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間隔の公式  作者: 藤乃病


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8/9

8.

 目が覚めると、全身を不快さが覆っているのに気付く。汗を吸って肌に張り付くシャツの感触が非常に気持ち悪い。これは、たぶん、昨日風呂にも入らずに寝たからだろう。幸い、今はまだ四時。仕事へ行くにも少し時間がある。着替えを持って風呂場へ。

「……吐いたり、してないのは、運が良かったかな」

 昨日、明らかに精神的に危なかった。最近は落ち着いていたけれど、或いは色々な人と会って疲れていたのかもしれない。少し気を付けないといけないようだ。服を脱いで、熱いシャワーで全身を流す。表面を覆っていた不快さが和らいで、徐々に目が冴えて行くのを感じている。その一方で断続的に肌に当たり続ける水の粒の感触が自分の中にある思考力を奪っているような気もした。気分の悪い時はこうして考えるのを止めるのも良いのかもしれない。

 ……いや、昨日のような状態で変に水に近寄るのは危険か。

 全身がすっきりしたところでシャワーを浴びるのを止めて、さっさと服を着る。朝食の準備をしなければ。今日は仕事だ。

 食事、完了。いつもの菓子パンではあるが、ひとまずエネルギーが身体の中を駆け回るのを感じる。立ち上がり、伸びをして、これからの為に身体を目覚めさせていくのだ。

「……あ」

 ふと、思い出したようにスマホを見た。色々と、返信を滞らせてしまっている気がする。昨日、先輩からの連絡に対して何か返事をしただろうか? 財部君のはどうだっただろう。

「返信、してるか」

 まずいな、こんなことも分からなくなる程昨日は危なかったらしい。不安になって鏡を見る。顔やその他の場所に妙な跡が残ってたりしないだろうか。

「……隈は、あるけど、まあそれはいいか。首に痕は、残ってない」

 流石に首を絞めた痕がある状態でお客様の前に出るなどあり得ないだろう。ひとまず、僕は働く権利がまだあるようだ。

「……まだ、あるんだろうか?」

 過去を、思い出す。未だ消えない過去は胃の中から這い上がって喉元を通りいつでも出て来る準備が出来ているらしい。気が付けば、全身に脂汗をかいているのに気付く。さっき、シャワーを浴びたばかりなのに。

「あんな夢を、まだ見るんだ」

 考えないようにしていたが、本当はまだ覚えている。夢を見た、過去の、再現を。そしてそこから繋がって今がある、僕は何も変わらぬまま、何も変われぬまま今にいる。きっといずれまた同じ失敗を繰り返す。必ず、だ。

「どう、すれば、いいんだろうねぇ」

 スマホには、渚朝先輩から、財部君から、夕ちゃんから、送られたメッセージの一部が表示されている。このちっぽけな機械の向こうには彼らがいる。その彼らから僕は期待をかけられている。応えなければいけない、上手く、彼らを満足させなければいけないのだ。

「怖い、な」

 スマホをベッドに投げて視界から消した。少しだけ、気が楽になった気がした




 今日は先輩は休み。連絡を結果的に無視している事に対して何も言われずに済むのはありがたい。まあ、逃げているだけではあるけれど。

 しかし今は、店長の指示に従い仕事あるのみ、だ。商品を並べて、並べて、並べて。

「先輩、顔色悪くないっすか?」

 跡辺君にそんなことを言われてしまった。

「……あ~、昨日、あまり、寝れなくて」

「最近暑いですもんねぇ。夜中でも三十度とかあるらしいっすよ? クーラー付けてます?」

「……えっと、あ」

 そういえば付けてなかったかもしれない。やたらと精神的に落ち着かなかったり、悪夢を見たり、朝も随分汗をかいていたけれど、そのせいだったのだろうか? 肉体的な不調と精神的な不調には大きな関係があるとも聞くし、あり得る。

「先輩、最近は家の中でも熱中症で死んじゃうんですから」

「それは、お年寄りの話では?」

「いやいや、うちの姉ちゃんも一回ぶっ倒れたって言ってましたよ。その時は彼氏がいたみたいですぐ病院連れてってもらったらしいですけどね。まあ、親に彼氏と同居してたのがばれて色々言われたらしいっすけど」

