空にある違和感
古い天文記録に存在しない。その言葉は、思っていた以上に重かった。
学院へ来てから何度も嫌な予感はしているが、今回は少し種類が違う。街灯不調や魔導具停止は、まだ理屈の延長線にある。原因不明とはいえ、供給変動、設計耐性、環境変化――少なくとも考えるための土台はあった。
だが、空は別だ。
夜空というものは、基本的に変わらない。もちろん惑星の位置は動くし、季節によって見える星も違う。それでも、長期的な天体構造が急に変化するというのは普通ではない。元の世界でも、天文観測は最も安定した基準のひとつだった。だからこそ暦が作られ、航海が成立し、文明の基盤になった。
それが“記録に無い”。その意味は軽くない。
研究室へ入るなり、机の上へ何冊かの古い記録が広げられる。紙質は随分古びているが、保管状態は悪くないらしい。星図、観測位置、周期記録。天文学というより、暦学に近い内容も混ざっていた。
紺色の外套は、珍しく少し早口だった。
「百年以上分ある」
指先でページを捲る。
「帯、無い」
確かに見当たらない。似た位置にも、それらしい記録がない。
昨日見たものほど大きな構造なら、見落とされるとは考えにくい。むしろ、あれほど目立つなら昔の観測者も何らかの名前を付けているはずだった。
「観測ミスの可能性は?」
自然と口へ出る。
研究者としては、まずそこを疑う。
望遠鏡の誤差、観測条件、季節差。記録の欠損だってあり得る。ただ、返ってきた答えは早かった。
「塔からも見えた」
昨夜のことだ。学院の設備でも確認できた。 つまり、少なくとも自分の望遠鏡だけの問題ではない。 主任も記録を眺めながら眉を寄せている。
「最近現れたってことか?」
その問いに、誰もすぐ答えられなかった。
最近。
それがいつからなのか。数日前か、数ヶ月か、数年か。
天文記録というものは、毎日細かく更新される分野ではない。特に平和な時代ほど、変化のない空は“変わらない前提”として扱われがちだった。
ただ、気になる点がひとつある。
動いているのだ。ゆっくりだが、確実に位置が変わっている。そして何より、広がっているように見える。
そこが嫌だった。
もし静止した天体なら、まだ説明の余地はある。未知の惑星、星雲、観測条件の違い。だが、変化しているなら話が変わる。
気づけば、昨日の記録を紙へ広げていた。
角度、位置、簡単なスケッチ。
正確性には欠ける。ただ、比較材料としては使える。隣から覗き込んだあと、小さく呟く。
「記録、好き?」
「研究者なので」
「変」
三回目だった。
ただ、少しだけ笑っている。
最初の頃より明らかに表情が増えていた。相変わらず言葉は短いし、説明不足なところも多い。ただ、観測や研究の話になると妙に気が合う。気づけば、学院側で最も自然に話せる相手になり始めていた。
もっとも、今は空気が少し違う。
研究室の隅では、魔素流量測定の再確認が続いている。別の部屋では術式改修案の検証も進んでいる。そしてこちらでは、空に見慣れないものが見つかっている。
全部、同じ時期だった。そこが気持ち悪い。
もちろん偶然の可能性もある。研究者としては、安易に因果関係を作るべきではない。関連のない問題を強引に繋げるのは、理論を壊す一番簡単な方法だ。
ただ、同時にこうも思う。
大きな異常というものは、案外別々の顔をして現れる。
元の世界でもそうだった。設備異常だと思っていた問題が、後から電力供給側のトラブルだと判明することがある。一見無関係な故障が、実はひとつの原因から広がっていた例は珍しくない。
そして今回、魔法文明そのものが少しずつ不安定になり始めている。
なら。
もし。
空にあるあの帯が、何らかの環境変化だとしたら。
そこまで考えた瞬間、研究室の扉が勢いよく開いた。
研究員が息を切らしている。
「南区画、暖房設備が一斉停止した!」
部屋の空気が止まる。
数件ではない。
一斉。
つまり、局所故障では済まなくなり始めていた。




