星を覆うもの
最近、夜になるのが少し早く感じる。実際に日が短くなったわけではない。ただ、街が暗いのだ。
学院市の通りを歩いていると、それがよくわかる。以前なら夕方の市場はもっと賑やかな色をしていた。店先の装飾灯が青白く灯り、荷車には浮遊術式の光が走り、宿屋の看板ももう少し鮮やかだった。だが今は違う。灯りは点いている。それでも、どこか足りない。街全体が薄い布でも被せられたように、色を失い始めている。
市場でも変化は隠しきれなくなっていた。魚屋は保存時間を短く見積もり始め、肉屋では仕入れ量を減らす話が出ている。宿屋では暖房が弱い部屋へ苦情が増え、工房街では温度制御の不安定さが噂になっていた。誰も“危機”という言葉は使わない。ただ、人々の会話だけが少しずつ現実的になっている。
「今年、冬大丈夫かね」
露店の男が、ぼそりと漏らす。誰も答えなかった。冗談として流せない段階へ来ているのだろう。
地球でも似た光景を見たことがある。供給不安というものは、最初は数字ではなく生活から始まる。配送が少し遅れる。値段が少し上がる。冷えが悪くなる。そういう小さな違和感が積み重なり、ある日突然「戻らないかもしれない」という空気へ変わる。
そして最近、その違和感の中心は、どうしても空へ戻っていく。
誰も大声では騒がない。ただ、資料をめくる手だけが増え、記録を読む時間が長くなっている。数週間前まで学院市の設備不調として扱われていた問題が、今では王都を含む広域現象になり、さらに空の異変と結びつき始めている。研究者というものは、仮説が強くなるほど逆に慎重になる。確信へ近づくほど、間違っていた時の影響も大きくなるからだ。
ただ、現実の方は待ってくれない。
市場では保冷設備の弱体化が続き、輸送術式の効率低下も広がっている。学院市の街灯は、以前より露骨に暗くなった。完全停止区域こそ限定的だが、通り全体がどこか薄暗い。宿屋では暖房不足の話が増え、工房街では熱量制御の乱れが問題になり始めている。生活のあらゆる場所で、“何となく弱い”が積み重なり始めていた。
地球でも、大きな異常は最初から劇的には来ない。停電前の電圧低下、水不足前の水圧変化、物流崩壊前の配送遅延。人は突然の破綻より、じわじわ悪くなる方へ鈍感だった。そして気づいた時には、生活が戻らないところまで進んでいる。
そんな状況だからだろう。観測塔へ上がる回数が増えていた。
理由は半分研究、半分習慣だった。知らない世界へ来てから、空だけは変わらないと思っていた。星の位置は違っても、空を見るという行為自体は元の世界と繋がっている気がした。だが今、その空そのものが一番不安定になり始めている。
その夜も、学院の観測塔へ向かう頃には風が少し強かった。階段を上る途中、紺色の外套がいつものように無言でついてくる。
「最近、付き合い良いですね」
「一人で考え込みそうだから」
少し意外だった。
ただ、言われてみれば否定しづらい。研究というものは、考える時間が長くなるほど悪い方向へ寄りやすい。特に答えが見えない問題ほどそうだ。
観測室へ入ると、既に主任と数人の研究員が居た。机の上には過去数週間分の観測記録が広げられている。帯の位置、広がり方、光量変化。そして王都側から届いた最新観測。記録を並べるほど、ひとつだけ無視しづらい事実が浮かび上がる。
広がり方が一定ではない、最初は微細だった。だが最近、速度が少し上がっている。
気のせいと言うには、変化量が揃い始めていた。
望遠鏡へ視線を向ける。そして、少し息が止まる。
明るい。昨日より、明らかに。
夜空の一部へ薄く広がっていた帯が、以前より輪郭を持ち始めている。霧にも似ている。ただ、雲とは違う。星を隠すほど濃くはないのに、確かに向こう側の光が弱い。
その違和感が嫌だった。
星そのものが消えているわけではない。何かが“間にある”、そんな見え方だった。
主任が低く呟く。
「遮られてる……?」
誰へ向けた言葉でもなかった。
ただ、その表現が妙にしっくり来る。
気づけば自然と紙へ図を書いていた。星、空、そして帯。位置関係を簡単に整理しながら、元の世界の知識が少しだけ頭をよぎる。
宇宙空間にも、光を遮るものはある。
星間ガス、塵、見えない物質。
ただ、そこまで考えたところで止める。飛躍が大きすぎる。
今の段階で言えば、また異邦人の妙な仮説になる。
それでも、嫌な感覚だけは残った。
もしこれが、ただの天文現象ではないなら。もし本当に何かが空を覆い始めているなら。問題は、灯りや暖房どころでは済まない。文明を動かしている“前提”そのものが変わる。
その時、隣の紺色の外套が望遠鏡から顔を上げ、小さく呟いた。
「……増えてる」
短い言葉だった。
ただ、その声には初めて少しだけ怖さが混ざっていた。そしてその夜、観測塔を降りる直前、王都側から追加観測記録が届く。
帯の出現範囲、学院市と一致、北方都市でも確認、港町でも視認。
つまり、“空の異変”そのものが、世界規模で広がり始めていた。




