それでも希望はある
翌日、学院の観測塔へ向かう約束は、思っていた以上に早く実現した。
研究棟の騒がしさを抜け、学院の裏手へ回ると、石造りの高い塔が見えてくる。街からも頭ひとつ抜けて高く、上層へ行くほど窓が少なくなる構造だった。最初に見た時から気にはなっていたが、あまり近づく理由もなかった。天体観測施設だろうとは思っていたものの、この世界でどこまで本格的な設備があるのかまでは想像できていない。
「使われてるんですか、ここ」
「半分くらい」
階段を上りながら短く返事が返る。
「最近、予算減った」
少しだけ大学を思い出す。
世界が違っても、天文学は優先順位が低いらしい。生活へ直結しにくく、成果が見えにくい分野ほど、予算の話で苦労するのはどこも同じなのかもしれない。
塔の上階へ着くと、思っていたより広い空間が広がっていた。中央には大きな観測器具が据えられ、金属製の支柱が窓際まで伸びている。地球の望遠鏡と完全に同じではない。ただ、目的は近いのだろう。光を集め、遠くを見るための仕組みだとわかる。
自然と少し足が早くなる。
「好きなんだ」
後ろから声が落ちる。
「天体観測は趣味でした」
「変」
「二回目です、それ」
少しだけ笑われた。
こういうやり取りが自然になってきた辺り、最初より距離は縮まっているらしい。相変わらず説明不足で急に話を進める人間だが、研究の話になると妙に話が通じる。
観測装置へ近づく。
地球のものほど精密ではない。ただ、今使っている粗末な望遠鏡よりは明らかに上だった。固定精度も高く、倍率調整も滑らかだ。魔法を動力へ使っているのか、一部構造が自動で動いている。
「勝手に使っていいんです?」
「鍵持ってる」
さらりと言う。
多分、あまり良くない立場なのだろうが、研究者というものは設備への執着が強い。使える物は使う。その辺りは世界共通らしい。
準備を終え、まずはいつもの方向へ向ける。
星が、近かった。
いや、正確には見え方が違う。輪郭がはっきりし、光量の差までわかる。粗末な望遠鏡では滲んでいた部分が、情報として整理され始める。
そして、やはり確信が深まる。
知らない空だ。
見覚えのある星座がない。配置も違う。天の川に似た帯はあるが、密度も方向も一致しない。惑星らしき天体も動き方が違う。
緯度では説明できなず、季節でも説明がつかない。少なくとも、地球ではない。その現実だけが、静かに積み重なっていく。
「どう?」
隣から声がする。
少し迷ったあと、正直に答える。
「想像以上に遠いです」
自分でも妙な言い方だと思う。
距離を測ったわけではない。数字もない。ただ、研究者としての直感に近かった。知っている法則から外れた空というのは、それだけで圧倒的な隔たりを感じる。
「帰れなさそう?」
あまりにも直球だった。
少し苦笑する。
「普通に考えれば」
元の世界の科学でさえ無理だろう。少なくとも、生きている間には。空想でもなければ、偶然もう一度同じ現象が起きる保証もない。
だが、そこでふと昨日の言葉を思い出す。
――無理、とは違う。
望遠鏡から視線を外し、夜空を見上げる。
もし、この世界の文明が進めば。
もし、魔法と科学の中間みたいな技術が生まれれば。
もし、何百年か先に移動技術が発展したなら。
未来の誰かは、地球へ辿り着けるかもしれない。
自分ではなくても。自分の理論かもしれない。工房で作る道具かもしれない。今は小さな仕事に見えるものが、ずっと先で何かへ繋がる可能性だってある。
「ゼロじゃない」
気づけば、そう口にしていた。
「可能性は」
少し間が空く。
やがて、横から静かな声が落ちた。
「それでいいと思う」
意外だった。
もっと研究っぽい返答が来ると思っていた。根拠が足りないとか、理論が粗いとか。
そういう話ではなかった。
夜空の向こうには、知らない星が広がっている。街では魔法設備の不調が少しずつ広がり、学院では原因不明の異常が積み重なっている。問題は山ほどあり、生活もまだ安定したとは言い難い。
それでも、不思議と絶望はなかった。
遠すぎる場所なら、急いでも仕方がない。
帰る方法がないなら、作ればいい。百年後でも、千年後でも。
そこまで考えた時、ふいに視界の端へ違和感が映った。
あの帯だ。
粗末な望遠鏡では滲んでいた靄のようなものが、学院の観測設備では少しだけ輪郭を持って見える。 雲ではない。星でもない。空の向こうを、巨大な何かが横切っているような――。
隣も同じものを見ていたらしい。
「……これ」
珍しく、言葉が止まっていた。
そして、小さく続ける。
「前から、あった?」




