第15話 あの日交わした約束
「もう大丈夫だからね。大丈夫。よしよし」
倒れた男たちの傍らで、先輩は俺の背中を優しくさすりながら慰めてくれた。
だが、俺の背に触れるその手は、小刻みに震えている。
そりゃあそうだ。いくら武術の心得があるとはいえ、先輩だって普通の女子高生だ。
男たちに囲まれ、暴力を振るわれる恐怖を感じないわけがない。
彼女は今、俺を安心させるために、必死で平気なフリをしているのだ。
俺はそっと先輩の手を取った。
白く華奢な拳の関節部分が赤く擦りむけ、血が滲んでいる。
「先輩のおかげで本当に助かりました。先輩は命の恩人です。綺麗な手もこんなに傷だらけになってしまって……」
俺はその赤くなった手を、慈しむように優しくさすった。
ごめんなさい。俺が不甲斐ないばかりに。
「俺、強くなります。俺は知らなかったんです。女の子ってこんなに危険がある事を」
俺は真剣な目で先輩を見つめた。
男の時は考えもしなかった。ナンパされる恐ろしさも、逃げたくても力でねじ伏せられる恐怖も。
「今回は先輩に守っていただきましたが、今度は俺が先輩を守れるようになって見せます。もうこの綺麗な手を怪我させないように」
「翔くん……」
「まぁ、こんな事件にはもう巻き込まれないのが1番ですけどね」
照れ隠しに苦笑いを浮かべると、先輩もつられるように表情を緩めた。
「そっかぁ。うん。やっぱり翔くんは女の子になってもかっこいいね。ふふ」
その笑顔には、いつものおっとりとした温かさが戻っていた。
「こっちです! こっち!」
突然、若い女性の声が響いた。見ると、二人の制服警官を引き連れて女性がこちらへ駆け寄ってくるところだった。
女性はたまたま公園を散歩していた際、俺たちがガラの悪い男たちに絡まれているのを目撃し、ただ事じゃないと思ってすぐに通報してくれたのだという。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
俺たちが深々と頭を下げると、一人の警官が心配そうに声をかけてきた。
「君たち、怪我はないか? 大丈夫だったか?」
警官の視線が俺の姿に止まる。
無理やりに引きちぎられたシャツのボタン。泥だらけになったスカート。そして、頬に残る涙の跡。
「……酷いな。あいつらがやったのか?」
俺は小さく頷き、震える声で事の次第を説明した。
執拗に身体を触られたこと。性的な言葉を浴びせられたこと。
そして、抵抗した際に地面に組み伏せられ、無理やり襲われそうになったこと。
話を聞くにつれ、警官の顔色がみるみる変わっていく。
「これは……ただのナンパや傷害どころか、不同意性交等未遂罪だぞ」
警官はすぐさま無線機を取り出し、険しい表情で本部に連絡を入れた。
事態は俺たちが思っていた以上に深刻なものとして扱われることになった。
その後、俺たちはパトカーで警察署へと連れて行かれた。
事情聴取や現場検証などで時間は過ぎ、解放されたのはすっかり日が落ちてからだった。
担当した刑事の話によると、あの男たちは以前にも傷害罪で捕まったことがある、札付きの危険人物たちだったらしい。
「しかし、そんな連中を一人で倒すなんて……こんな虫も殺せなさそうな綺麗なお嬢さんが、人は見た目じゃわからないねぇ」
刑事が目を丸くして感心すると、先輩は「たまたま運が良かっただけですよ。本当に怖かったんですから」とはにかんで見せた。
警察署を出ると、一台の黒塗りのリムジンが入り口前に横付けされていた。
助手席からスーツ姿の女性が飛び出してくる。
「お嬢様!」
「あら、玲奈さん!」
「心配いたしました、大丈夫ですか!? お嬢様に何かあったらと思うと……!」
女性は青ざめた顔で先輩の身体を点検するように見回している。
その光景を見て、俺は改めて実感した。やっぱりこの人、本物のお嬢様なんだな。
「私は大丈夫よ~。知ってるでしょ? 私結構強いんだからぁ」
先輩はあっけらかんと笑って見せる。
本当は怖かったはずだ。手が震えていたのを俺は知っている。
それでも、俺にも身の周りの人にも心配させないように振る舞う彼女の強さに、俺は改めて尊敬の念を抱いた。
「それじゃあ、一緒に行きましょう翔くん。ご家族も心配してるでしょうし、お家まで送るわ」
「ありがとうございます。助かります」
俺たちはリムジンに乗り込んだ。
まさかリムジンに乗れる日が来るなんて思ってもみなかった。ドキドキするな!
