふつと黒いオーラを放ち始めた私を見て、白妙ノ狐姫様がピクリと狐耳を震わせた。
「ふふ、ふふふ……待っていてくださいね、兄さん。明日からはもう手加減しませんよ。私の愛で、骨の髄までメスに堕として差し上げます……!」
完全に吹っ切れた私の脳内では、すでに兄さんをどうやって雌の悦びに目覚めさせるか、その具体的なプランが次々と構築され始めていた。
そんな私を空中で見つめながら、白妙ノ狐姫様は「姫子ちゃんが元気になってくれて良かった良かった」とホッと息を吐きつつも。
「……私、ひょっとしてまた余計なことをしちゃいましたかね……?」
と、顔を引きつらせて一筋の冷や汗を流すのだった。




