春の訪れ10
手入れを欠かしたことがない爪が折れたとて、逡巡の間もなく牙に切り替える熊。
その動きはさながら蛇のように、素早く柔軟に獲物へと喰らい付く。
侮ったことを、見下したことを後悔させるため必殺の噛み付き。
柔らかそうな首筋へ、寸分違わず致命傷となる一撃を。
目一杯、そう力の限りで食いついた。
だが硬い!
鋭さに自覚のある牙が、噛み切れなかった肉などないこの牙が、突き刺さる気配すらない。
戯れに噛んだ幹よりも、標的に避けられ味わった岩よりも、過去最も苦労した大蛇の鱗よりも、よっぽど硬い。
よもや生物の体などではないほどの硬度。
硬い鱗に覆われた大蛇の身であってさえ、噛みつけば弾力が伝わったもの。
それすらがなかった。
自然には存在しえない、目には見えない壁をかじっているかのような感覚。
恐怖、もしくは畏怖。
紛れもなく、仕掛けた側がそれを感じる異常。
これが魔法の効果であれば納得も出来ただろう。
世界の理の上に乗る魔法の力であれば。
しかし、そんな事実はなく。現に魔法の発動を感じられない。
それはつまり、生物としての圧倒的差にあると実感してしまう。
熊はこの時点で悟っていた。
己の敗北を。
その先にある死を。
天界において、そしてこの神域においても。
死とは永遠の終わりではない。
一時的な敗走であり、存在力が続く限り、再起することができる。
多かれ少なかれ、皆がその体験を経て成長していくのだが・・・。
この熊にはまだ、その経験がなかった。
問題はそれにとどまらず、存在力の差を感じてしまったが故の錯乱。
これだけの差がある相手に殺されてしまったら、自信の存在力は果たして残っているだろうか? という疑問。
そこから湧き出る真なる死、存在力の消失。それによる消滅の危機。
「ヴェアアアアアァアアァァアアッ⁉⁉⁉」
噛み付いた瞬間の硬さに驚いたまま見開かれた目からは涙があふれ出し、あまりの硬さに閉じきらない口からは嗚咽にも似た嘆きの叫声が漏れだし、震え出した身体は噛み合わない歯を滑らせ、気付けば無我夢中で走り出す。
敵に背を向け、情けなく全てを投げ出す様をさらけ出しながら。
それでもと。死にたくないという感情に駆られていた。
それがよくなかったのかもしれない。
「えっ⁉ なに⁉ きゃあああああああ‼‼‼」
逃げ出した先に、別の影。
それがなにか――確認できるだけの余裕もなく。
停止できるほどの冷静さも落としてきてしまった。
だからこそ、背後から迫るのだ。
死を形作る者が。