お付きの女性が「翔くん……? え? 生徒会長は男性とお聞きしていましたが……えぇ?」と小声で困惑していたが、今の俺の状況を説明するのはあまりにも難しいので聞かなかったことにした。
リムジンに揺られること数十分。俺の家の前に到着した。
先輩にお礼を言って車を降り、玄関のドアを開ける。
「ただいま」
その声を聞いた瞬間、ドタドタと廊下を走る音が聞こえ、母さんと姫子が飛び出してきた。
「翔! 警察から連絡があったけど大丈夫!?」
「に、兄さん! 複数の男に襲われたって、ほ、本当ですか!?」
姫子の顔は蒼白だ。
そして俺の姿――泥汚れが残り、ボタンのない箇所を安全ピンで止めた上着、擦りむいた脚、セットが崩れた髪を見て、姫子が絶叫した。
「きゃああああああ!? うそ、嘘でしょう兄さん! どこまで!? どこまでやられたの!? ま、ままま、まさか! いれっ、挿入れられた……!?」
目からボロボロと涙を溢れさせ、悲痛な叫びを上げる姫子。
一瞬意味がわからなかったが、すぐに姫子の発言のド直球な意図を悟り、俺は顔を真っ赤にして叫び返した。
「そ、そんな事されてないよ! 何もされてない! 綺麗なお兄ちゃんのままだよ! 気持ち悪い事を言うな!」
「ほ、本当に? 本当ですか? よ、良かった……」
姫子はその場にへたり込み、安堵の息を漏らした。だがすぐに顔を上げると、その瞳から光が消え失せていた。
「兄さんが穢らわしい男どもに触れられるだけでも許せないのに、もしそれ以上の事をされたのならば……私は気が狂ってその男を殺します」
低い声。本気のトーンだ。
怖い怖い! なんでいつも俺に対して毒舌な姫子が、そこまで俺のためにキレているのかわからない。
自分のおもちゃが他人に触られるのが嫌な子供の心理だろうか?
これ、もし俺が彼氏なんて作った日には、その相手は姫子にどんな目に遭わされるのか……想像するだけで震えが止まらない。
いや待て、そもそも俺は男だから彼氏なんかじゃなくて彼女が欲しいんだよ!
なんで彼氏を作る想像をしなきゃならんのだと、俺はブンブンと頭を振った。
「本当に? 本当に何もされてないんですよね? ちょっと服を脱いでください。私が直接確認しますから」
「ちょ、やめろ! 脱がそうとするな!」
俺にまとわりつき、服を脱がそうとする姫子を引き剥がしながら、俺は思う。
まぁ、最近は姫子もなんだかんだ少しは自分に優しくなったし、兄妹の絆が少しは強くなったのかな、と。
……この、たまにやられる過剰なスキンシップさえなければ、もっと良い妹なんだけどなぁ。
こいつは俺のことを、ちゃんと兄として慕っているのか嫌いなのかがさっぱりわからない。
*
その日は遅くなった夕食を胃に流し込み、風呂から上がるとすぐに寝ることにした。
心身ともに限界だった。
「今日は本当に疲れた……すぐに眠れそうだ」
ベッドに潜り込み、そう呟いた数分後には意識が途切れていた。
――ガシッ。
不意に、強い力で肩を押さえつけられる感覚。
視界いっぱいに広がるのは、ニヤニヤと歪んだ男の顔。
「優しくしてやるからよ」
耳元で囁かれる湿った声。
逃げ場のない圧迫感。男の重み。
「や、やめろ!!」
俺は叫び、突き飛ばそうと必死に手を伸ばした。
だが、その手は何も無い虚空を空振りする。
「はっ、はぁっ、はぁっ……!」
俺はガバッと上半身を起こした。
荒い呼吸とともに、周囲をキョロキョロと見渡す。
そこは電気を消した薄暗い俺の部屋で、俺は公園の地面ではなく、自分のベッドの上にいた。
「ゆ……夢……?」
呟く声が震えている。
Tシャツはびっしょりと汗で張り付き、額から冷たい汗が流れ落ちる。
いつの間にか眠っていて、夕方の出来事が悪夢となってフラッシュバックしてしまったのだ。
ドクンドクンと心臓が早鐘を打っている。
あの時の恐怖が、無力感が、生々しく蘇る。
「く……うぅ……」
俺は胸のあたりを強く押さえ、悔しさに唇を噛んだ。
目に涙が滲む。情けない。怖い。悔しい。
その時、ゆっくりとドアが開いた。
廊下の光を背負って、姫子が入ってくる。俺の叫び声を聞いたのだろう。
