第20話 ひよりの過去と、魔法少女の洗礼
風呂上がりの火照った体をスウェット越しに感じながら、俺はひよりの部屋――通称『聖域』へと戻ってきた。
美少女フィギュアが所狭しと並び、壁一面にアニメポスターが貼られたこの空間は、ある種の圧迫感と、そして妙な居心地の良さを同居させている。
「……ん? 何やってんだ、ひより」
部屋の中央で、ひよりが何やらBlu-rayパッケージの山を崩しては積み直し、ブツブツと独り言を呟いていた。
その背中は真剣そのもので、まるで世界を救うための作戦資料を選定している博士のようにも見える。
「あ、先輩! お帰りなさいっす!」
俺の声に弾かれたように振り返ったひよりは、鼻にかかった銀縁の眼鏡をクイッと人差し指で持ち上げた。
普段の学校生活では見せない姿だ。
明るい栗色のポニーテールに、ナチュラルメイク、そして短いスカートというギャル然とした彼女だが、こうして眼鏡をかけて髪を下ろしていると、どこか素朴な印象を受ける。
「先輩をこっち側の深淵に引きずり込むために、最もふさわしい布教用アニメを吟味してたっす。記念すべき第一歩目は重要っすからね」
「なんだか怖いな……。まあ、俺もアニメは嫌いじゃないけどさ」
俺は苦笑しながら、彼女の足元に散らばるBlu-rayケースの山を跨いで、クッションに腰を下ろした。
ふと、さっきの眼鏡の違和感が気になり、何気なく問いかける。
「そういえば、家では眼鏡なんだな。学校じゃコンタクトなのか?」
「そうっすねー。……ま、もう先輩には私の正体がバレてるから隠す必要もないっすけど」
ひよりは手元のディスクを整理しながら、どこか遠い目をして口元を歪めた。自嘲気味な、乾いた笑いだった。
「私って、中学まではずっと眼鏡かけていて、髪も今みたいに染めてない地味な黒髪で。オシャレにも気を使わない、クラスの隅っこで本読んでるような『ザ・オタク少女』だったんすよ」
「へぇ……そうだったのか」
「意外っしょ? 今の私からは想像つかないと思うっす」
「まあ、そうだな」
今のひよりは、スクールカーストの上位に君臨する陽キャそのものだ。
ムードメーカーで、声がでかくて、誰とでも物怖じせずに話す。
そんな彼女が、かつては地味で目立たない少女だったなんて、にわかには信じがたい。
だが、ふと思考が止まる。
中学から高校に上がるタイミングでの高校デビュー。それはよくある話だ。
けれど、ここまで根底から人格を作り変えるような変化には、相応のエネルギーが必要になるはずだ。
単に「可愛くなりたかった」というポジティブな理由だけではないかもしれない。
過去の自分を殺して、新しい自分に生まれ変わらなければならないほどの、何か――例えば、強烈なコンプレックスや辛い記憶、あるいは逃げ出したい現実があったのかもしれない。
俺は口を開きかけて、すぐに閉じた。
興味本位で聞いていいことじゃない。
俺だって、性転換してからというもの、他人の視線や勝手な解釈に散々傷つけられてきたのだ。
踏み込まれたくない領域は、誰にだってある。
沈黙が部屋に落ちる。
フィギュアのショーケースを照らすLEDの音が、静かに聞こえていた。
ひよりは、俺の顔をじっと見つめていた。
眼鏡の奥にある瞳が、俺の反応を試すように揺れている。
「……先輩は、『何故こうなった』とか、聞かないんすか?」
静かな問いかけだった。
俺は彼女の瞳を見返し、穏やかに微笑んだ。
後に彼女が語る今の俺の笑顔は、驚くほど柔らかいものになっていたそうだ。
「うん。ひより。お前が言いたくなった時でいいよ」
俺の言葉に、ひよりは一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。
それから、表情を緩め、照れくさそうに鼻の下を擦る。
「そっすか……。うん、やっぱ会長は大人っすね。中身は男子高校生のくせに、正直カッコいいっすよ」
「『くせに』は余計だ」
「あはは! そういうとこっすよ!」
ひよりはケラケラと笑い飛ばすと、その湿っぽい空気を自ら断ち切るようにパンと手を叩いた。
「さーて! 気を取り直して、上映会といきましょうか先輩! 『鬼滅』とか『呪術』みたいな、一般人でも知ってるようなメジャー作品しか履修してないニワカな貴方に、アタシが最高のオタクコンテンツを処方してあげるっす!」
「おい、ニワカ言うな。俺はジ◯ンプ本誌派だぞ」
「はいはい、わかったっすよ。……で、今回選んだのはコレっす!」
ひよりが自信満々に突き出してきたのは、一枚のBlu-rayパッケージだった。
パステルカラーの可愛らしいロゴ。フリルたっぷりの衣装を着た、ピンク髪の少女と黒髪の少女。
そして背景にはマスコットキャラクターのような白い小動物。
『魔法少女ま◯か☆マギカ』
俺はその、あまりにもメルヘンチックなタイトルと絵柄を見て、眉をひそめた。
「……魔法少女、ま◯かマギカ?」
「そうっす! 略して『ま◯マギ』! これは義務教育っすよ、義務教育!」
「いやいやいや、待てって」
俺はパッケージを指差して抗議した。
「これ、どう見ても女児向けアニメじゃねーか。プ◯キュアとか、そういうのだろ? 流石に男子高校生の俺が見るにはキツくないか?」
