帰れない距離
観測記録を見せてほしいと言われた時、最初に浮かんだ感情は意外にも警戒だった。
理由は単純である。まだ仮説にもなっていない。観測機材は粗末で、記録精度も高くない。元の世界なら、研究室へ持ち込む前段階の個人メモ程度だ。下手に見せれば笑われる可能性もあるし、異邦人の奇妙な妄言として扱われてもおかしくない。それでも少し考えた末に頷いたのは、目の前の相手が「面白い」で片づける割に、案外こちらの話を真面目に拾う人間だとわかり始めていたからだった。
学院を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。止まった街灯のせいで通りはいつもより薄暗く、人の流れも少し早い。夜道を急ぐ人々の足取りには、説明できない不安が滲んでいる。昼間なら笑い話で済んだ程度の異変も、暗くなるだけで急に現実味を帯びるらしい。地球でも停電時ほど人は妙に静かになる。便利さというものは、失われた瞬間に初めて依存度が見える。
「暗いですね」
自然と口へ出る。
「皆、慣れてない」
隣を歩きながら、短く返事が落ちる。
「魔法、止まると思ってないから」
少しだけ納得する。
元の世界なら電気が止まる可能性は誰でも知っている。停電も、設備故障も、災害もある。だが、この世界では魔法は空気に近い。生活へ深く入り込みすぎていて、止まるという発想そのものが薄いのかもしれなかった。
古物屋へ戻ると、店主は帳簿を前に唸っていた。街灯不調の話は既に耳へ入っているらしく、こちらを見るなり嫌そうな顔をする。
「街まで暗くなってきたな」
「工房街も不調が出てるそうです」
「笑えねえ話だ」
商人から見れば死活問題だろう。輸送も保存も加工も魔法へ依存している以上、設備不良はそのまま売上へ直結する。
ただ、その話題も早々に切り上げ、部屋へ上がる。望遠鏡を窓際へ運ぶと、後ろから興味深そうな視線がついてきた。
「ほんとに見るんだ」
「趣味なので」
「趣味で星見る人、変」
失礼な話だった。だが、否定もしづらい。元の世界でも、休日に寒空の下で望遠鏡を覗き続ける人間は少数派だったと思う。
粗末な望遠鏡を固定し、いつもの位置へ向ける。精度は悪い。微調整にも癖がある。それでも数週間使い続ければ、機材の機嫌くらいは何となくわかってくる。視界が安定したところで少し横へ退く。
「見ます?」
珍しく、少し目が開いた。興味はあるらしい。
覗き込んだまま数秒ほど黙り、それから小さく呟く。
「……違う」
思わず顔を上げる。
「わかるんですか」
「学院の観測塔で見る空と少し違う」
その言葉に少し驚く。どうやら天文学、あるいは天体観測へも多少関わりがあるらしい。
「記録ある?」
紙束を渡す。
街灯不調の記録と違い、こちらは完全に個人用だ。日付、観測時間、星の配置、気になった変化。几帳面と言われれば否定できない程度には細かい。
無言で捲り始める。
途中、視線が止まった。
「これ」
指差されたのは、帯状の靄について書いた記録だった。
「動いてる?」
「ように見えます。ただ、機材が粗いので断言はできません」
言いながら、自分でも少し気になっていたことを思い出す。見間違いかもしれないと思いながら、何度見ても微妙に位置が違う。雲でも星雲でもない。説明しづらい違和感だけが残る。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、ぽつりと言った。
「観測塔、来る?」
また唐突だった。この人間、本当に前置きが少ない。
「学院の設備なら、もっと見える」
悪い話ではない。
むしろ願ってもない話だった。今の望遠鏡では限界がある。もし精度の高い設備が使えるなら、あの帯が何なのか少しは近づけるかもしれない。
ただ、その前に口から出たのは別の言葉だった。
「もし、別の星系だったら」
自分でも、少し聞きたくなかった問いだった。夜空を見始めた頃から、頭のどこかでは理解している。星座が違う。動きも違う。文明も違う。魔法まである。
異世界。そう言えば済む。
だが、それを“別の星系”という現実的な言葉へ置き換えると、意味が変わる。
帰れない。少なくとも、自力では。
宇宙の距離は、願望で縮まらない。望遠鏡から顔を上げたあと、少しだけ間を置いて言った。
「遠いだけ」
短い言葉だった。
「無理、とは違う」
その返答は少し意外だった。
慰めではない。適当な励ましでもない。研究者らしい言い方だった。
不可能と証明されていない以上、可能性は残る。たとえ百年後でも、千年後でも。その考え方は、少しだけ救いになった。
窓の外では、街灯がところどころ暗くなった街並みが広がっている。不安定になり始めた魔法文明と、帰れるかわからない異星の空。そのどちらも現実だった。
ただ、不思議と少しだけ気持ちは軽かった。
一人で考えるより、誰かと仮説を話せる方が、人は案外前へ進めるらしい。




