春の訪れ8
突き込まれた角がふれた瞬間に反射で体は動いたものの、そこが終着点。
若干歪んだ姿勢で静止している逸人。
お互いの困惑は遠からず一致すると、まずは挟撃に出た内の1匹がゆっくりと後ずさる。
角を突き出し、押し込むために下げた頭を元の位置へ戻し、その上でよくよく攻撃した箇所を確かめるように首を伸ばす。
匂いでも嗅ぐかのような仕草で以って見やれば、服に穴が開いているのはわかった・・・が、しかし。
その先の、肌色の壁には傷1つ無く。
好奇心か、あるいは現実を受け入れるための儀式か。
さらに首を伸ばして、ちょんと穴から肌に触れてみる鹿。
「うぁ!」
緊張を伴う静寂の中、突如と感じた湿った感触に逸人は短い悲鳴を上げ、体をくねらせてしまう。
これもまた反射であり、反対側の鹿はまだ角を押し付けたまま。
故に身体の動きに押し返され、意識せずに角が離れた。
左右の鹿は目を合わせる。
「ギュア」
「ギュアァ!」
そうして一声、掛け合うようにして。
踵を返すと走り出す。
「えっ⁉」
あっけにとられたのは逸人である。
取り敢えず助かったけど、こっからどうしよう? という思考に水を差されたのだから。
しかも、去っていくのは左右にいた2匹だけではない。
周りで見下ろすように囲んでいた個体も、同じく去っていく。
ポツンと取り残される1人と1匹。
当然1人は逸人であり、1匹は正面にいる角を掴まれた鹿だ。
どうしていいのかもわからず、つい鹿を見つめてしまう逸人。
仲間において行かれ、抵抗の手段を奪われた草食動物と目が合う。
襲われたことに驚いたものの、憎しみの感情などないためか、どうしても見すぎてしまう。
そうして、つぶらな瞳と目が合うのだ。
どこか窺うような、上目遣いに見える瞳。
殺すだけの覚悟など元より持っておらず、であれば。その手を離すことに躊躇などありようはずも無し。
そっと角を手放すと、鹿は僅か一瞥だけ残して走り去る。
その所作はなんとも、ありがとうとでも言っているように感じてしまい、まさか心が通じたかのような高揚を得る。
「弱い者いじめはしねぇってか? 流石だな! でも大丈夫か?」
今までどこに居たのか、気付けばヤンキエルに肩を組まれている。
距離の近さや触れる温もりにドギマギしながらも、
「なにが?」
なんとか言い返す。
というか、誰のせいだと問い質しかったが・・・言い返すのがやっとなのが悲しいところだ。
「いや? だってよ」
吐息のかかる顔を見ていたが、見ていたいが。
そうはさせまいと地響きが。
「ヴォオオオォォオオオオ‼‼‼」
鹿が去りし方角より来たるは熊である。
人の3倍はあろうかという体格を持つ熊。
その周囲には心なしか偉そうな鹿が侍る。
「逃がすと仲間を連れてくるぜ?」
「そういうことは先に言っといてくれない?」
鹿と熊が仲間なのはどうしてだとか、連れてくるには早すぎないかとか。
言いたいことは幾らでも湧き出たが。
なぜだか直感が告げていた。
熊の斜め前にいる鹿。
アレは最後に見逃した鹿に違いない。
そして勝ち誇ったような顔で見下している。
(じゃあさっきの態度はなんだったんだよ⁉ あの感覚は嘘だったって⁉)