「そうなんだ。それは、気を付けないとだね」

「頼みますよ、先輩いなかったらこっちの負担めっちゃ増えるんですから」

 跡辺君の言う通りだ。所詮はアルバイトとはいえ、当然、それなりにやるべき仕事というものがある。体調を崩してそれが出来なかったなんて言うのは、自らの責任に対してやるべきことをやっていなかっただけに過ぎない。

 うん、少し、気が緩んでいるかもしれない。もっとちゃんとしなければ。




 帰り道、ふらふらと歩き、家路につく。今日は家に帰って、寝よう。目の下に出来た隈は寝る事でしか解消できない、と思うから。

「昼食直後に寝るのは、まずいか?」

 食事を抜くのは健康的には悪いかもしれない。しかし食後すぐに寝るのもいかがなものかと思う。間を取った正しい道を考えなければならないだろう。ひとまず、どこかで軽い食事の後に少し外を歩いて軽い疲労の中で眠りに就く。

 これだ。

「あ、シッキーだ」

 思わず、その声がした方を見た。

「……足立さん?」

「やーやー。偶然だね~、お出掛け?」

「いや、仕事、帰りで」

「へぇ~?」

 彼女の目が怪しく光った、気がした。

「って事は、今は暇って事~?」

「……そう、とも、言う……?」

「お昼食べた?」

「まだ、だけど」

 そう言うと彼女は僕の腕を取って歩き出す。

「わっ」

「じゃあ一緒に食べ行こ~!」

「あ、足立さん?」

 しかしながら普段からろくに鍛えもしていないひ弱な僕では、よく食べよく動きよく笑う彼女の力に対抗する術は無い。そのまま力づくでリードを引かれる子犬のように僕は連れ去られて行くのだった。

 パスタとピザの専門店の中で僕らは向かい合って座る。当然周囲には大勢の他人こそいるが、二人きりで食事を取る事になった、らしい。

「シッキーは何頼む?」

「え? ああ、うん」

 メニューを差し出されて、僕はひとまずそちらに目を移す。色々と気になる事が、考えたいことがあるけれど、それは後回しだ。目に入って来るあまり馴染みのない食べ物の数々。実は、ピザを食べた記憶が、無い。

「……おすすめとか、ある?」

「ん~、前にこっちのエビのやつ食べたんだけど、めっちゃ美味しかったよ。ただこっちの新作は期間限定だから気になる所かな~」

「まあ、じゃあ、その新作のピザを」

「パスタは?」

「えっと、まあ、ミートソースで」

「お~、王道だ」

 他のはあまり分からないから、ひとまず王道で間違いの無いものを、だ。

「ドリンクバーどうする?」

「僕は水で十分かな」

「そう? 色々混ぜたりしたくない?」

「大丈夫」

 足立さんは手慣れた様子で注文を済ませると自然と席を立ってお水とおしぼりを持って戻って来た。

「……ごめん、自分で行くべきだったね」

「ん~? まあいいじゃん。無理矢理連れて来たしこれぐらいはね」

 無理矢理の自覚があったのか。たぶん、今日一番の驚きだ。

「一応、聞くけど、会ったのは偶然?」

「偶然偶然。私さ、在宅で時間も融通が利く仕事してるからね~、時々近くを散歩してるんだ。今日はこっちの方まで足を延ばしてさ、新しいお店でも開拓しようかな~って思ってて、そしたら偶然シッキーを見かけたってわけ」

「そうなんだ」

 偶然、なのは信じるとして。足立さん、ちゃんと働いていたのか。家庭教師に行った時とか、他の時でも、あまり働いている様子が無かったからてっきり専業主婦なのかと思っていた。

「あ~、今失礼なこと考えてる」

「そんなことは、無いけど」

「シッキー相変わらず嘘下手だねぇ」

 下手なのか、僕は。というか今のは嘘なのだろうか、線引きとしては難しいところだ。

 しかしまあ、前置きはこの辺りにしておこう。

「ところで」

「ん~?」

「わざわざ連れて来たけど、何か用だった?」

 そろそろ本題に入るべきだ。わざわざ僕を連れてこうして食事に来たのは、何かしら目的があっての事だろう。であればその目的を果たせるように協力すべきだ。少なくとも、僕が足立さんから受けている恩を思えば、そうするのが自然だろう。

