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魔法の終わる空  作者: 国産狂人
街で生きる術

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空を測る癖

 露店の隅へ無造作に立てかけられていた望遠鏡は、正直に言えば随分と心許ない代物だった。


 鏡筒は木製で、接合部には微かな隙間がある。固定金具の精度も粗く、角度調整用のつまみなど、少し力を入れただけでずれてしまいそうだった。レンズも完璧とは程遠い。端には僅かな曇りがあり、研磨精度も低いのだろう、光の歪みまで見える。地球の感覚で言えば、初心者向けとしても薦めにくい品質だった。


 それでも、視線が離れなかった。


 異世界へ来てからというもの、空を見る時間だけは自然と増えていた。街並みも文化も知らないものばかりで、何を基準に現実感を得ればいいのかわからない。だからだろうか。変わらない法則を持つものへ意識が向く。


 星は嘘をつかない。


 少なくとも、人間よりは。


 位置があり、周期があり、観測できる。人間関係のように感情で動くこともなければ、商売のように駆け引きが必要になることもない。法則を知れば予測できるという安心感があった。


 地球でもそうだった。仕事が詰まり、研究が煮詰まり、人間関係に疲れるほど、帰宅後に空を見上げる時間が増えた。小さな望遠鏡を覗き込みながら、恒星の位置を確認し、惑星を追い、ただ静かな時間を過ごす。その時間だけは、妙に頭が整理された。


 たぶん、癖なのだ。


 忙しいほど空を見る。現実が重くなるほど、法則へ寄りかかる。


「欲しいのか」


 隣から落ちてきた声で、ようやく我に返る。


 いつの間にか店主が横へ立っており、露店の商品を胡散臭そうな顔で見ていた。


「趣味です」


「高そうな趣味だな」


 それには少し苦笑する。


 確かに地球でも安くはなかった。学生時代、初めて小型望遠鏡を買った時は、数ヶ月ほど無駄遣いを減らしてようやく手が届いた記憶がある。今となっては、その時の部屋も、夜更けに飲んだ安い缶コーヒーも、随分遠い。


 値段を聞く。


 思ったより高い。だが、手が届かないほどではない。


 試験販売で得た金がある。もちろん余裕などないし、生活基盤を考えれば優先順位は低い。理性は「後回しにしろ」と言っている。


 ただ、気になることがあった。


 この空だ。


 星座が違うことは、既に気づいている。月の形も微妙に違う。だが、肉眼だけでは限界がある。本当に違う星系なのか、それとも知らない地域なのか。どこかで、まだ僅かな期待が残っていた。


 地球かもしれない。


 説明できる何かかもしれない。そんな希望が、完全には消えていなかった。


「買うのか?」


 問われ、少し考える。ほんの数秒迷ったあと、小さく頷いた。


「必要経費ということで」


「趣味だろ」


「精神安定も仕事のうちです」


 半分は本気だった。


 研究というものは、精神状態が精度へ直結する。煮詰まった時ほど別の視点が必要になり、少し離れた時間が結果として効率を上げる。だからこれは浪費ではない――少なくとも、自分の中では。


 呆れたような顔をされたが、止められはしなかった。


 その夜、物置部屋へ戻ると、窓際へ椅子を運んだ。


 昼間の喧騒は既に消えている。遠くの酒場から漏れる笑い声が時折風へ混ざり、街灯代わりの青白い光が石畳をぼんやり照らしていた。地球の夜とは違う。電気の明るさがない分、闇が深く、空だけがやけに近く感じられる。


 望遠鏡を組み立てる。


 予想通り、精度は悪い。


 固定部は甘く、少し触れるだけで角度がずれる。焦点も合わせにくく、視界の端には歪みがある。それでも、見えないほどではなかった。


 ゆっくり夜空へ向ける。


 呼吸を整え、少しずつ焦点を合わせる。最初に覗いた瞬間、思わず息が止まった。


 違う。感覚的に、すぐわかった。


 星座が違うという程度ではない。配置そのものが違う。明るい恒星の位置も、星の密度も、空を横切る帯状構造も、記憶の中にある夜空と噛み合わない。


 天体観測を趣味にしていた人間なら、この違和感は誤魔化せない。


 地球ではない。少なくとも、自分が知る空ではない。


 しばらく言葉が出なかった。


 心のどこかでは、まだ期待していたのだと思う。遠い土地かもしれない、何か説明できる現象かもしれない、自分が知らないだけかもしれないと。


 だが、その可能性はまた少し遠のいた。


 星系が違う。そう考える方が、ずっと自然だった。


 胸の奥が少し重くなる。


 帰れない可能性が、またひとつ現実味を帯びる。それでも、不思議と絶望だけでは終わらなかった。


 知らない空だった。だからこそ、面白いとも思ってしまう。


 どの星が周期を持つのか。衛星はいくつあるのか。季節変動はどうなっているのか。気づけば、研究者としての興味が静かに顔を出している自分へ、少しだけ苦笑した。


 そんな時だった。


 空の端、ごく薄い場所へ妙な違和感を見つける。


 靄のような帯。雲ではない。星雲とも少し違う。


 何かが滲んでいるような、不自然な薄さだった。


 望遠鏡を何度も調整し、角度を変えながら見直す。粗末な機材では限界がある。焦点もうまく合わない。ただ、それでも何となく引っかかる。


 見覚えがあった。


 どこでだったか。


 研究資料か、大学時代の論文か。


 宇宙論。銀河形成。


 暗黒物質分布モデル。


 そんな言葉が、ぼんやり頭の奥を掠めていく。もちろん考えすぎだ。こんな低精度の望遠鏡で見える話ではない。それでも、何かが妙に気になった。


 理由は説明できない。ただ、長く研究をしていると、説明できない違和感ほど無視しない方がいいと学ぶ。


 そして、その夜はなぜか、いつもより長く空を見続けていた。

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