10. ルシニウスの写真工房①
【ルシニウス視点】
玄関の隙間から、虫が外に逃げ出した。
俺はあの時、とにかく逃がしちゃダメだと思って、慌てて後を追いかけたんだ。
平べったくて、足がたくさんある黒い虫。
すばしっこいけど踏み潰したら、しゅわしゅわ泡立つように消えて――それが、シティが俺にかけてくれた術のおかげなんだというのは、すぐに分かった。
「あと一匹!」
順調にくしゃくしゃ潰して、ようやく残りを路地裏の行き止まりに追い詰めた。
その瞬間――
行き止まりの石塀の隙間から、黒い汁が滲み出るように広がって――全部が虫。虫だらけなんさ!
「うわっ」
たくさんの小さな虫が集まって、ひとつの怪物となってこちらに飛び掛ってくる。
「ルン!」
調子にのってしまったかもしれない。
やけに遠いシティの声が、耳の中で木霊す中で、俺にできることは少なかった。
逃げようとして足がもつれる。なんとか体を捻ったところで――誰かに突き飛ばされた。
「邪魔だ」
黒い影。
気づけば全身真っ黒な男が手を突きだして、呪いを灰に変えていた。
「……助かったんさ」
振り返り、こちらに伸ばされた手を握る。礼を言おうと立ち上がりかけて――
「魔力もない。ただの人間が――」
明らかな侮蔑が籠もったその声に、体が強張った。
「あんた……顔を隠して。なんなんさ?」
すると、影の向こうで、男が目を見開くのが分かった。
「ほう……目だけは少し良いらしい」
燕尾服。自分の黒髪とは正反対の、どこか嘘っぽい白髪。青い瞳と目が合った気がしたが――
「しかし、それだけだ」
すぐに影にかき消された。目を凝らしても、もう男の顔は見えない。
(いや……。うまく、認識できないのか?)
「一般人は去れ。あの人の、邪魔をするな」
それだけ言い残し、男は影の向こうに消えた。
「ルン! 怪我はないかい?」
霧が晴れたように、大切な人の声が聞こえた。
(今のは……)
警告だ。
何もできない俺に対する、警告だった。
***
ジジジジ――カチャリ。
「おっと、時間だ」
騒ぐ時計を黙らせると、俺は急いで暗室に向かった。分厚いカーテンの向こう側、俺は金属層の中から、トングでフィルムを取り出した。手早く隣の層へと移し、ゆらゆらとフィルムを揺らす。
ぴちゃり、ぴちゃり。
何度か層を移動させ、最後は流しで水に晒す。十分に洗い流しを終えて、長いフィルムをまっすぐに伸ばし、天井から吊り下げた。
暗闇のなか、ほとんど手元は見えないが、手慣れた作業に、自然と体が動いていく。スポンジに液体を含ませると、赤子の肌を扱うように、優しくフィルムを拭っていった。
(はあ……。シティ、ちゃんと食べてるかなぁ)
作業は一段落、プリントまでの待ち時間だ。カーテンをめくって暗室を出ると、俺は盛大なため息をついた。
シティと喧嘩別れになってから、しばらく魔女の小屋に行けていない。
「キュウちゃんに頼んで、届けてもらってるけど……」
仕事中毒のシティのことだ。ちゃんと食べてる気がしない。心配で仕方がなかった。
(今日はもう、あがろっかな)
仕事もちっとも身が入らない。
振り返った壁に掛かった一つの写真。
美味しそうに、蒸しパンを齧る老婆の姿。
「ゼリーかな。暑くなってきたし――」
無意識に、調理場に立つ自分に気づいて、苦笑する。棚からシロップ漬けの果物の瓶を出す。鍋を火にかけ、ゼラチン粉を溶かしていく。
(好きで、やってるのになぁ……)
鍋にシロップを注ぎながら、頭に浮かぶのは"彼女"のことばかり。
十分だといわれたことが、これほど悔しくなるなんて。それほどに自分は――
チリン
玄関の鈴が鳴った。
こんな時間に、客とは珍しい。
「今行きますんで――ちょっとお待ちくださーい」
俺は鍋の中身を手早くカップへ小分け。冷蔵庫へ突っ込むと、慌てて台所を後にした。
お読みいただきありがとうございます。
一人悩むルシニウスの工房へ、訪れたのは一体誰なのでしょうか――?
次回も来週、土曜更新予定です。




