9. 弱い毒のような呪い③
港町で呪いを追い、たどり着いた一人の女性の家。 シティたちは荒れ果てた部屋を片付け、ようやく女性の顔にも笑顔が戻る。
その瞬間――虫が湧いた。
呪いは住処を変えようと、無数の虫となって這い出していく。 逃げ出した虫を追いかけ、ルシニウスは部屋を飛び出してしまい――
牙を剥いた巨大な黒虫が、ルシニウスへ飛びかかった。その瞬間――
すっと、白い手が差し出された。
白手袋の掌を前に、呪いはピタリと動きを止め――さらさらと、崩れて消えた。
ふわり、と風が巻き起こる。
どこかで嗅いだ、芳醇な濃い香り。
男は、ルシニウスの腕を引き上げ、立たせている。
(誰……?)
真っ黒な燕尾服。
どくん、とシティの頭が脈打った。
(……ああ。『魔塔の術師』)
自然と浮かび上がる言葉に、 なぜか、強烈な吐き気が込み上げる。
「……あんたは、なんだい?」
細い路地に舞い降りる。
静かに問えば、男はゆっくりと頭を下げた。
「いや、失礼」
柔らかな声音。
振り返った男は白髪で、だがその顔からは年齢がまるで読めない。
「ただの、通りすがりですよ。……お助けしたくてね」
向けられた視線は、 まるで――すべてを見透かしているかのようで。
だが男は、それ以上何も言わず、一礼を残し背を向けた。
通りの雑踏へと、溶けていく燕尾服。
その背中を見送りながら、呼び止めるべきか迷ったが――
「怪我はないかい?」
そんなことより、まずは彼だ。 早足で歩み寄ると、着衣は乱れ、ところどころ煤だらけ。
――守護結界に、細かなひびが入っている。
「……びっくりしたけど、大丈夫なんさ」
シュワリと清浄術をかけてやれば、ルシニウスはへらりと笑った。
安堵と同時に、別の感情がこみ上げる。
「まったく……普通の人間なんだ。危ないことはやめとくれよ」
小さくても、正体不明の呪いだ。何が起こるか分からない。
「次は駄目だよ。ケガしたら大変さね」
――何気なくかけた言葉だった。
ルシニウスの表情が、消えた。
「俺は……!」
勢いよく言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
「いきなり飛び出したのは謝るんさ。でも――次も、一緒に行かせてほしい」
青年は、続く言葉を探すように、何度か唇を噛み締めた。
「足手まといにならないよう頑張る。自分にできることを探したいんさ」
「ルン。あんたは術師じゃない」
シティはきっぱりと言い切った。
「危険な場所への同行は認めない。……戦闘写真が撮りたいなら、また機会を設けるから」
気持ちだけで、十分だ。
危険な場所に、踏み込んでほしくない。
けれど――
「俺は、シティに守られたいんじゃない」
ルシニウスは黙らない。
「支えたいんさ!」
路地裏に舞い込んだ風が、彼の言葉を攫っていく。
「次は、ちゃんと気をつける。自分の身は自分で守るから――」
「ルン」
黒い瞳を揺らしながら、必死で訴える青年に。
静かに、だがはっきりと、シティは言葉を遮った。
「ここからは術師の領分だよ」
ぐっと、ルシニウスの頬が強張った。
その表情に、ちくりと胸に痛みが走る。
(彼はただの一般人。危ない目に遭わせるわけにはいかないわ)
――だから線を引いたのに。
「そうやって!」
(ああ、どうしてあなたは――)
いつもの距離でいてくれない。
張り裂けるような声が響く。
「全部ひとりで背負い込んで! ボロボロじゃないか!」
視界が、わずかに揺れた。
それ以上は――聞きたくない。
「それが役目だ。それに、あたしは――」
「大丈夫じゃない!」
被せるように、叫ばれた。
「今も、隠してるだろうけど……辛いのは分かるんさ!」
一歩、青年がこちらへと歩み寄る。
いつもなら、詰めない距離が、今日に限って破られる。
「……仕方ないでしょ」
視線が落ちる。足元で、枯れ葉がくるくる回っている。
胸のうちに、存在してはいけない何かが、溢れてしまいそうだ。
「――あたしが、やるしかないんだよ」
「違うよ、シティ」
なのに、彼は止まらない。
「もっと周りに相談してほしい。今は分からないけど……話せば、できることが見つかるかもしれない」
もう一歩。彼は足を踏み出した。
「頼って――」
「誰に頼れるって?」
固い石畳に、声が反響した。最強ババアの、冷たい声。
それが、自分から発せられたことに、遅れて理解が追いついた。
狭い路地裏に、沈黙が落ちた。
(――頼ったせいで、失ったんだ)
すっと体の熱が引く。
波だった心が凪いでいくのを感じながら、黒い瞳と向き合った。
「あんたには、十分支えられてる」
唇を湿らせて、紡ぐ言葉を整えた。
「それ以上は必要ない。“最強ババア”の仕事は、誰にも代われないんだよ」
口を噤み、青年は俯いた。緩慢な動きで背を向けると、とぼとぼ数歩先を行き――突然こちらを振り返った。
「――シティのバカっ! この、化石頭っ!」
拳を握りしめ、叫ぶ。
くるりと踵を返すと、遠ざかっていくルシニウス。
(化石……なんですって……?)
まるで幼子の癇癪のような、響きだけが路地裏に取り残される。
シティは、ただ呆然と立ち尽くしていた。




