学院との駆け引き
古い術式を見に行こうという話は、その場では随分軽く聞こえた。
だが、研究者の「少し確認したい」という言葉ほど信用できないものはない。大抵、想定以上に時間が掛かる。そして今回に限っては、最初から面倒な予感しかしなかった。古い設備を調べるということは、保管部署がある。管理担当も居る。許可も必要になる。さらに学院という組織は、思っていた以上に縄張り意識が強かった。
元の世界でも似たようなものだった。
研究設備は共有財産のように見えて、実際は半分ほど個人所有に近い。誰の予算で導入されたか、どの研究室が管理しているか、誰が責任を持つか。外部の人間が勝手に触れば嫌な顔をされるし、下手に成果が絡めば話はもっと面倒になる。優秀な研究者ほど、自分の領域へ他人を入れたがらない。
だから嫌な予感は最初からあった。
翌日、学院内の保管棟へ向かった時点で、それは早々に現実になる。
管理担当らしい男は、こちらを見るなり露骨に面倒そうな顔をした。年齢は四十代ほど。服装は妙に整っていて、机の上へ積まれた書類も綺麗に揃っている。几帳面さが服を着て歩いているような人間だった。
「許可が出ていません」
開口一番、それだった。
紺色の外套が簡潔に事情を説明する。
魔導具不調が増えていること。古い術式との比較が必要なこと。流量変化という新しい仮説が出始めていること。相変わらず説明は短いが、必要な情報だけは押さえている。
ただ、返ってきた答えは予想通りだった。
「正式申請をお願いします」
即答だった。
主任が露骨に顔をしかめる。
「街灯まで止まり始めてるんだぞ」
「規則です」
「緊急性がある」
「規則です」
強い。思わず少し懐かしくなる。
世界が違っても居るのだ。こういう人間が。合理性ではなく手順を守る人。研究側から見ると融通が利かず面倒に見えるが、こういう人間が居るから組織は崩れにくい。元の世界でも、研究者だけの組織は大抵どこかで暴走する。
「どれくらい掛かります?」
自然と口へ出る。男は書類棚を確認しながら答える。
「通常なら一週間ほど」
少し空気が止まる。
一週間。
街灯不調が街全体へ広がり始めている今、その時間は重い。研究室の空気も少し張り詰めた。主任は何か言い返そうとしているが、言葉が見つからないらしい。相手が規則を盾にしている以上、正面突破は難しい。
その時だった。
ふと視線が机の上へ止まる。
羽根ペン、インク跡、書類の端へ滲んだ染み。
そして何より、紙束の量だった。毎日大量の書類を捌いている人間の机だ。自然と、ひとつ思いつく。
「書類、多いですか」
突然の問いだったせいか、少し怪訝そうな顔をされた。
「……まあ、それなりに」
横で紺色の外套が微妙な顔をする。
多分、何を考え始めたかわかったのだろう。
「これ、試してみてください」
鞄から筆記具を一本取り出す。
男は少し警戒した顔をしたが、受け取る。半信半疑のまま紙へ線を引き、次に文字を書く。そして、もう一度書く。
動きが少し止まった。
「……インク壺に戻らない?」
「手も汚れにくいです」
さらに数行。書く速度が少し変わる。
人間というものは、便利さを説明されるより体験した方が早い。特に毎日使う道具ほどそうだ。元の世界でも、高性能な機械より“地味に面倒が減る物”の方が現場では喜ばれたりする。
「これ、どこで?」
声音が少し変わる。
最初より柔らかい。
「試作品です。まだ量産準備中で」
少し沈黙が落ちる。
男はもう一度紙へ線を書き、それから小さく息を吐いた。
「仮許可なら出せます」
主任が吹き出しかける。
わかりやすかった。世界が違っても、事務処理速度は使う道具で変わるらしい。
保管棟の奥へ案内されながら、主任が横で呟く。
「お前、研究者向いてないな」
「生きる方が先なので」
「違う。商売の方」
隣では紺色の外套が少しだけ笑っていた。
最初に会った頃より表情が増えた気がする。相変わらず言葉は少ないし、急に話を進める癖もある。ただ、研究の話になるとこちらの発想を面白がってくれる。気づけば、学院側で一番長く話している相手になっていた。
そして保管庫へ入った瞬間、全員の足が止まる。
並んでいた旧式術式は、想像以上に違った。新型と構造が別物なのだ。
線が多いわけではない。むしろ少ない。効率も悪そうに見える。ただ、ひとつだけ明確な違いがある。
――余裕がある。
無駄と言っていいほど、流れの逃げ道が作られていた。




