異星の理論
「空を通り過ぎている何か」
その仮説が研究室の中で半ば共有され始めてから、議論の方向は少しずつ変わっていた。以前までの中心は、設備不調の原因究明だった。術式構造の欠陥か、魔素流量の局所異常か、あるいは新旧設備の耐性差か。つまり“壊れた理由”を探していた。しかし今は違う。もし空そのものに変化があり、それが魔素へ干渉しているなら、問題は設備ではなく環境側になる。言い換えれば、この世界の前提そのものが揺らぎ始めている可能性だった。
研究者というものは、前提が崩れる時ほど慎重になる。
元の世界でもそうだった。小さな理論修正なら早い。誤差範囲として処理し、新しい説明を足せば済む。だが土台が変わるとなれば話は別だった。積み上げた知識が多い人ほど、一歩目を踏み出せなくなる。否定したくなるのではない。もし正しかった場合、それまでの常識をどこまで壊すことになるかを知っているからだ。
だからこそ、不思議なことに今、一番自由に考えられているのは自分だった。最初から魔法理論を知らない、術式常識もない。
そもそもがこの世界の知識体系へ依存していない異邦人であることが、初めて利点へ変わり始めていた。
観測記録を机へ広げる。学院市、港町、北方都市、王都。帯の位置変化、不調開始時期、魔素流量の揺らぎ。それらを何度も見比べながら、頭の奥でどうしても元の世界の知識が引っかかる。
星の光が弱く見える、帯状に広がる、少しずつ移動している。
しかも、その範囲で何らかのエネルギー変化が起きる。完全に一致する理論は無い。ただ、“似た発想”なら知っていた。
宇宙には、目に見えないのに存在を仮定されているものがある。直接観測できない。触れられもしない。ただ、周囲へ影響だけを残す。光の動き、重力の偏り、観測結果の違和感。そうした“説明できない現象”を説明するために置かれた理論上の存在。
もちろん、この世界へそのまま持ち込める話ではない。証明されきった知識でもない。何より、魔法文明へ説明するには飛躍が大きすぎる。
それでも、考え方としては近い気がした。
――見えない何かが、世界へ干渉している。
そこまで考えた時、隣から紙を軽く引かれる。紺色の外套だった。最近ではもう驚かない。いつの間にか居て、勝手に資料を覗くのが半ば日常になっている。
「また難しい顔」
眠そうな声だった。ただ、以前より少しだけ興味が混ざっている。
「元の世界の理論です」
そう前置きしながら、紙へ簡単な図を書く。星、その間にある空間、そして“見えない層”。帯をそこへ重ねながら、光が弱く見える理由と、魔素変動の仮説を整理する。
「直接は見えない。でも、周囲へ影響だけ出る何か、って考え方がありました。もし空の帯が似たものなら、魔素へ干渉していても不思議じゃない」
説明しながら、自分でも飛躍があることは理解していた。ただ、今までのどの仮説よりも説明できる範囲が広い。空の異変、地域差、時差を伴う不調、帯の移動、流量変化。それぞれ単独なら偶然でも、まとめると一本の線になり始めている。
紺色の外套は図を見たまま少し考え込み、やがて小さく言った。
「魔法、消える?」
問い方が妙だった。理論ではなく、生活の言葉だった。
「消えるというより……弱る、かもしれません」
そう答えながら、少し嫌な感覚が残る。
もし本当にそうなら、これは設備故障では済まない。文明全体が、長い時間をかけて前提を失う話になる。灯り、暖房、輸送、保存、工業。その全部が魔法依存で組まれている以上、影響は都市ひとつでは終わらない。
その時、不意に後ろから主任の声が落ちた。
「で、その妙な理論で何が説明できる?」
振り向くと、いつの間にか後ろへ立っている。呆れ半分、興味半分という顔だった。数週間前なら笑って流していただろう。だが今は違う。王都まで異常が届き、古い記録とも一致し始めている以上、否定だけでは進めない段階へ来ている。
だから観測記録を広げながら、ひとつずつ整理する。
帯の移動、不調地域の時間差、流量低下。
そして空の光量変化。
「仮説です。でも、全部をひとつの現象として説明できます」
研究室が少し静かになる。誰も賛成しない。ただ、誰も笑わなかった。
そして主任はしばらく記録を眺めたあと、疲れた顔のまま椅子へ腰を下ろし、小さく息を吐く。
「……続けろ」
その一言が、思っていた以上に重かった。