 と、思ったのだけれど。

「いや、単に見かけたから折角だしと思っただけ」

 彼女はあっさりとそんなものは無いと、断言した。思わず、唖然として頬を噛む。

「え、っと、何も無いの?」

「無いよ。たまたま友達を見かけて、嬉しくなって一緒にご飯に行く。普通の事でしょ?」

 普通、なんだろうか。少なくとも彼女にとっては、或いはみんなにとってはそれが普通なのだろう。僕は、たぶん街中で足立さんを見かけても声を掛ける事すらしないだろう。彼女がこちらに気付いていないことを確認し次第その場を去るだろう。

「シッキーはさ、難しく考え過ぎだよ。もっとリラックスリラックス」

 そう言いながら自分の頬を摘んで伸び縮みさせる様は、どう表現するか悩むが、ちょっと間抜けだ。そもそもリラックスの表現として正しいのか?

「リラッ、クス、かぁ」

 或いは、そんな表現が正しいのか気にしない事こそが、その神髄なのかもしれない。僕にはどうにも、辿り着けそうもない。

 少し、凹む。

「……シッキーさ」

「ん?」

「今日はちょっと話題を提供してみてよ」

「……え?」

 どういう、提案だろうか?

「いっつも私ばっか話してさ、一方的でしょ? だからたまにはシッキーの話が聞きたいと思ってさ」

「僕の話?」

「うん。聞かせてよ」

 僕の、話かぁ。

「……え、あぁっと……、ぅん」

 何を言えば?

 過去に類を見ない苦境に陥る。或いは、過去に出会った苦境の数々も、元を正せば本質的に同じ原因なのかもしれない。僕には、語れるほどの僕が無い。誰もがこの問いに対して、きっと何かを語る術を持っているのだろう。それなのに僕は。

「家庭教師の仕事はどうかな」

 壊れた機械のように呻き声だけを発する僕を見かねてか、足立さんが話題を振る。その道筋を必死に辿り、僕はようやく口を開く。

「家庭教師は……、難しいね。少なくとも、前にも言ったけれど、夕ちゃんの学力は僕の助けを必要とはしていない」

「夕ちゃんの事どう思う?」

「良い子だとは思うよ。自分で努力できる力があるし、それだけで大抵の事は何とか出来るだけの素質がある。家庭教師なんて必要ないといつ言われるか心配かな」

「そんなこと言わないと思うけどね」

「なぜ? 少なくとも、客観的に見れば彼女はそう言ってもおかしくない、というか言うべきだとすら思うけど。僕は今の所、何一つ教えられた物が無いから」

「シッキーは自分の事悪く言い過ぎだって。高校の時だってシッキーがいなかったら私留年してたかもよ?」

「足立さんは、わざわざ僕に頼み込んで勉強をしたんだから、僕がいなかったら別の誰かに頼んで勉強してたと思うけど」

「でもそれは私がシッキーのおかげで助かった事とは関係ないよ」

「大いに関係ある、と、思うけどなぁ」

 僕が居なかったところで、彼女は別の誰かを見つけて成績を伸ばしていただろう。多くの事は大抵の場合、僕が居なくたって回ってしまう。今日、跡辺君が僕が休むと負担が増えるとは言っていたが、そもそも僕がこの仕事をしていなければ別の誰かが同じ立場に立っていただろう。僕程度の人間、代わりは幾らでもいる。

 この世に僕でなければ出来ないことなどありはしない。だからこそ、せめて、かけられた期待、果たすべき責任、全うすべき責任、をこなしたいと思うのだ。

 ―――思うのに。

「シッキー、それは大きな間違いだね」

 暗く、暗雲が心の中に立ち込め始めていた。それを突き破って彼女の声が頭を打つ。

「私はシッキーに助けられたんだから、それでいいんだよ。他の誰かがいたかもしれないなんて、別にいいじゃん」

 彼女の瞳は真剣そのものだ。僕を見つめるその瞳は、まるで、空に燦然と輝く星々、それを集めて固めたみたいだ。

「こうして目の前にいるのがシッキーで良かったって、私がそう思ってるからそれでいいんだよ」

 それは、つまらない詭弁だ。たまたま今、悪くない結果が得られたからそれでいいだなんて。理想的な結果と比べればすぐさまそれがあまりにもひどいものだってわかるじゃないか。

