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春の訪れ11

 少し、逸人の視点で振り返ってみよう。

 熊に襲われたところからだ。


 振り上げられた腕は丸太のように太く、その速さも並大抵のものではなく、対応に遅れた逸人は苦し紛れに腕で顔を守るような動きが限度だった。

 直前に鹿の角が刺さらなかった記憶は新しいが、熊の爪とは威力が違う。

 それは眼前の迫力からも明らかだった。


 なんなら死ぬことまで覚悟した。

 復活できると言われていたこともあり、なんとなく他人事のような感覚も。

 だから驚いた。爪の方が折れるなどとは思わなかったからだ。


 しかし驚きは怒涛(どとう)の如く押し寄せる。

 なぜなら熊が怒っていたから。


 怒らせるようなことをした記憶は―――・・・逸人にしてみればなかった。普通に考えても爪を()し折れば怒って(しか)るべきだと気付きそうなものだが、如何(いかん)せん凡庸(ぼんよう)な学生だ。その場の出来事へそれだけの思慮を求めるのは難しいものがある。


 鋭い眼光に憤怒(ふんぬ)を感じながら、噛み殺すという意思が襲う。

 音もなく迅速(じんそく)に行われた暗殺のような所業(しょぎょう)も。

 その切っ先が皮膚を貫くことはなく、逸人からすれば(よだれ)の方が気になった。


 少々しっとりとした首筋、肩口から獣臭さが(ただよ)わないか? などという、ズレにズレた思考が(めぐ)ったのはきっと、痛みも無しに場面が点々とし続けたせいに違いない。


 そして噛み付かれたままの唸り声により、涎が弾ける飛沫(ひまつ)となって広がる被害に眉を(ひそ)めようという瞬間に、熊の涙を目にしていた。

 何故? と素で思うが、これも(ひど)い話だろう。

 逸人は熊の恐怖にすら気付かない。

 その震えも、必死さも、逃げ出すという決断にさえ、疑問だけを浮かべた。


 まとめると。


 音が鳴り、鹿が来て、逃げる。

 怪我無し。

 鹿が戻り、熊が現れ、逃げる。

 怪我無し、汚れあり。


 といった具合で、理解にまで及ぶことがなく、逸人はずっと遅れた反応で首を(ひね)るしかできなかった。

「きゃあああああああ‼‼‼」

 という、絹を裂くような悲鳴を耳にするまでは。


 逸人は優しい性格ではある。

 助けを求める悪魔を見て見ぬふりをする薄情さもあるが、そんな悪魔が車に轢かれそうになれば、ついで手を差し伸べてしまうぐらいには優しい。


 もう1つ。

 何も分からないほどの馬鹿ではない。


 天界へ来て、多くの情報や状況に押し流され、疑問符ばかり浮かべて来た。

 判断に後れをきたしていたし、敵を逃がし、増援を呼ばれたりもしている。

 けれども、これらは本能的に危害がなかったがため、無意識に許していたにすぎないのだ。


 なぜか熊が逃げ出した。

 その行く先から悲鳴が聞こえる。

 では、その原因とは誰か?


 もし、なにかあったとして。

 責任を取るべきは誰になるだろうか?


 逸人はこれを自分のせいだと考える。

 一般的にはそうでなかったとしても、偶然の中に自身が含まれ、それが意思や行動によって避けられる理不尽だったなら、その責任は自分にあると、自責してしまう。


 言ってしまえば考えすぎではあるが、それぐらいに優しいとも言えるのだ。


 その上で、人はいつだって言い訳を求めている。

 精一杯やったのだから、最後まで諦めなかったのだから、気付いた時から、できることだけでも・・・―――だから許して欲しい。そう言えるように。

 いつだって、言い訳を求めている。


 悪いことではない。

 考え方が後ろ向きであったとしても、意味のない努力だったとしても。

 取り組むことをやめないという姿勢は決して責められるべきものではない。


 この時初めて、只野逸人という人間は。

 自らの意思で行動した。

 この危機を呼んでしまったことを取り(つくろ)うため、悲鳴から瞬時に判断して、力強く地面を蹴った。


 思い出してみて欲しい。

 この人間は鋭利な鹿の角にも、熊の爪にも、牙にも。

 あまつさえ十段階を数える位階の中で、頂点の十にほど近い七を持つ天使の攻撃にすら、無意識の内に寸止めだと感じるような肉体を保持(ほじ)している。


 そんな存在が地面を強く蹴ろうものなら・・・どうなるだろう?

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