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間隔の公式  作者: 藤乃病


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7.

 朝、目が覚めて、日が昇って行く中で、仕事へ向かう。今日の仕事は少し憂鬱だ。というのも昨日の、色々な失敗というか、後悔というか、そういうものと戦いながらやらなければならないからだ。

「……どうした? 顔色が悪いぞ」

 渚朝先輩にも会った瞬間からそんな風に言われてしまう。一応、どうにか誤魔化せないかと朝に軽くストレッチなどしてみたのだけれど、流石にそんなもので顔色が良くなる事は無かったらしい。

「いえ……、ちょっと、昨日、肉を食べ過ぎて」

 まだ三十歳手前にも関わらず既に脂の多い食事が受け付けなくなってきているのかもしれない。或いは、皿に積まれるからと無理に胃に詰め込み過ぎたか。後者のみが原因であって欲しいと思う。

「なんだなんだ、贅沢な悩みだな。焼肉でも行ったのか?」

「まあ、そうですね」

「えっ、本当に?」

「……ええ、まあ」

 僕はそんな驚かれるような事を言ってしまっただろうか。いや、焼肉に行くというのは割と一般的な外食の範疇であって然程驚かれる事では無いと思うけれど。

「一人焼肉とか行くタイプだったのか……?」

 ああ、一人で行ったと思われたのか。確かに僕はそういうタイプではない。どちらかと言えば、一人で外食するぐらいならば家で寝ていた方がまだいいかもしれない。

「一人ではなく、高校の、同級生に連れられて」

「何だって!?」

 更に大声で驚かれてしまった。おかしい、想像していた反応と全く違う。

「これはまた昼に詳しく話を聞かなければならないな」

「最近多くないですか?」

「それだけ色々あるからだ」

 そうだろうか? そうかもしれないか? 少し悩ましい所であったが、まずは仕事だ。それをやらずに給料をもらうなどあり得ない、今日も頑張ろう。




 幸いにも、滞りなく仕事は終わる。気掛かりな事があって集中を欠きそうだったが、結局は仕事を始めてしまえばそんなことを考える余裕も無くなってしまう。とにもかくにも、時間内に自分がやるべきことを、終わらせなければならないのだから。

 そういう訳で、一旦タイムカードを切って裏手の自販機の傍で渚朝先輩を待つ。幸いにも、待ち時間にやるべきことがあった。

「……分かっていたけれど、怒ってるなぁ」

 スマホには多数のメッセージが怒りマーク付きで送られて来ている。ポケットが震え僅かに通知音が聞こえていたので気付いてはいたが、仕事中に返信など出来るはずも無い。

『昨日愛さんと一緒にいたってどういうことですか!?』

『遠野さんと遊びに行くって聞いてたんですけど! おかしくないですか!?』

『私の話は適当に返事して愛さんと一緒に遊んでたって事ですか!?』

『何とか言え!!!』

 次に家庭教師に行った時は追い出されて階段から突き落とされはしないかと不安になって来る。足立さんがなんとか上手く釈明していてくれればありがたいのだけれど、正直あまり期待は出来そうもない。ひとまず何とか誤解を解いて、偶然出会って一緒に食事をしただけだという事を伝えたいものだ。

「……財部君の事は知ってるかな? 知っていたとして信じるかどうか……。僕の所に来ているメッセージを見せれば何とか?」

「何を悩んでいるんだ?」

「わっ!?」

 不意に声を掛けられて思わず驚く。

「なんだなんだ、こっちが驚くだろう。スマホを見つめているのは珍しいな」

「ああ、まあ、そうですね」

「何か悩み事なら聞いてやってもいいが?」

「え~、そうですね」

 先輩に助言いただけるならそれは非常にありがたい。少なくとも、僕などよりは余程この手の事を経験して来ているだろうし、上手い言葉の選び方も知っている事だろう。しかしながら夕ちゃんはあまり僕と連絡先を交換している事を知られたくは無さそうだったし、どうもこのメッセージの内容は色々と誤解を生みかねない気がする。

