第2話 兄の誓いと、猛毒白雪姫の誕生秘話
放課後の生徒会業務を終え、本屋に寄り道した俺は少し重くなった鞄を肩に掛け直して玄関のドアを開けた。
キッチンからはトントンというリズミカルな包丁の音と、出汁のいい香りが漂ってくる。
「ただいまー! 今日もデキる生徒会長として完璧な仕事をしてきたぜ、母さん!」
「はいはい、おかえり翔。手洗いうがい忘れないのよ」
エプロン姿の母さんは振り返りもせず、鍋の様子を見ながら適当に応じる。
我が家の女性陣は、俺の素晴らしい自己申告をスルーするスキルが高い。
もうちょっと褒めてくれてもバチは当たらないと思うんだが。
俺は苦笑しつつ、荷物を置くために二階の自室へと階段を上がった。
二階の廊下を歩き、自分の部屋の前まで来たときの事だった。
ガチャリ、とドアノブが回り、部屋の中から誰かが出てきた。
「……あ」
「え? 姫子?」
鉢合わせしたのは、妹の姫子だった。手には俺の本棚にあったはずの少年漫画の単行本が握られている。
「まーたお前、勝手に俺の部屋に入ったのかよ……」
俺が呆れ半分で言うと、姫子は何食わぬ顔で、その美しい黒髪をさらりと払った。
「お借りした漫画の続きが気になったので、仕方ないじゃないですか」
「仕方なくねーよ。一言断れって」
「それとも、何かやましいものでもあるのですか? ベットの下とか」
「ねえよそんなもん! 健全なる生徒会長の部屋だぞ!」
まったく、しょうがないな……。
俺は溜息をつきつつも、内心では少しホッとしていた。
学校ではあんなに冷たくて、話しかければ毒舌が飛んでくる姫子だが、こうして勝手に部屋に出入りするくらいには、俺のことを嫌ってはいないらしい。
その事実に安堵すると同時に、俺の脳裏には幼い頃の記憶が蘇っていた。
(そういえば昔は、もっと素直だったのになぁ……)
*
姫子は幼い頃から、近所でも評判の美少女だった。
大きな瞳に透き通るような肌。引っ込み思案で、いつも俺の後ろに隠れているような性格も相まって「お人形さんみたい」と皆に可愛がられていた。
だが、その愛らしさが仇となることもある。
あれは、俺たちがまだ小学生だった頃だ。
友人と遊んでいると、姫子の友達が血相を変えて俺のもとへ走ってきた。
『翔くん! 姫子ちゃんが大変!』
俺は手にしていたバットを放り投げ、友達の案内で公園の裏手へと走った。
そこで目にしたのは、俺の人生で最も血が沸騰した光景だった。
「いやぁああ! やめてぇっ!」
年上の男子グループに囲まれ、姫子が泣き叫んでいた。
リーダー格の男が、姫子の綺麗な長い髪を乱暴に引っ張り上げている。
「生意気なんだよ、可愛いからって調子乗ってんじゃねーぞ! 俺がキスしてやるって言ってるんだよ」
――プツン。
俺の中で何かが切れる音がした。
恐怖など微塵もなかった。ただただ、大切な妹を傷つける奴らが許せなかった。
俺は咆哮を上げながら、リーダー格の男に飛び掛かった。
「うわああああああっ! 姫子に触るなぁぁぁっ!!」
激情に任せた拳が男の顔面にめり込む。体格差も年齢差も関係なかった。
俺は馬乗りになって、無我夢中で拳を振り下ろした。
鬼のような形相の俺に恐れをなしたのか、取り巻きの二人は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
動かなくなったリーダーを見下ろし、俺は荒い息を吐きながら姫子の方を振り返る。
姫子は泥だらけで、震えながら座り込んでいた。
俺はすぐに駆け寄り、彼女の顔や服の汚れを拭った。
「もう大丈夫だよ、姫子。ごめんな、怖かったよな」
「うっ……ううぅ……お兄ちゃん……」
「何があっても、お兄ちゃんが絶対に守ってやるからな。だから、もう泣くな」
俺は姫子を強く抱きしめ、引っ張られて痛むであろう頭を優しく撫で続けた。
姫子は俺の胸にしがみつき、小さな体で嗚咽を漏らした。
「ありがとう……お兄ちゃん……大好き……お兄ちゃん……」
あの時の、か細く震える声と、俺を頼る小さな温もり。
俺はあの日、心に誓ったのだ。
この世界で一番大切な妹を、俺が一生守り抜くのだと。
*
それからというもの、俺はその誓いを果たすべく奔走した。
勉強も運動も誰にも負けないように努力し、文武両道を極めた。
美しく成長する姫子の隣に立っても恥ずかしくないよう、自分磨きにも精を出した。
その結果が、今のこの俺! パーフェクトイケメン生徒会長、一条翔ってわけさ!
