衰退する魔素
古い記録との一致が見つかってからの学院は騒がしくなったわけではなかった。むしろ逆だった。以前までなら設備故障や術式不良として整理できていたものが、急に説明の外側へ出始めたせいか、研究員たちの口数が減っている。資料を読む時間が増え、議論の前に沈黙が挟まる。誰もが同じ場所を見始めているのに、まだそれをはっきり言葉へしたくない。そんな静かな足踏みが続いていた。
古い観測記録は決定的ではない。百年以上前の資料など、精度だけで言えば現在の観測と比べものにならない。表現も曖昧だ。天文記録というより、暦学や土地伝承に近い部分も多い。それでも、読み返すほど不気味な一致が浮かび上がってくる。
――空に影あり。
――灯り弱まる。
――術式、働き悪し。
そして、どの時代にも必ず短い混乱記録が残っている。
燃料価格上昇、保存不良、冬越えの難化。
今起きていることと、驚くほど似ていた。違うのは規模だけだ。
当時の文明は今ほど魔法へ依存していない。暖房も照明も補助程度で、保存や輸送にも代替手段が多かったらしい。だが今は違う。都市生活そのものが魔法前提で成立している。もし同じ現象なら、影響は比較にならない。
研究室の隅では、主任が各都市から届く流量測定結果を並べていた。学院市、港町、北方都市、商業圏、王都。それぞれ使用環境も設備構造も違う。にもかかわらず、測定結果だけは奇妙なほど似ている。濃度自体は大きく落ちていない。ただ、流れが不安定で、供給に細かな揺らぎが増えている。
そこが厄介だった、完全に消えるなら理解しやすいし濃度低下なら理論化もしやすい。
だが今起きているのは、“あるのに足りない”という状態だった。
元の世界で例えるなら、水道の水圧が少しずつ落ちる感覚に近い。蛇口を捻れば出る。だが勢いが弱い。生活はできる。ただ、何かがおかしい。そして時間が経つほど不便が積み重なっていく。
そんな資料を眺めていると、隣へ紺色の外套が腰を下ろした。
珍しく急ぎ足ではない、少し疲れているようにも見える。
「寝てます?」
「少し」
「研究者らしくなってきましたね」
そう言うと、微妙に嫌そうな顔をされた。
最近は、こういうやり取りが増えていた。最初の頃より言葉数が増えたわけではない。ただ、同じものを長く見ていると、不思議と会話の間が自然になる。
紺色の外套は資料へ視線を落としたまま、小さく言った。
「減ってる、かも」
主語がない。ただ、何を言いたいかはわかる。
「魔素ですか」
小さく頷く。
「無くなるじゃない。弱る」
その表現が妙に引っかかった。
減少ではなく、衰退。まるで生命みたいな言い方だった。
だが感覚としては近いのかもしれない。流量記録を見る限り、突然消えているわけではない。少しずつ弱くなり、揺らぎ、安定を失っている。まるで呼吸が浅くなるみたいに。
そして、もし本当にそうなら。
問題は“何故”か。
地脈か、環境か、空か。あるいは、もっと別の何かか。
気づけば自然と観測記録へ手が伸びる。帯の広がり方、位置変化、出現速度。正確性は足りない。ただ、並べるほど違和感は強くなる。
ゆっくりだが、確実に広がっている。そして不調もまた、同じ速度で広がっている。
そこで主任が机へ新しい資料を置いた。
「王都側の追加観測だ」
簡易的な魔素測定結果だった。
中央区画、市場、外縁部。
そして、その全部で微弱ながら同じ傾向が出ている。流量低下と揺らぎの増加。地域差はあるが、方向性は一致。もう学院市だけの問題ではない。王都だけでもない。
世界そのものへ、同じ変化が広がっている。
窓の外を見ると、夕方の灯りが少し弱い。以前なら鮮やかだった魔導灯が、今はどこか頼りなく見える。
まだ文明は動いている。だが、確実に力を失い始めている。
そして、その現実を後押しするように、観測塔から新しい報せが届く。
「空の帯、昨夜より拡大確認」
部屋の誰も、すぐには言葉を返さなかった。