「……まあ、これは僕がやるべき事だと思いますので」

「そうか? まあそれならいいが。どうにもならないようならすぐに相談しろよ、絶対だからな」

 幸い先輩は特に深く追求することも無く話を流す。

「ひとまず飯だ。腹が減ったからな」

 どちらかと言えば単にお腹が減っていただけかもしれない。僕の方も幸い、仕事をして動いたことで多少は腹に溜まっていた肉も消化出来た気がする。昼はがっつり、行きたくはないけれどいつもの生姜焼き程度なら入るだろう。

「今日は少し別のものにしよう」

「え?」

 既に生姜焼きのつもりで考えていたけれど、果たして食べ切れる物になるかどうか。昨日に引き続き重たい食べ物ではありませんように。




 昼食は、蕎麦。僕は知らなかったが最近出来ていたらしい。

「中々評判らしくてな、いつ行こうかと悩んでいたんだが、昨日は焼肉だったんだろう? このぐらいさっぱりしたものの方が食べやすいだろう」

 どうやら僕に気を遣って重たい物は避けてくれたらしい。ここに来るまで不安で頬を噛んでいた僕はなんと愚かだったのだろうか。普通に失礼だった。

「蕎麦は好きか?」

「まあ、人並みに」

「ならよかった。アレルギーでもあったらどうしようかと悩んでいたところだ」

 先輩の気遣いが身に染みる。昨日のメンバーは、そういう気遣いはあまり無かったというか。結構、我が強い人ばかり集まったものだ。改めて考えると、あれだけ主張の強そうな面々でありながら共に食事をして楽しく過ごしていたというのは面白いものだ。

「それで、同級生と二人きり、ドキドキの焼肉会はどうだったんだ?」

「え?」

「しかし既婚者とデートと言うのは……、それも焼肉デートと言うのは、その、どうなんだ?」

 なんだか、ものすごく、誤解されている。

「いえ、その、全然違います」

「何? この前再会したという同級生と二人で焼肉デートだったと言ったじゃないか」

 言ってない。流石にそんな事言わないし、そもそも。

「同窓会があったって言ったじゃないですか」

「ん? ああ、そうだったな」

「その時に、連絡先を交換した……、知人? に連れられて、です」

「……なんだかはっきりしないな」

 財部君と僕の間にある関係性をどう評するのが正解なのか、わからない。友人と呼ぶにはあまりに浅く、当時の同級生というだけではこの前の事を無視しているようで少しおかしい気がする。だからと言って知人も変だ、とは思うが。

「その、同窓会の主催者の、財部君って人なんですけど、彼に呼び出されて」

「ん? 男か」

「ええ、そうですね」

「何だそうなのか。続けていいぞ」

「はい。えっとまあ、彼になんか、将棋をやろうと誘われまして」

「渋いな。得意なのか?」

「昨日初めてやりました。それで夕方ぐらいまでずっと将棋をやって、その後に夕食で焼肉を奢ってもらう事になりまして」

「男二人で焼肉か。さぞたくさん食べたんだろうな」

「あ、いえ、他に二人いました」

「……ミニ合コン?」

「まあ、男女二人なので、ある意味ではそう見えたかもしれませんが」

「え、ほんとに……?」

「まあ正直な所、目の前に積まれる肉を食べるので精一杯でしたけどね。あんなにお腹がはち切れそうなぐらい食べたのは初めてかもしれません」

「女性陣は……、どこからやって来たんだ?」

「え? ああ、将棋をやった後、時間が少し空いたので、服を買いに行きまして。そこで偶然会って」

「お前そんなに顔が広かったのか?」

「あ、いや。それこそ、その、さっき話に出た同窓会前に偶然再会した同級生とその友達で」

「えぇ……?」

「あの二人が、その、非常に、健啖家で、その上こっちの皿にも肉をどんどんと盛って来るので、僕らはどうしたものかと悩んだもので」

「そうか……」

 先輩が急に押し黙る。何事か考えているようなのでじっと見つめて待つ。今の会話、そんなに考え込むような事があっただろうか? 考えてみれば、渚朝先輩とはかなり長い付き合いになるというのに、僕は未だに彼女の事をまるで分かっていないらしい。たとえば今、先輩が何か悩みを抱えて黙り込んでいるのだとすれば、僕は何か力になりたいと思う。しかし僕にはどうしたらそれを解消する事が出来るのか何も分からない。

