第3話 残されたもの
背後で、空気が裂けるような気配がした。
振り向くより先に体が動く。踏み込み、剣を横に払う。だが手応えはない。空を斬っただけだった。
それでも、刃の軌道に沿って灰が散る。白い粉が、そこに“何か”がいた形を一瞬だけなぞった。
人の輪郭。曖昧で、崩れかけた影。
それはすぐに消え、残るのは灰だけだった。
「……触れられないのか」
呟く。答えはない。
斬れないものは珍しくない。問題は、どうやって近づいてくるかだ。
気配が移る。背後、右、そして正面へ。
音はない。視界にも入らない。だが、確実に“いる”。距離だけが、不規則に、しかし確実に縮まっていく。
「……見えてるか」
少女に声をかける。
返事はない。
嫌な予感がして視線を落とす。そこにいたはずのリノの姿がない。広場には、俺一人だった。
「……チッ」
舌打ちが漏れる。
消えたのか。それとも――。
思考を遮るように、気配がまた動いた。今度は正面、井戸の縁。
灰が集まっている。まるで呼吸するように、膨らみ、沈み、また膨らむ。
形を作ろうとしていた。
「……来るなら来い」
構える。逃げても意味はない。この距離の詰め方をされる限り、背を向ける方が危険だ。
灰がゆっくりと持ち上がり、人の形を取る。顔はない。目も口もない。ただ、そこに“人の輪郭”だけがある。
一歩、前に出る。
その瞬間、何かが俺の横をすり抜けた。
冷たい。空気が抜けるような感覚。
遅れて、音が来る。倒れる音だ。
振り向く。
広場の端で、木箱が崩れている。そのそばに、昼間見かけた男が倒れていた。
動かない。
血は出ていない。だが、明らかに生きてはいなかった。
「……そういうことか」
理解する。
触れない。斬れない。だが――奪う。
直接ではない。何かを引き剥がすように。
命か、魂か、それに近いものか。どちらでもいい。結果は同じだ。
死ぬ。
背後で灰が崩れる。さっきの形が消え、今度は井戸の向こう側に現れる。
距離を保っている。見ているのかどうかも分からないのに、確かにこちらを意識している。
厄介だ。狙いがある。
俺ではない。村だ。
選んでいる。誰を消すかを。
「……ふざけたやり方だな」
吐き捨てる。
だが怒りはない。ただ、事実として受け取る。こういうものだ。この手の歪みは。
理屈は通らない。ただ、結果だけが積み重なる。
家の戸が開く音がした。何人かの村人が顔を出し、広場の様子を見て凍りつく。
倒れた男に気づき、誰かが声を上げた。
「まただ……」
震えた声だった。
また。
つまり、初めてではない。
「引っ込んでろ」
短く言う。だが村人たちは動かない。動けない。
理解しているからだ。何が起きているか。そして、何もできないことを。
――カン。
音が鳴る。三度目だ。今度はすぐ近く、耳の奥に残る乾いた響き。
灰がまた動く。井戸のそばに、今度は二つ。
輪郭が増える。
「……数を増やすのか」
舌打ちする。
だが違う。
これは、足りていない。
最初から決まっている数に届いていないだけだ。だから続く。揃うまで。
「……なるほどな」
村長の言葉を思い出す。四人目が出るなら、今夜。
“出るなら”じゃない。“出る”。
必ずだ。
俺は剣を下ろした。構えても意味はない。斬れないものに刃は通らない。
なら、見るしかない。
どうやって選ぶのか。何を基準にしているのか。それを知らない限り、止めようがない。
灰の影が動く。今度は村人の方へ。
叫び声が上がる。誰かが逃げ、誰かが腕を掴んで引き留める。
「外に出るな!」
遅い。すでに選ばれている。
影が一人の前に立つ。動きが止まる。
だが、何も起きなかった。
影はすり抜けるように通り過ぎ、別の方向へ移る。
「……違う」
無差別ではない。選んでいる。条件がある。
だが、まだ分からない。
何が基準だ。何を見ている。
灰が広がる。夜が深くなる。
その中に、小さな影が見えた。
広場の外れ、家の陰。しゃがみ込んでいる。
リノだ。
「……」
気づいていない。いや、気づいているが動けないのか。
灰がゆっくりとその方向へ流れる。影が一つ、そちらへ向かう。
距離が縮まる。
俺は動いた。
考えるより先に、体が反応していた。
足が地面を蹴る。灰を踏み抜き、一直線に少女のもとへ向かう。
間に合うかどうかは関係ない。
ただ、やることがある。
それだけだ。