 そんなことは分かっているけれど。

「……そう、だね」

 呆れて、溜息をつく、フリ。そうして顔を覆っていないと見えてしまうと思ったから。目の端に溜まる熱い、涙が。

 ボウウウゥゥン。

 しかしどうもそんなことは考えていられないらしい。不意に鳴ったスマホの音が僕の中に生まれた熱い、熱い、何かを、一気に現実で冷ましてくれる。一度、足立さんの方を見る。

「見なくていいの?」

 どうやらスマホを見る許可は得られたらしい。そう思って鞄から取り出し、メッセージを。

「夕ちゃんから?」

 背筋が凍り付く。何せ、僕が見るよりも早く足立さんがその相手について言及したのだから。というか、僕は、何も言っていないはず。

「……なぜ?」

「なぜって言われても。夕ちゃん今日はテスト最終日だから昼までだし、寄り道せずに帰れば今頃家に着く頃でしょ?」

「いや、そうじゃなくて」

「……ん~?」

「何で、僕が、夕ちゃんと、連絡先を、交換している、と?」

 きょとん、とした表情で彼女は僕の方を見る。だって僕はこの事に関して足立さんに何か言ったことはない、夕ちゃんは自分から連絡先を交換したことは内緒にしてくれと言ったのだ、彼女が言う事もあり得ない。それなのに、なぜ知っているのか?

「……あ。もしかして隠してる感じだった?」

 正解は、そもそも、隠しているとすら思われていなかった、だ。

「……僕は、その、何かばれるような事を?」

「いやいや、シッキーは別に、たぶんそんな事無かったんじゃない? ただ夕ちゃんは隠し事苦手でさぁ」

 僕と連絡先を交換した直後から、スマホを持ってそわそわしている様子が確認されたり、僕の名前を叫んで怒っている姿が確認されていたらしい。聞く耳を立てずとも大声で叫んだらそれはばれるだろう。

「タイミングから考えてもシッキーの家庭教師が始まってすぐだからね~。この前、火曜日に来た時でしょ? 便利だし連絡先交換したんだろうなぁ、って」

「ああ、うん、まぁ。ね」

 ばれているのなら今更隠しても仕方が無いというか、どうしようもないというか。まさか隠してくれと言っていた本人がそこまで杜撰な管理をしているとは思わなかった。この事は本人に伝えるべきか否か。……ひとまず、その内、ある程度経ってからにしよう。

「……そうだ。折角だからシッキーの疑問に一つ答えておこうかな。ま~たすぐに自分なんていらないんじゃって言い出すかもしれないし」

 不意に、足立さんがそう言った。僕を指差して笑うその姿は皮肉を言って刺そうとしているのではなく、単に仲の良い友人とじゃれ合っているみたいだ。

「夕ちゃんはさ、結構色々と抱え込むタイプでしょ?」

「ああ、まあ、そうかもね」

 夕ちゃん、折角優等生を演じてたのに、色々とばれてるんだなぁ。しかも話を聞いてると足立さんが鋭いというよりは、どうも彼女自身があまり、その、言葉を選ばずに言うなら間抜けな所があるというか。

「それで色々と心配してたんだけどさぁ、まあ私には全然相談も何もしてくれないわけ」

 事実はともかく、足立さんにそんな事しようものなら気が付いた時にはどうしようもない程に遠くまで広がってしまいそうだという懸念は理解できる。彼女はとても顔が広く、多くの人と仲良くできるのだから、それはつまり、そう言う事だろう。

 そして、今、こんな話をしたという事は、つまり。

「僕には、夕ちゃんの相談相手になって欲しかった?」

「そういうこと」

 ああ、成程。つまりは家庭教師というのは方便に過ぎなかったわけだ。心配している夕ちゃんの傍に、誰か、相談しやすい大人を置く、それが真の目的だったと。

「……それならそれで、もっといい人がいたんじゃない?」

「いやぁ? 私はシッキーに頼んで良かったと思うよ」

「僕は、僕自身の事を、みんなの悪い見本だと思うけど」

「でも無事に夕ちゃんから悩みを相談されたんでしょ?」

「……否定はしないけど、解決は出来ないよ」

「いいよ、別に」

 良くは無いと思う。解決、した方がいいだろう。

「自分の問題を解決できるのは自分だけでしょ?」

「……そうかな?」

「そうだよ」

 彼女は力強く断言した。自分の問題を解決できるのは、自分だけ、か。それはとても、身につまされる、話だ。

「足立さんは」

「ん?」

「学生の頃に思っていたのと、少し印象が変わったよ」

「え~、もしかして悪くなった? 意地の悪い奴とか思われちゃった?」

「そうかも」

 学生の頃、僕が見ていた足立さんの姿はほんの一面に過ぎなかったのだろう。勝手に抱いた、勝手な肖像だ。

「ん~、ちょっとショックかも。シッキーに嫌われちゃったかぁ」

「いや、嫌いには、ならないけど」

 何だろう、ちょっと。彼女の存在に、深みが増したような感じだ。確かにそれは、僕が思っていたような姿とは違うのかもしれないけれど、それは純粋に僕が彼女の事を深くまで見ようとしていなかっただけだ。