 例えば足立さんなら、財部君なら、遠野さんなら、僕とは違って何かしらの方法論があるのかもしれない。僕は、無力だ。

「よし!」

 僕が勝手に落ち込み沈んでいる横で、先輩が急浮上し僕の目を真っ直ぐ見た。

「今度、一緒に遊びに行くか」

「……え?」

 あまりに唐突で、会話としても繋がりが不明なその言葉に生まれたのは困惑ばかりだ。急にどうしたんだろう。

「話を聞いていて思ったんだが、私たちは結構長い付き合いになるというのに一緒に遊びに行ったりしたことは無かったと思ってな」

「まあ、確かに、そうですね」

「となれば思い立ったが吉日、善は急げ、だ。今度予定を合わせてどこか行こうじゃないか!」

 僕と先輩は、仕事の先輩と後輩、或いは上司と部下だ。そのような関係性の二人がどこかへ遊びに行くことは普通にあるものだろうか? 普通の姿が分からない僕には、ひどく、難題だ。

「あ~、嫌だったか?」

 しかし、残念そうに、後悔するように、そう呟いた先輩の姿に、

「どこに、行きます?」

 僕は思わずそう言っていた。普通だとか、関係性の形だとか、そういうものは分からないけれど、先輩のそんな顔を見ていたいわけでは無かったから。

「どこ、か。そうだなぁ。学生の頃ならカラオケやボウリングによく行っていたけれど、大人になるとどうなんだ?」

「僕、どっちも行った事無いですね」

「そうなのか? ならそれでいいか。お前が嫌ならやめておくが」

「いえ、ぜひ」

 そんな話の後、シフトを改めて確認すると今月は休みの被っている日が無い。

「ふむ、来月までお預けだな」

「盆は忙しくなりますし、その後ですかね」

「だな。ははは、一日しかない夏休みのつもりで楽しもうじゃないか」

 ははは、と僕らの笑い声が店内に木霊する。僕は内心、一日しかないことが既定事項のように語られる先輩の忙しさに涙していた。




 先輩と別れ、帰宅。本日は特にやる事も無いのだが、少し、気になる事があるというか。先輩に遊びに誘われた時に少し頭の片隅に思ったことがある。

「将棋、やっておこうかな」

 どうも財部君は僕の事をまた誘うつもりらしいし、そうであればせめてもう少し相手が出来るように腕を磨いておくべきだろう。本でも買おうかと思っていたのだけれど、財部君の話を聞くにネットを介して対局が出来るらしい。やはりこういうものは実戦が一番だ。勉強も、実際に問題を解いて初めて上達して行くものだろう

 ひとまずネットで軽く下調べ。

「……思ったより色々とあるな」

 ネットを介して他人と対局する場合とコンピュータを相手に対局するものがあるらしい。どちらがより良いのかは難しい所だが、将棋の名人でも現代ではコンピュータを相手には勝てないとの話を聞いた記憶がある。となればまだ人間の方が相手しやすいのではないだろうか?

 スマホを片手にネット上を、誰かと出会う事を目指し走り出す。

「……このサイトでいいんだろうか?」

 色々と勝手が分からないなりにサイトを巡り、ようやく見つけたその場所で、どうにかこうにか実際の対局に漕ぎつけるまでおおよそ一時間。どうにも、時間を無駄にした感が否めない。現在、スマホの画面には将棋の盤と駒が表示され、対局相手を待っている状態だ。

 待つ事、三分。

「あ、来た」

 特に会話を交わす事もなく始まったその一局は、なるほど残念な事に、あっさりと終わってしまう。

「……負けた」

 それはもう完敗で、ものの十分ほど、それも大部分は僕が悩んでいる時間で終わってしまった。お相手の方は終わると同時に消えて行って、残ったのは敗者が一人。

「……これは、何かを学べているんだろうか?」

 なんだか、無機質で、ただただ画面に対局の画像が映し出されていたかのように、勝ちも負けも何も無いように感じている自分がいる。或いは、これが財部君が言っていた、実際に人とやる方が面白いというあれなのだろうか?

