第4話 届かない距離
距離は、思ったより遠かった。
踏み出した瞬間は近く見えたのに、足を進めるほどに間が埋まらない。足元の灰が滑り、踏みしめているはずの地面の感触が薄れていく。
進んでいるのか、止まっているのか分からなくなる。
「……ちっ」
速度を上げる。考えるな、足を動かせ。それだけだ。
視界の端で灰の影が揺れる。リノへ向かっている。確実に。
少女は逃げない。いや、逃げられないのか。膝を抱えたまま顔を上げ、こちらを見ている。
目が合った。
「――ごめん」
小さく、そう言った。
何に対しての言葉かは分からない。だが意味は理解できる。
選ばれた。
それだけだ。
俺は加速した。地面を蹴るたびに灰が散り、肺に入る空気がわずかに重くなる。息が詰まる。それでも距離はまだある。
――間に合わない。
そう判断した瞬間、足が止まりかける。
だが、止めない。止める理由がない。
「後悔はあとでいい」
低く吐き出し、剣を握る手に力を込める。意味がなくても構わない。やることは一つだ。距離を詰める。
灰の影が、リノの前に立つ。輪郭が揺れ、手のようなものが伸びる。触れていない。だが、確実に届く。
その直前、俺は少女の前に滑り込んだ。体を差し込み、腕で庇う。影と真正面から向き合う。
冷たい。
空気が抜けるような感覚が、胸をかすめた。一瞬、意識が揺れる。
だが、抜けていかない。
「……俺か」
呟く。
影は止まっていた。見ているのかどうかも分からない。それでも、“選び直している”ような気配があった。
灰が足元で渦を巻く。体が重くなる。沈むような感覚。内側から何かを剥がされるような違和感。
歯を食いしばる。
耐える。
理屈は分からない。だが、持っていかれるものがあるのは分かる。なら、渡さなければいい。
影が、わずかに揺れた。
そして――離れた。
すっと距離を取り、形が崩れる。灰が地面に落ち、消える。
静寂が戻る。
風はない。音もない。ただ、さっきまであった圧だけが、わずかに残っている。
俺はゆっくりと息を吐いた。肺の奥が重い。何かが減ったような感覚がある。
だが、立っている。それで十分だ。
「……立てるか」
振り返らずに言うと、背後で布の擦れる音がした。
「……うん」
小さな返事。生きている。それだけでいい。
だが、終わってはいない。
広場の向こうで叫び声が上がった。反射的に視線を向ける。家の前で、一人の女が崩れ落ちている。誰かが駆け寄り、抱き起こす。
だが、反応はない。
「……そっちか」
選び直された。
リノではなく、別の誰かに。
影は消えたわけじゃない。条件が満たされていない限り、補われる。
村人たちの間にざわめきが広がる。
「まただ……」
「どうして……」
「順番じゃなかったのに……」
順番。
その言葉が引っかかる。
俺は少女を一瞥した。無事だ。震えてはいるが、動ける。
「中に入れ」
「……でも」
「いいから」
短く言うと、少女は頷き、家の方へ走った。
それを確認してから、俺は広場の中心へ戻る。
村人たちは死体から距離を取っている。円ができていた。誰も近づかない。近づけない。
「何人目だ」
近くの男に聞く。
「……四人目だ」
震えた声だった。
「これで終わるのか」
男はすぐに答えなかった。やがて、小さく首を振る。
「分からない……でも、いつもは……三人か、四人で……止まる」
曖昧だ。だが目安にはなる。
俺は空を見上げた。夜はまだ深い。灰は消えていない。地面に残っている。
つまり、終わっていない。
「……なるほどな」
小さく呟く。
守る。選ぶ。切り捨てる。
全部同じだ。この村も同じことをしている。ただ、やり方が違うだけだ。
俺は剣を納めた。今は斬る場面じゃない。知る場面だ。
どういう順番で、何を基準に選んでいるのか。それを掴まない限り、同じことが繰り返される。
風がわずかに動く。灰がまた流れる。村の奥から、ゆっくりと。
まるで、まだ足りていないと言うように。




