夜空の記録帳
主任の「嫌なことがわかった」という言葉は、大抵ろくな方向へ転ばない。
研究棟の空気も、それを裏付けるように重かった。数日前までは「珍しい故障」として扱われていた話が、今では完全に“異常事態”へ近づいている。机の上には報告書が積み上がり、研究員たちは魔導具の分解や測定結果の照合作業に追われていた。静かなのに落ち着きがない。研究機関特有の、理論が現実へ追い抜かれ始めた時の空気だった。
主任は紙束を机へ広げながら、疲れた顔で言う。
「新しい魔導具ほど止まりやすい」
そこは既に気になっていた点だった。
暖房器具、街灯、保冷設備、工房設備。共通点が見えないようでいて、年代だけは妙に揃い始めている。新型ほど不安定で、古い物ほど比較的動いている。普通なら逆だ。技術は改善されるものだし、古い設備ほど壊れやすい。
なのに今回は違う。地球で例えるなら、最新機種ほど急に電池が持たなくなり、古い機械だけ平然と動いているようなものだった。
「理由は?」
問いかけると、主任が眉間を押さえる。
「わからん。術式は正常だ。供給量も理論上は足りてる」
理論上。その言葉が少し引っかかった。
研究というものは、“理論上”が危うくなった瞬間から面倒になる。前提条件のどこかが崩れているのに、皆それを認めたくない。積み上げてきたものほど、人は簡単に疑えない。
視線を落とすと、机の隅に置かれた測定資料が目に入った。
魔素濃度、供給量、出力低下。
見慣れない単語ばかりの中で、ひとつだけ気になった記述がある。
――地域差なし。
そこだけ妙に不自然だった。
街灯も設備も、止まり方には差がある。なのに魔素測定だけは均一。もし供給側の問題なら、何かしら偏りが出る方が自然ではないか。
考え込み始めたところで、ふいに横から紙を引き抜かれた。
「また変な顔してる」
紺色の外套だった。
相変わらず眠そうな目をしているが、こちらの資料を覗く時だけ妙に集中力がある。研究者特有の目だった。ぼんやりしているようで、興味のある話題だけ急に解像度が上がる。
「考えてました」
「見ればわかる」
勝手に椅子へ腰を下ろし、資料を捲り始める。
最初に会った頃より距離感が近い。気づけば古物屋へ顔を出し、学院でも見かけ、何となく会話する時間が増えていた。説明不足なところはあるし、急に話を進める癖もある。ただ、研究の話になるとこちらの発想を面白がってくれる数少ない相手でもあった。
「何か気になる?」
短い問いだった。
少し迷う。まだ仮説にもなっていない話だ。
「測り方です」
「魔素?」
「本当に一定なんですか」
そこで手が止まる。
数秒ほど沈黙が落ちた。
軽く否定されると思っていた。学院では半ば常識扱いされている理論だ。地球で言えば重力を疑うようなものかもしれない。
だが、返ってきたのは意外な反応だった。
「……面白い」
嫌な予感しかしない。研究者のその言葉ほど信用できないものはない。
「疑ったことない」
資料へ目を落としたまま、小さく続ける。
「だから、誰も測り方を疑わない」
少し驚く。予想以上に話が早かった。
研究機関では珍しいタイプなのかもしれない。普通は理論防衛から始まる。まず否定し、それから例外扱いし、最後にようやく再検証へ入る。
ただ、この人間は違う。面白そうなら前提を壊すことに躊躇がない。
「測定器、古い」
ぽつりと言う。
「新型ほど不調出てるなら、測定側も怪しい」
そこまで考えて、少しだけ背筋が冷えた。もし本当に測定器そのものが正常ではないなら、学院全体の前提が崩れる。
そして、その時だった。
研究棟の窓際から誰かが声を上げる。
「また街灯落ちた!」
部屋の空気が止まる。
窓の外を見ると、夕暮れの通りで青白い灯りが一本、また一本と消え始めていた。
生活の違和感が、少しずつ街全体へ広がっている。そんな感覚が、嫌でも現実味を帯び始めていた。