 僕はそっと画面を閉じて、ベッドに倒れ込む。

「……これなら、人もコンピュータも変わらないかもしれない」

 どのみち勝てやしないのならそれでいいかと、ひとまず無料のアプリを入れた。そして、どうやらコンピュータはかなり強さに段階が設定されており、今の僕でも下の方であれば成程いい勝負になっていた。何度か繰り返す内に徐々にこちらが優勢になって行き。二時間もやっていると、まず負けない程度には上達している。

「こっちの方が待ち時間が無い分、まだましかも」

 ネット上で人を探すと、どうにも待ち時間が発生するのが良くない。どうせどちらも無機質で何だか面白味が感じられないのなら、こっちの方が練習に向いているだろう。

「……まあ、今日はもういいかな」

 なんだか、疲れて、いるのかもしれない。財部君とやっている時は、なんだか面白く感じられたのが、今はまるで作業みたいだ。この差が何なのか、単に僕の体調や精神的な問題なのだろうか、それとも他の要因が絡んでいるのだろうか。財部君が、目の前にいる誰かとやる方が面白いと言っていたのは、関係があるのだろうか。

 目を閉じて、頭の中に将棋の盤面を思い浮かべる。向かいには財部君が座って、僕の次の手を待っていた。どこか楽しそうな笑みと共に。

 ふと、起き上がり、冷たい空気を放っていた冷房の電源を切った。窓を開けると、外の生温い風が部屋の中を通る。目を閉じ、息を吸う。呼吸の音、蝉の声、自転車の車輪が回り、楽しそうな話し声、車のエンジン音、風鈴が揺れる。

 でぃーんでぃん、でぃーん!

 不意に響く電子音に思わず現実に意識を引き戻された。これは、スマホの、着信音だ。

「電話? 誰から?」

 一歩、一歩とベッドに投げ捨てていたスマホの元へ。その音が大きくなるにしたがってなぜだか心の内には嫌な予感が漂っているのを感じている。そして画面に映る名前を見て、

「あ……」

 背筋が冷えるのを感じた。少し、心の準備をして、電話に出る。

「何で返事してくれないの!」

 電話の主、夕ちゃんの第一声は正しく怒声だった。幸い、予想出来ていたので耳元からは遠く離す事で耳が痛くなることは回避したが。しかし僕はここから上手く彼女の機嫌を直して行かないといけないわけだ、概ね、自分が原因であることは理解しているので文句の一つも言えない。

「えっと、ごめん。その、忘れてて」

「忘れててぇ~? 最初からずっと返信遅いし、面倒に思ってるんじゃないの?」

「そんなことは無くて、その、あまりこういうメッセージでのやり取りをして来てなくて」

「現代人がそんなわけないじゃん! 愛さんも高校の時にはスマホが出てたって言ってたよ!」

 確かにそれは事実だ。たぶん、同世代の中でも僕が群を抜いてこの手の物に慣れていないのは間違いない。それをどうやって理解してもらえばいいかは分からないけれど。

「……本当に、返信するつもりが無いわけでは無くて。返事を考えている間に何か別の事が起こると、忘れてしまって」

「へぇ~? 昨日は愛さんと焼肉デートしてて忘れてましたってこと?」

 ……その勘違い、昼にも聞いたな。

「あれは、偶然で。この前の同窓会で連絡先を交換した同級生と服を買いに行ったら、そこにたまたま足立さん達がいて、一緒に焼肉を食べに行く流れになっただけで」

「そんなの嘘に決まってる! 証拠あるの!?」

「証拠……。例えばどんな?」

「え? ……ほら、その同級生とのメッセージとか?」

「ああ、それならあるよ。今度行った時に見せようか」

「スクショ送ってよ。時間空いたら捏造できるじゃん」

「……スクショ?」

「スクリーンショット! 画面そのまま保存するやつ」

「……何それ」

「はぁ~!?」

 喧々諤々小言と文句を浴びせられつつ、スマホの使い方をレクチャーしてもらい、何とか彼女に財部君に呼び出されたメッセージのスクショを送る。

「……確かに、愛さんに呼ばれたわけじゃないみたいだね」

「でしょ? 基本的には、昨日の件は偶然だよ」

「まあ、それは認めてあげる。でも他の話も全然返事してないでしょ! そっちの事は許して無いから!」

 確かにそれもそうだ。彼女からは昨日の件について問い詰められた件以外にも色々とメッセージが送られて来ていたのにろくに返事をせずになあなあに済ませてしまっている。控え目に見ても、まともな大人のやる事では無かった。