シスコン? 結構。
しょうがないだろ、俺はお兄ちゃんなんだからな。
大切な家族を守るのは長男である俺の責務だ。
この子がいつか結婚して家を出るまでは、亡くなった父さんの代わりに母さんも含めて俺が守るんだ。
……まぁ、予想外だったのは、姫子自身の変化だ。
あの一件を聞いた母さんが激怒し「やられたらやり返せ! 受けた痛みは数倍にして反撃し、二度と手出しをしようと思わせるな! これこそが平和への抑止力!」というスパルタ教育を開始したのだ。
その結果、姫子は合気道に空手、護身術を習得。
引っ込み思案だったおとなしくて優しい姫子は姿を消し、今の「猛毒白雪姫」が爆誕してしまったというわけである。
つまり、俺が守らなくても、今の姫子は物理的にかなり強い。なんなら俺より強いかもしれない。
しかし、強くなったとはいえ、あの一件は姫子の心に深い傷を残したようだ。
男性恐怖症。
彼女が告白してくる男子を鋭利な言葉でバッサリ切り捨てるのは、単なる性格の悪さではなく、自己防衛本能の一種なのだろう。
このままでは彼氏も作れないだろうし、なんとかして普通の幸せを手に入れてほしいものである。
「はぁ……兄としては心配が尽きないぜ」
そんなことを考えながら、俺は自室のソファに座って漫画を読み始めた。
すると再び、ノックもなしにドアが開く。
「……」
姫子だ。
彼女は無言のまま俺の隣に座ると、当然のように俺の肩に頭をもたれかからせてきた。
そして、手には先ほど持ち出した漫画が開かれている。
「ちょ、おい。姫子?」
「……何ですか」
「なんでまた来たんだ? っていうか、なんでここで読むの? 自分の部屋で読めよ。すげー動きにくいんだが」
俺が戸惑いながら問うと、姫子は漫画から視線を外さずに平然と答えた。
「ここで読んだら、続きの巻を本棚からすぐに取れるじゃないですか。効率の問題です」
「効率って……」
そんな理由かよ。
俺の肩に全体重を預け、リラックスしきっている姫子。何やら良い香りが鼻をくすぐる。
学校でのあの冷徹さはどこへやら。家ではこうしてベタベタしてくるあたり、なんだかんだ言って姫子にもまだ甘えん坊なところが残っているんだな。
(まったく、素直じゃないんだから)
俺は苦笑しつつ、ページをめくる。
「はいはい、わかりましたよ白雪姫様。どうぞごゆっくり」
「……む」
俺が茶化すように言うと、姫子は不機嫌そうに唇を尖らせ、俺の二の腕の柔らかいところを指先でキュッとつねった。
「痛っ! 地味に痛い!」
「うるさいです。黙って読んでください」
そう言いながらも、姫子は俺の肩から離れようとはしなかった。
俺たちの日常は、こんな風に穏やかに、そして少しだけ歪な形で続いていくはずだった。
翌日の朝、俺の身体にとんでもない異変が起きるまでは――。




