異邦人の仮説
学院市だけではない。その事実は、研究棟全体の空気を静かに重くしていた。
朝から運び込まれてきた報告書は、これまでとは明らかに性質が違う。学院内部の調査結果ではなく、外部都市から届いた問い合わせや支援要請だった。港町では荷役用の軽量化術式が止まり始め、北方都市では暖房設備の不調が問題になっている。農業地帯では保冷設備の効率低下が確認され、一部地域では夜間照明の不安定化まで報告されていた。
しかも厄介なのは、症状が妙に似ていることだった。
完全故障ではない。壊れているわけでもない。
術式構造は正常。濃度測定も基準値内。
それなのに、動かす力だけが足りない。
研究室の壁へ地図が広げられ、各都市の報告地点へ印が増えていく。最初は学院市近辺だけだったものが、昼前には主要街道沿い、夕方には沿岸部や北方圏まで広がっていた。距離も環境も違う。使われている魔導具も一致しない。それでも、止まり方だけが不気味なほど揃っている。
主任は椅子へ深く腰掛けたまま、珍しく長い沈黙を続けていた。
疲れているのもあるだろう。ただ、それ以上に理論の置き場所を探しているように見える。研究者というものは、積み上げた前提ほど崩れた時に動きが鈍る。元の世界でもそうだった。問題が未知だから止まるのではない。今までの理論で説明できなくなるから止まる。
「地域差が薄い」
ようやく口を開く。
「供給源の局所問題じゃない」
つまり、地下資源や地脈の異常といった説明が難しくなる。
もし特定地域だけなら原因は絞りやすい。環境要因、設備不良、局所的な魔素変化。だが、広域同時発生となると話は変わる。
もっと大きな要因が要る。
気づけば視線が窓へ向いていた。
空
自然とそこへ思考が寄る。
もちろん、まだ証拠はない。ただ、夜ごと記録している帯の変化と、魔素流量の不安定化が妙なタイミングで重なり過ぎている。研究者としては安易に結びつけたくない。無関係なものを因果で繋ぐのは、仮説を壊す一番早い方法だ。
ただ、それでも気持ち悪かった。
地球でも似た経験はある。設備故障だと思われていたものが、実際には大規模な電力供給側の問題だった例。個別不良に見えていたものが、実は環境変化だった例。一見別々の異常ほど、根本原因が同じことは珍しくない。
そして今回、魔法文明全体が“少しずつ動かなくなっている”。
もし供給そのものが変化しているなら。
もし魔素というものが、空間環境へ影響されるなら。
そしてもし――空に見えている何かが、その環境変化と関係しているなら。
気づけば、紙へ図を書き始めていた。
街、設備、魔素流量、そして空。
完全に仮説段階だ。論文ならまず通らない。元の世界の研究室へ持ち込めば、「飛躍しすぎ」と言われるだろう。
それでも、一度形にしないと頭の整理がつかない。
「また変なこと考えてる」
横から声が落ちる。紺色の外套だった。
相変わらず足音がない。気づけば隣へ来て、紙を覗き込んでいる。
「仮説です」
「空?」
「かもしれません」
少し沈黙が落ちる。軽く笑われるかと思った。
だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「嫌いじゃない」
少し目を細めながら続ける。
「証拠ない。でも、今ある理論も説明できてない」
その言葉は、少し救いになった。
研究というものは、正しさだけで始まらない。説明できない違和感から始まることも多い。そして、間違っていても仮説を出さなければ次へ進めない。
主任も紙を覗き込み、少し眉を寄せる。
「……異邦人の発想だな」
否定ではなかった。少なくとも、無視はされていない。
窓の外では、昼間だというのに街灯の修理が続いている。街では少しずつ不安が広がり、学院では理論の組み替えが始まり、他の都市でも同じ異常が起きている。
そして空には、昨日より少しだけ広がった帯がある。
証拠はまだない。
だが、嫌な予感だけは、少しずつ輪郭を持ち始めていた。