「ふっふっふ……甘いっすね先輩。チョコパフェの底に残ったシロップくらい甘いっす」
ひよりは不敵な笑みを浮かべ、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。レンズがキラリと光る。
「まあ、騙されたと思って観てくださいよ。私のオタクとしてのプライドに賭けて、損はさせないっすから」
「むぅ……そこまで言うなら」
ひよりの手際よい操作で、ディスクがデッキに吸い込まれていく。
部屋の照明を少し落とし、俺たちは床に敷いた大きめのクッションに並んで座った。
彼女の肩が触れる距離。甘いシャンプーの香りが漂ってくるが、今は変な意識はしない。
これはあくまで、彼女を知るための「オタク講義」としての鑑賞会だ。
「はい、どーぞ!」
「お、サンキュ」
ひよりから手渡されたのは、ボウル一杯のポップコーンと、コーラの入ったグラス。
準備がいいな、こいつ。
「やっぱアニメ視聴のお供は、ジャンクなお菓子と炭酸ジュースっすよね! 背徳感こそが最高のスパイスっす!」
屈託のない笑顔でポップコーンを頬張るひよりを見て、俺の作品への警戒心も少し解けた。
まあ、内容が多少子供っぽくても、こうやって誰かと一緒に突っ込みながら見るのは悪くない。
俺もポップコーンを一粒口に放り込み、画面に向き直った。
再生が始まる。
――第1話、第2話。
「……ふむ」
俺の正直な感想は、「思ったよりよく出来てるな」だった。
作画は綺麗だし、動きもいい。謎の生物『キ◯ゥべえ』にスカウトされて魔法少女になる、という導入も王道だ。
ただ、空間演出が独特というか、魔女の結界内の描写がなんだか不気味というか……コラージュっぽい不気味さがあって、そこは少し気になった。
女児向け作品として、これは子どもたちを怖がらせてしまうのではないか?
「なぁ、この『ま◯か』って子、いつになったら魔法少女になるんだ? タイトルからこの子も魔法少女になるんだろ?」
「シッ! 先輩、静かに! ここからが大事なんすから!」
俺がポップコーンを咀嚼しながら尋ねると、ひよりは画面に食い入るようにして俺を制した。
怒られちゃった……。
今は第3話の中盤。
先輩魔法少女である『巴マ◯』が、お菓子の魔女と戦っているシーンだ。
彼女は強くて、優しくて、孤独なまどかたちの良き理解者だった。
「もう何も怖くない、か。死亡フラグみたいな台詞だな」
「…………」
ひよりは無言だ。
画面の中では、マ◯さんが華麗なマスケット銃捌きで魔女を圧倒している。
勝利は目前。軽快で、どこか希望に満ちたBGMが流れている。
「勝ったな。まあ、流石マ◯さんはベテランだけあって強いよな。でももうちょっと魔女には頑張って戦ってほしかったな。見せ場がなさすぎるぞ」
その時だった。
ガブッ。
可愛らしい見た目をしていた魔女が、突然恐ろしい怪物へと変貌し、マ◯さんの頭上から襲いかかった。
一瞬の静寂。
そして、マ◯さんの体が宙にぶら下がり――首から上が、無い。
ドサッ。
力なく落下する、首のない身体。
魔女に貪り食われる音。
「――は?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
ポップコーンを持つ手が止まる。思考が追いつかない。
え? 死んだ? 今、首を?
いやいや、魔法少女アニメだぞ? どうせ次のシーンで「なーんちゃって!」とか、変身が解けてボロボロだけど無事、とか……。
だが、画面は無慈悲に進む。
悲鳴を上げるま◯かとさ◯か。
突如現れてマミさんの代わりに魔女を倒す、性格のキツい謎の魔法少女。
そして流れる、今まで流れたことのなかったおどろおどろしいエンディングテーマ。
暗い画面にスタッフロールが流れる中、俺は口を半開きにしたまま呆然としていた。
「え……? あ、あの……死んじゃったの? マ◯さん?」
「…………」
「いや、マジで言ってる!? これ女児向けアニメじゃないの!? 頭からいかれたぞ今!?」
隣を見ると、ひよりがニヤリと、邪悪な笑みを浮かべていた。
それは、純粋無垢な初心者を沼に突き落とした古参オタクの、愉悦に満ちた表情だった。
「ようこそ先輩。『ま◯マギ』の世界へ」
ひよりは空になったコーラのグラスを掲げ、まるで祝杯をあげるように言った。
「これが魔法少女の真実っす。どうっすか、この絶望感。最高じゃないっすか?」
「お前……性格悪いな!」
俺は戦慄した。
パッケージ詐欺だ。完全に騙された。
だが――。
心臓が、高鳴っていた。
ショックは大きかったが、それ以上に「この先どうなるんだ?」という強烈な興味が湧き上がってきていた。
可愛らしい絵柄の皮を被った、ドス黒い何か。
その深淵を、もっと覗いてみたいと思ってしまった。
「まぁまぁ。……続き、気になります?」
悪魔の囁きのようなひよりの声。
俺はゴクリと唾を飲み込み、リモコンを掴もうとする彼女の手をガシッと掴んだ。
「当たり前だろ! 早く続きを観ようぜ! ここで終わられたら眠れるわけないだろ!」
「あはは! 了解っす! 今日は朝まで耐久レースっすよー!」
俺は完全に、このオタ書記の術中にはまっていた。
だが、そんなことはもうどうでもいい。
俺たちの夜は、まだ始まったばかりだ。




