魔素の流れ
観測塔から戻った翌日も、頭の中には昨夜見た帯のことが残り続けていた。
粗末な望遠鏡では靄のようにしか見えなかったものが、学院の観測設備では確かに輪郭を持っていた。雲でもなければ星雲とも違う。巨大な何かが空を横切っているようにも見えたが、正体を断定できるほど情報がない。ただ、気になったのは形そのものより、隣の反応だった。
――前から、あった?
あの言い方は少し引っかかる。
学院に観測設備がある以上、天体記録も当然残っているはずだ。もし昔から存在しているものなら、驚く理由は薄い。逆に記録へ無いなら、話の意味は変わってくる。
もっとも、空ばかり見ている余裕もなかった。
街では魔導具不調が少しずつ広がり始めている。工房街の設備異常も増え、学院へ運び込まれる報告書の量は明らかに増加していた。修理依頼も積み上がっている。加えて筆記具の量産準備まで進めているのだから、冷静に考えると随分忙しい。
朝から学院へ向かう途中も、街の空気が微妙に変わっていることへ気づく。
市場では店主同士の会話が少し慎重になり、工房街では職人が設備を何度も確認している。街灯が止まり始めた頃は半信半疑だったものが、今では“何かおかしい”という感覚へ変わり始めているらしい。
ただ、人間というものは問題を認めるまで少し時間が掛かる。
特に生活へ根付いたものほどそうだ。
元の世界でも、インフラ不調が始まった時ほど「すぐ直るだろう」で済ませる人が多かった。慣れているものほど、失う前提で考えない。
研究棟へ入ると、空気はさらに重くなっていた。
主任の机には報告書が積み上がり、数人の研究員が言い争いに近い議論をしている。測定値が正常だという人間と、現場の異常を優先すべきだという人間。地球の研究室でもよく見た光景だった。理論派と現場派は、大抵こういう時に衝突する。
「来たか」
主任は目の下に疲れを浮かべながら手招きする。
「見ろ」
差し出されたのは魔素測定結果だった。
正直、まだ完全には理解できていない。ただ、数日見続けていると少しずつ癖はわかってくる。濃度、流量、出力変化。用語は違っても、見ているものはエネルギー管理に近い。
そこで少し違和感があった。
「……流れ?」
無意識に呟く。
主任が顔を上げる。
「何だ」
「濃度じゃなくて、流れじゃないですか」
数秒ほど沈黙が落ちる。部屋の空気が少し止まった。
「魔素の流れ?」
主任が眉を寄せる。
「一定じゃないのか」
「わかりません。ただ、濃度が正常でも供給量が不安定なら、出力不足みたいな現象は起きます」
言いながら、地球の設備を思い出していた。
電圧が正常でも、瞬間的な供給量不足で設備が止まることはある。パイプ内の圧力変化、水流、燃料供給。数値が正常だから問題なしとは限らない。
そして今の魔法文明は、妙に“供給”という発想が薄い気がする。
魔素はあるもの。空気のように存在するもの。そう考えているから、誰も流量を疑わない。
「……測れるかも」
横から小さく声が落ちる。
紺色の外套だった。いつの間にか背後へ来ていたらしい。
相変わらず足音がない。
「古い測定器、ある」
眠そうな顔のまま続ける。
「濃度じゃなくて、変化見る型」
少し空気が変わる。主任も腕を組んだ。
「倉庫か?」
「地下」
短いやり取りだった。ただ、研究者特有の空気が出始めている。面倒な問題ほど、解けそうな糸口が見えると急に目の色が変わる。
「見に行くか」
主任が立ち上がる。正直、少し嫌な予感がした。
こういう時の研究者は、大抵止まらない。そして地下倉庫という響きは、たいてい埃臭く、面倒で、整理されていない。
世界が違っても、その辺りは変わらない気がした。




