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誰も間違っていない世界で  作者: 抹茶
第1章 選ばれる夜

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第1話 灰の匂いが残る村

村に入る前から、風の匂いがおかしかった。


 雨の前触れに湿る土の匂いでもない。家畜の糞や薪の煙が混じった、どこの寒村にもある生活の臭気でもない。


 灰だ。


 何かを焼いたあとにだけ残る、乾いて軽い匂いが、山から吹き下ろす風に混じっていた。


 俺は立ち止まり、背負っていた荷を片手で支え直した。目の前には、低い石垣で囲まれた小さな村がある。二十戸あるかないか。畑は痩せ、家々の屋根板は黒ずみ、村の入口に立つ杭には、古びた護符のような布切れがいくつも結びつけられていた。


 布はどれも煤けていた。


「……歓迎はされてなさそうだな」


 独り言に返事はない。


 当然だ。依頼を出したのはこの村だが、よそ者を待ちわびるような土地には見えなかった。


 石垣を越え、村へ足を踏み入れる。すると、井戸端で水を汲んでいた女が、露骨に顔をこわばらせた。近くで木箱を運んでいた男も手を止め、子どもが一人、母親の裾の後ろに隠れる。


 視線が集まる。


 敵意というより、警戒。もっと言えば、怯えに近い。


 俺は構わず歩いた。こういう目には慣れている。剣を帯び、長旅の泥を被った男を、村人はだいたい二種類に分ける。災いを遠ざけるものか、災いそのものか。


 たいていは後者だ。


「依頼を受けて来た」


 広場らしき開けた場所で、俺は一番年を食っていそうな男に声をかけた。白髪交じりの髭を生やした、骨ばった男だった。村長だろうと当たりをつける。


 男はすぐには答えず、俺の腰の剣と、背の荷、それから顔を順に見た。


「……処理屋か」


「そう呼ぶやつもいる」


「来るのが遅い」


「山道が崩れていた」


「言い訳にはちょうどいいな」


 棘のある言い方だった。俺は肩をすくめる。


「依頼書には“人が消える”としか書かれていなかった。獣か、盗賊か、村内の揉め事かで話は変わる。まずは詳細を聞かせてもらう」


 男は周囲を見た。村人たちは仕事の手を止めたまま、こちらを気にしている。聞かれたくない話なのか、それとももう何度も口にして、擦り切れているのか。


「家の中で話す」


 そう言って男は踵を返した。


 ついていく途中、視界の端で何かが揺れた。


 家と家の隙間。木柵の向こうに、小さな影が一つ立っていた。十にもならない少女だ。ぼさついた黒髪に、痩せた頬。こちらを見ている。いや、正確には俺ではなく、俺の足元あたりを見ていた。


 視線を落とす。


 土の上に、白い粉が筋のように残っている。


 灰だった。


 風に吹かれ、地面の上を薄く流れている。村の奥からだ。


「どうした」


 前を行く男が振り返る。


「いや」


 俺は少女から目を離した。次に見たときには、もうそこにいなかった。


 通されたのは、広場に面した一番大きな家だった。中は薄暗く、窓には内側から板が打たれている。昼間だというのに灯りが必要なほどだった。


 男は椅子に腰を下ろさず、立ったまま言った。


「消えたのは三人だ」


「いつから」


「ひと月で三人」


「順番は」


「子ども、女、子ども」


 俺は荷を下ろし、机の端に手帳を置いた。


「死体は」


「出ていない」


「血痕は」


「ない」


「争った跡は」


「ない」


「目撃者は」


 そこで男は一度口を閉ざした。


 沈黙は短かったが、十分だった。


「……いるな」


「見たと言った者はいた」


「誰だ」


「子どもだ。話にならん」


「その子どもは何を見た」


 男は不機嫌そうに眉を寄せた。答えたくないのではなく、その内容を口にしたくない顔だった。


「“連れていかれた”と言った」


「誰に」


「知らん」


「姿は」


「暗くて見えなかったと」


 定番だ。だが、村人が嘘をつくときの顔ではなかった。


「他には」


「鐘の音がしたそうだ」


「鐘?」


「この村に鐘はない」


 俺は手帳を閉じた。


 荒唐無稽に聞こえる。だが、妙な話ほど、最初から切り捨てると碌なことにならない。


「消えた三人に共通点は」


「ない」


「本当に?」


 男は俺を睨んだ。


「言いたいことがあるならはっきり言え」


「共通点がない失踪は、たいてい嘘だ。村の外から来た者、特定の家系、夜歩く癖がある、何でもいい。選ばれ方に規則がある」


「……規則などない」


「なら、次も偶然か」


 男の喉がわずかに動いた。


 その反応だけで十分だった。


「次がある前提で話してるな」


 俺が言うと、男は顔を背けた。窓板の隙間から差し込む細い光が、頬の深い皺を照らす。


「今夜だ」


「何が」


「四人目が出るなら、今夜だと皆が言っている」


「根拠は」


「そういうものだからだ」


 苛立ちではなく、諦めの混じった声だった。


 俺はしばらく黙っていた。こういう土地では、理屈より先に、長く積み上がった思い込みや恐れがある。それ自体が人を殺すこともある。


「分かった」


 荷紐を解き、中から短剣と小さな油灯、それから灰色の外套を取り出す。


「今夜、外を見張る」


「一人でか」


「十分だ」


「死ぬぞ」


「おまえたちが何もしないならな」


 男は唇を噛んだ。怒ったのか、言い返せないのか、その両方か。


「忠告しておく」


 低い声で男が言う。


「夜、村の外へは出るな。声がしても振り返るな。誰かに名を呼ばれても、返事をするな」


「ずいぶん親切だな」


「親切じゃない」


 男は俺をまっすぐ見た。


「それで三人いなくなった」


 家を出ると、空はまだ明るいのに、村全体がもう夕暮れのように沈んで見えた。


 広場の隅で、さっきの少女がまたこちらを見ていた。今度は逃げない。裸足の足首まで灰がついている。


「おい」


 声をかけると、少女は一歩だけ近づいた。


「おまえ、何か見たのか」


 少女は黙ったまま、俺の顔を見上げた。ひどく静かな目だった。子どもの目ではない。泣き疲れて乾いた目だ。


 やがてその小さな口が動く。


「おにいちゃんも、いなくなるの?」


 答えずにいると、少女は視線を逸らさなかった。


「みんな、いなくなる前に、同じ匂いがする」


「同じ匂い?」


「灰の匂い」


 風が吹いた。


 村の奥から流れてきた灰が、二人の間を細く横切る。


 俺は少女の頭越しに、村はずれの森を見た。木々の隙間は暗く、まだ日が落ちていないはずなのに、その一帯だけが夜を先取りしたように黒い。


「名前は」


 少女は少し迷ってから答えた。


「……リノ」


「そうか、リノ」


 俺はそれだけ言って、灰を踏みしめた。


「後悔? あとでいい。今はやることがある」


 少女に言ったわけではない。ほとんど自分に向けた声だった。


 そのとき、村のどこからか、鐘のような音が一つ鳴った。


 乾いた、ひび割れた音だった。


 広場にいた村人たちが、一斉に顔を上げる。


 誰も何も言わない。


 ただ、全員が、村の奥を見ていた。

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