「あの頃の思い出は、良い思い出だし忘れる事は無いけれど、今にしてみればどこか宙に浮いた感じに見えるかな。今見ている足立さんの方が、現実みたいだ」

「何それ? 相変わらずシッキーの言う事は難しいね」

「そうかもしれない」

 思わず、笑みが零れた。足立さんも笑っていた。




「じゃあまた明日ね~」

 食事の後、足立さんと別れ帰路に就く。この後、流石に僕が帰るのを阻む者は無いだろう。そして昼からの暇な時間をどう過ごすかは、決まっていた。本来なら、明日の家庭教師業に向けて多少の勉強でもしておこうかと思っていたけれど、先にやらないといけないことが出来た。

 部屋の中、一度スマホを机に置き、深呼吸。それから、目に付いたごみを片付け始める。これは単なる逃避行動だとは分かっていたが、どうにも踏ん切りがつかないというやつだ。とはいえ、覚悟は決まっている、はず、だ。

「久しぶりに、綺麗になったな」

 一時間、それだけの時間をかけて散らかっていた床や机を綺麗に片付けた。故に、僕はもう逃げる事が出来ない。思い返せば台所も色々と汚れが気になる場所があった気はするが、ともかく、もう逃げられないのだ。

「……よし」

 スマホの画面を点けて、電話帳を開く。非常に少ない連絡先、その中でも最も古くから存在するそれを見つけた。

「……買ってもらった時に、最初に入れてもらったんだったな」

 そこに書かれている、兄、の文字を震える指先で押した。




 社員である事を辞めて、一か月が経った。今思えば、それなりに長かったその生活の後半辺りは、あまりに精神的に危なかったのだと自覚する。それが自覚できる程度にはまともな感性を取り戻しつつあったとも言えるだろう。

 ただのアルバイトになり多くの責任を手放した僕は、成程、気楽な生活を始められたらしい。気を張り詰め過ぎていたのだろう、そしてその結果僕は、僕自身によって作られたあまりに過大な重圧に見事、押し潰された。立ち続けていられる自分であればよかったのだろうが、結果を見れば僕がどんな人間だったのかは明らかだ。

 さて、過去を振り返るのはこの辺りで終わりだ。今は、これからの話をしなければいけない。

「……どうしようか」

 通帳、そこにある数字に思わず顔が引き攣りそうになるのを感じていた。給料、その額面が大きく、大きく、減っている。

「労働時間は半分ぐらいだし、当然と言えば当然か」

 こんなことは当然、アルバイトになる前から分かっていた事なのだが、実際に数字として突き付けられると、恐ろしく、響く。これをいつまで続けられるのだろうか、何もかもが立ち行かなくなる前にどうにか現状を変えなければならない。

「……どうやって?」

 その問いに答える者は、いない。道はまだ続いている、しかし、どの程度の距離かは分からないが、いつか必ず行き止まりになって道を変えなければならない、それが分かっている。ただそれだけの事ではあるのだが。

「どうする……?」

 同じような言葉だけがただ口から漏れて行く。無論、最も単純な解決策はとうに思い付いている。社会人なら社会人らしく、再び社員として働けるよう店長に頼み込むなり、他の会社へ再就職を願い出るなり、非常に単純な解決策が。

 しかし僕はそれに、耐えられるのだろうか?

 今、以前より、つまりはあまりに酷い精神状態だった時に比べ、多少はましな状況にある。しかしそれは他の人たちのように強靭な、普通の会社員としての生活に耐えられることを意味はしていないだろう。おそらく、僕は、また同じことを繰り返すのではないだろうか?