「……悪夢を見たんですね」
全てを察したように呟くと、姫子はベッドの傍らに腰掛けた。
そして、震える俺の背中に手を当て、ゆっくりと、何度も優しくさすってくれる。
「怖かったですよね」
その表情に、普段の毒舌や冷徹さは微塵もなかった。
ただひたすらに、兄を心配し、気遣う慈愛に満ちた顔だった。
「……男だった時は、こんな目に遭うなんて全く考えてなかった」
俺はぽつりぽつりと、心の奥底に溜まっていた澱を吐き出した。
「運動神経は良かったし、男の俺の身体を狙って襲ってくるやつなんていなかった」
俺は自分の身体をぎゅっと抱きしめた。
かつては筋肉質になりたかったこの身体。今は柔らかく、か細い少女の身体。
「『美少女ってのは、可愛いだけで皆にチヤホヤされて、美少女というだけで得が出来る人生イージーモードだろうな』なんて……正直思ってたこともある」
浅はかだった過去の自分を嘲笑うように、俺は言葉を続ける。
涙が頬を伝い落ちる。
「でも、現実は違った。一部の人間だけとはいえ、身体をいやらしい目で見られ、スカートの中をチャンスがあれば覗こうとされ、下着を見られてしまえば盗撮された挙げ句に写真をネットで共有されたし……挙句の果てには今日みたいに力ずくで、お……おか……犯されそうに……なった……」
そこまで言って、俺は顔を両手で覆った。
守るべき妹に、こんな情けない兄の顔を見られたくなかった。
「兄さん……」
姫子の声が詰まる。かける言葉が見つからないのだろう。
沈黙が落ちた部屋で、俺のすすり泣く音だけが響く。
ふいに柔らかくて温かい感触が俺を包み込んだ。
姫子が俺を抱きしめていた。
「昔、いじめられていた私が、兄さんに助けられたことがありましたよね」
姫子の静かな声が耳元で響く。
俺は顔を覆ったまま、コクリと頷いた。
「あの日の夜、実は私も悪夢を見て眠れなかったんです。その翌日も、目を閉じるとあのいじめっ子の顔が浮かんできて、怖くて怖くて眠るのが怖くなって……」
そうだったのか。
知らなかった。あの時の姫子も、今の俺と同じ恐怖に震えていたなんて。
「でも、その日の夜、兄さんが私の部屋にやってきて『眠れないのか姫子? 大丈夫だ! お兄ちゃんがお前を怖い夢から守ってやる! お前を怖がらせるやつなんて、俺が全部ぶっ倒してやるからな!』と言って、私の布団に入ってきて一緒に寝てくれたんです」
(えぇ!? 俺、そんなこと言ったの!? でも、俺なら言いそう!)
全く覚えていないが、いかにも昔の俺が言いそうな台詞だ。少し恥ずかしい。
姫子は体を離し、俺の顔を覗き込んだ。そこには今までに見たことのないくらい、優しく穏やかな笑顔があった。
「布団の中であったかい兄さんに抱きしめられて目を閉じると、もう悪夢なんて一度も見なくなりました。怖いものはみんな兄さんがやっつけてくれる。だからもう何も怖がる必要はないんだって……」
そう言って、姫子は俺の肩を押した。
抵抗する気力もなく、俺は再び枕に頭を沈める。
すると姫子もベッドに入り込み、俺を抱きしめるようにして隣に横になった。
「あの時兄さんが私を絶望から救ってくれたように、私が兄さんを怖い夢から守ってあげます。安心して眠ってくださいね」
鼻と鼻がくっつきそうな距離。
姫子の瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
兄妹とはいえ、こんな状況で眠れるわけがないと言いたかった。
でも、姫子に抱きしめられたその体温と、包み込むような優しさに、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
温かい。
怖い夢なんて、もう見ない気がする。
一気に襲ってきた睡魔に、俺の重いまぶたがゆっくりと閉じていく。
意識が暗い水底へと沈んでいく中、微かな声が聞こえた。
「おやすみなさい。私の大切な兄さん」
柔らかい感触が、額に触れたような気がした。
それがキスだったのかどうか、確かめる術もないまま、俺は今度こそ深い眠りにつくのだった。