 二律背反、どちらに転んでも、いずれはまともな状態ではいられない。だから、悩んでいる。答えは出そうもない。

 そんな悩みを抱えた、ある日の午後。スマホに一つの通知が入っている事に気付いた。

「電話だ」

 どうやら電話がかかって来ていたらしい。そこに書かれている表示、その相手は。

「……兄さんから?」

 僕の家は、実に平凡な家庭だ。父、母、僕、そして五つ上の兄がいる。一つ、平凡では無い所を挙げるなら、その兄が、あまりにも優秀だったことだろう。

 成績優秀スポーツ万能、使い古されあまりに陳腐な表現ではあるけれど、学生の頃の兄は正にその通りの人間だった。クラスの人間がやっかむのすら諦める程に、何でも出来る人間だったのだ。

「あなたもお兄ちゃんみたいに優秀な人になるのよ」

「そうだな、お前も同じ血を引いてるんだ。大丈夫だ」

 幼い頃、両親はよくそんなことを言っていた。そして幼い僕は、二人の言う事を信じて、自分が兄のようになれると疑っていなかった。

 現実が違うと知ったのは、中学ぐらいの頃だった。

「何この成績は? お兄ちゃんはオール5だったわよ? 遊んでたの?」

「式、お前もお兄ちゃんと同じ血を引いてるんだから、同じようにすれば出来るはずだ。それをお前は、こんな……、はぁ」

 僕は、遊んでいたつもりなど少しも無かった。真面目に授業を聞き、復習を欠かさず、毎日身体も動かしていた。しかし兄と同じようには出来なかった。僕はどうやら兄よりも頭が悪く、スポーツも苦手で、はっきり言って比べるのも烏滸がましいらしい。

 両親も時間と共にその事に気付いたらしい。

「……わかったわ。あなたはお兄ちゃんみたいになれないみたいだし、せめて勉強の方を頑張りましょう。勉強だけでも頑張って、いい大学を出て、いい会社に入るのよ」

「そうだな。お兄ちゃんみたいにスポーツが出来なくてもそうすれば安泰だ。期待してるぞ」

 それから僕は、学校の勉強を少しでも多く身に付けるべく努力を始めた。家にいる時間のほとんどを自習に費やし、少なくとも、ある程度の結果は得られた。それすら、兄に及ぶものでは無かったけれど。

「式、そこは違う。計算が間違っている」

 そんなことを言われたのがいつだったかは覚えていない。ただ、なぜか、兄に勉強を教わっていた、気がする。しかし有無を言わさぬ口調で断言するその声だけは、はっきりと覚えている。

 兄は、強い人間だった。大学は何の躊躇いもなく最高学府へ行きあっさりと卒業を果たし社会へと出て行く。家に帰ってくることは滅多に無かったが、両親への多額の仕送りとたまの連絡で彼が多忙な日々を送りながらも大きな成功を収めている事は理解できた。きっと今も、有無を言わさぬ態度で周囲を巻き込み、先頭に立ってその采配を振るっているのだろう。

 そしてそれが想像できるからこそ、両親の僕への期待も次第に大きくなって行くのを感じていた。

「あなたもお兄ちゃんみたいになりなさいね」

「式、お前もきっとお兄ちゃんみたいになれるぞ」

 そうだ、僕は、ずっと―――。

 兄のようになりたかったのだ。

 そしてそれに失敗し続け、今、僕のスマホには兄からの着信履歴が残っている。僅かな躊躇、しかし、息を呑み、電話をかけ直す。

 トゥルルルルルル。

 呼び出し音が響く。緊張で嫌な汗をかいているのを誤魔化すように、ただ、その音に耳を澄ませた。しかしその音はすぐに途切れ、

「久しぶりだな」

 兄の声が響いた。

「……電話、かかってたから」

「ああ、かけたからな」

 無言、これは、仕方ない部分もある。僕は、兄と一体何を話せばいいのか分からない。今更、何を言えというのだ。そもそも僕は着信があったから電話をかけ直しただけだ、用件があるのだから向こうから話し始めるのが筋だろう。そんな言い訳を心の中で綴る。

 お互いに、無言のまま、おそらく一分ほど過ぎただろう。根負けしたのか、兄の声が電話の向こうから響く。

「お前は、触れて欲しくない事かもしれないが」

 そんな前置きから、続く言葉は。

「仕事、辞めたと聞いた。もしも生活が辛いならいつでも言ってくれ。仕事を用意してやってもいいし、自分で探すのであればそれまでの間は生活費の面倒を見てやってもいい」

 一体どこからその話を聞いたのか。僕には全く想像もつかなかったが、しかし兄は優秀で、顔が広く、僕などには知りようもない伝手があるのだろう。その何かに引っ掛かり、兄は、僕の現状を知ったのだ。それを知り、家族であるという情からだろう、手を差し伸べようとしている。

 それが、僕には、辛く苦しい。

 何か言いたかった。僕は大丈夫だと、ただそれだけの一言でもいいし、幾らかの貯金がある事や現状の収入を伝えしばらくは問題ないと詳細を伝えても良い。或いは、実際に兄の世話になるのだって悪くはない選択肢だろう。少なくとも、僕が僕の力で事を運ぶよりも上手く行くに違いない。何せ、兄は僕と違って優秀なのだから。

 しかし声は出なかった。息が詰まり、声を出そうとしても、まるで喉の辺りで狭くなった気管に阻まれるように、外へは出て行かない。何も言えない。

 兄がそれをどう解釈したのかは分からない。しかし、やがて、

「―――俺はいつでも力になる。もしも何かあったらいつでも連絡してくれ」

 そう言った。沈黙を拒否と受け取ったのだろうか、それは、分からない。だが言葉にはまだ続きがあった。

「しかし久しぶりに一度ぐらいは顔を見たいものだ。良ければ一度お前の家に行ってもいいか? 手土産ぐらいは持って行く」

「いや、大丈夫、だよ」

 僕はその提案をほとんど反射的に拒否した。この惨めな姿を見られるなんて、僕は、おそらく、耐えがたい苦痛だったのだろう。

「―――そうか。なら、仕方ない。何かあれば連絡をくれ。またな」

 僕はその声に返事はしなかった。また、が、来なければ良い。そう思っていたからだ。

 兄に僕の苦しみは分からないだろう。あんなに優秀で、何でも出来て、皆の期待に応え、それ以上の事をし続けて来た。僕はいつだってそれと比較され、その後塵を拝し、ただただ落ちこぼれ、今や何をすることも出来なくなってしまった。

 あの人の施しは、僕にただただその差を、僕らの違いをはっきりと突き付けるだけになるだろう。そして僕は二度と立ち上がることも出来ず、残る人生を糸に釣られるままに惰性で生きて行く。

 彼の事は忘れよう。もはや思い出す事も無く、僕の人生の上に二度と現れる事はない。そうでなければ、僕は、きっと、潰されてしまうから。




 数少ない、兄との思い出を反芻しながら、電話をかける。呼び出し音が鳴る中で、僕は恐怖と後悔を覚えつつあったが、それでもその音を途切れさせることは無かった。力強くスマホを握り締め、その時を、待つ。

 二度、三度、コール音が響く。五、六、まだ鳴っている。時間は、平日午後三時。冷静に考えれば一般的な社会人は仕事をしている時間だ。つまり、兄は、この電話に出ないだろう。徐々に後悔が強くなる。この後、何時間もの間、兄からの電話がかかって来るのを待つのだろうか? そんなことに僕は耐えられるのか? その時間を想像するだけで、スマホを叩き割りこの繋がりを断ち切りたい欲望に駆られるが、それでも耐えた。

 十だ。十回目のコールが鳴り終わったら、諦めよう。その後の何時間続くかもわからない待機時間を、ただただ過ごそうでは無いか。それは恐らく、僕がこれまで色々な事から逃げ続けて来た罰なのだから。

 そして、最後のコール音が、鳴り終わ

「式、どうかしたか?」

 兄の声がスピーカーから鳴り響く。発信を切りかけていた指を、すんでの所で止めた。恐る恐る、スマホを顔に近付ける。

「ああ、えと……、急にごめん」

「気にするな。前にいつでもかけていいと言っただろう」

 それはそうなのだが、しかし最低限気を遣うべき部分はあっただろう。それはつまり、いつもの、僕の失敗だ。

「いや、うん。仕事が、忙しいんじゃないかと、思って。だからまた後でいい」

「仕事は後でいい。今はお前の話を聞く」

「……いや、でも」

「幸い、今の俺は久しく話していない弟との話より優先すべき仕事など何も無い。いいから話せ」

 相変わらず断固たる口調で異論を挟む余地などまるでない。あの兄がこう言うのであれば、実際にそうだと言うだけなのだろうけれど。

「分かった、よ。えっと、ただ、まあ、何を言えばいいのかまとまってなくて」

「そうか? まあ別に構わん」

「うん」

 時間、は、たっぷりあったのに、まるで頭の中はまとまっていない。だが、今考えているその何かを兄に伝えなければ、そう思っていたのは確かだ。

 つまり、それは、僕の為に。

「まず、結論から、言うよ」

「ああ」

「とりあえず、兄さんの助けは、しばらくは、要らなそうだ」

「そうか。それは良い事だ」

「うん。色々と、あってね。お金の問題は……、解決はしないけど、とりあえずしばらくは、大丈夫」

「その言い方だとあまり安心できないな」

 それはそうだ。しかしながら、僕としてもこれ以上の事は言いようがない。現状では、おそらく足立さんからもらう家庭教師代を当てにして、プラマイゼロなら良い方だろう。そしてそれが意味するのは、不測の事態が起これば貯金を切り崩していく他無いという事でもある。いつまで耐えられるかは、分からない。

 それでも。

「何て言えばいいか分からないけど、少しずつ、問題を解決していける、気がする、かな。少なくとも、解決できるように努力は、出来る気がする」

 ここ最近、色々な事があった。その中で僕は、何かを成し遂げたわけでは無いし、解決に向かう重要な何かを掴んだわけでも無い。僕が見たのは、単に、僕が今まで見ようともしてなかった色々な事、それだけだ。足立さんや夕ちゃん、財部君に遠野さん、渚朝先輩もそうだ。たぶん、今更に、この世界には僕以外の沢山の人がいるという事を知ったのだと思う。

 そして、僕以外の人を見た時に、初めて、自分の悩みが正しくも間違っている事に気付いたのかもしれない。

 いつだって、今に至っても、根本的に僕の中身は何も変わっていない。他者と比べて劣っている部分ばかりで、何を為す事も出来ないつまらない人間だ。多くの問題を抱えていて、それらを解決する手段を見出す事も出来ていない。それでも、足立さんの言葉で気付いたことがある。

 僕は決して無価値な人間では無いのだ。

 何事をも為せず、ただただ周囲に迷惑ばかりをかけて来たのだと思っていたけれど、それが全てでは無かった。やって来た事に対して、周囲の誰かにお前は無価値だと言われた事はあるが、そうではない意見もたくさん聞いたはずだ。勉強を教えて足立さんは感謝していた、渚朝先輩や店長も仕事をちゃんとやっていると言ってくれた、夕ちゃんもとりあえず家庭教師を続ける事を認めてくれているし、財部君も一緒に遊んでくれるのはありがたいみたいなことを言っていた気がする。

 要するにぼくはそれらの意見を無視し続けていただけで、周囲の話に聞く耳を持たなかっただけで、自分自身の要求に応えられない自分自身の事が嫌だっただけで、多くの人が僕を認めていてくれたのだ。

「……ちょっと、まあ、知り合い……、友達に、教えてもらって。自分の問題を解決できるのは、自分だけらしいんだ。だから、もうちょっと頑張ってみたい」

 少なくとも、もう少し自分の事を認められるようになりたい、と、思う。それは多くの人と関わる中で、少しずつ、手に入れられるような気がしていた。

「そうか。お前がそう言うならやってみると良い。俺は応援しよう」

「うん、ありがとう。……それで、さ」

 その後の言葉を口にするのは、少し勇気がいる。電話をかけておいて今更だとは思うけれど、それでもこの先はもう一歩踏み込むような感じで、唇は乾き、手先は落ち着きなく動き回る。

「それで、何だ?」

 兄に問われ覚悟を決める。

 この電話の目的、それは二つあった。一つは、兄に対して、或いは自分自身に、これからの自分の在り方を宣言する事。問題の多くを解決できるように前へと歩んでいくという意思表示。そしてもう一つは、つまり、その実践に当たるだろう。

「……あの、前に、様子を見に来たいって言ってたから、来るかなって……」

 なぜだか無性に恥ずかしくて、僕は顔を赤くしていた。ただ、その時珍しく、驚いていたのだろうか、兄の返事が遅かったのを覚えている。それと、その返事がどこか嬉しそうに聞こえたのも。僕はそれを聞いて、自分という人間を覆っている輪が広がる、そんな気配を感じていた。





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