「えっと、まあ、じゃあ、その、ここでまとめて返信を」

「当たり前でしょ! ちゃんと聞いてよ!」

 そこから彼女が学校であったことを様々に話し始める。前に会ってからほんの二日しか経っていないというのに、大した溜め込みっぷりだ。

「テストは明日で終わりです」

「家庭教師としてはまともに勉強を教えてなくて、なんとも、申し訳ない気持ちになるね」

「まあ安心して下さい。私、頭良いんで」

「六田君との勝負は勝てそうかな? 色々言われたんでしょ?」

「今日は自信無さげにしてましたよ。選択問題間違えてるのを指摘してやりました」

 なんとも大人げない事を、まあ、彼女はまだ子供か。きっと嬉々として指摘していたんだろうなぁ。

「失礼な想像してません?」

「いやいや、まさか」

 単にこれば僕がそう思っただけで、失礼かどうかは分からないので。

「明日の準備は大丈夫?」

「大丈夫ですよ。残ってるのは得意な数学と理科だけなので」

 彼女の声は自信に満ちていて全く負ける気など無いのだろうという事が簡単に想像できてしまう。或いは、彼女の周りには彼女よりも凄い人などいなかったのかもしれない。

「秋葉さんは何か言ってた? 昨日は何か、色々言って来たっていってなかったっけ?」

「ああ、秋葉は、なんか応援して来るんですけど……。私はどうそれにどう応えたらいいんだと思います?」

「応援して来るんだ……」

 僕には秋葉さんが情緒不安定な危ない人にしか思えないのだけれど、流石に口に出すのは憚られる。そもそも夕ちゃんは結構人の心の機微には疎い、ような、気がする、ので、話半分に聞くのが正解なのかもしれない。

「……まあ、応援してくれるなら、素直に応援ありがとうと言えばいいんじゃないかな?」

「正直、何で応援して来るのか分からないせいで不気味なんですけど」

 それはそうか。

「それなら直接聞くのが一番早いだろうね」

「えぇ~、なんか、相川さんなら理由が分かったりしません?」

「そう言われても、僕は秋葉さんがどんな子なのか全く知らないから」

 もしかしたら足立さんみたいな人で、単に頑張っている人を応援したいのかもしれない。いや、これまでの経緯を考えれば流石にそんな理由では無いか。

「……まあ、とにかく、テストの方は順調ですよ。良かったですね、点が取れなくて家庭教師辞めてもらうなんて言われる事は無いと思いますよ」

「ああ、そう言われれば……」

 言われるまで気付かなかったけれど、廃業の危機だったのか。成果の出せない人間に居場所は無い、少なくとも、お金を貰うには値しないだろう。

「テストの返却後には、何か手土産でも用意した方が良いかな?」

「え、あ、いや、そこまでは別に……。悪いですし」

 おや、意外な反応だ。てっきり遠慮なく何か高いお菓子でも要求されるだろうかと思っていたのだけれど。

「まあ、その辺はテストの返却が終わってからにしようか。足立さんにもお礼はしたいし、何か考えておくよ」

「……あの、別に私何かくれなんて言ってませんからね! 変に気を回さなくていいですから!」

「別に言われたからってわけじゃないよ。ほら、子供が頑張った時にはご褒美があるべきだと聞いたこともあるから」

「子供扱いしないでよね!」

 怒られてしまった。いや、まあ、どうだろう。高校生は子供の範疇だと思うのだけれど、しかし高校生当人にとってはなんとなく大人への階段を上り始めている気分かもしれない。寧ろ、そういう自覚があるのは素晴らしい事のようにも思える。

 僕など、就職に失敗するぐらいまではなんとなくで庇護された子供で居続けていたぐらいだ。こうしてみると、夕ちゃんと自分との間にある差を、ありありと見せつけられているようにも感じる。自分が如何に愚かで、怠惰で、醜い人間なのか。

「―――で~……。あの、さっきから、返事が無いんですけど、聞いてます?」

「……あ。いや、えっと、ごめん。何か言ってた?」

「……相川さんって、なんかすぐに話聞かなくなりますよね」

「……その件に関しては本当に申し訳ないと思っております。申し開きのしようもなく、ただただ、私の不徳の致すところであり」

「何その口調」

「いや、その、謝意を示す時は、可能な限り厳格な言葉遣いをすべきかと」

「……相川さんってさ」

「はい」

「変な人だよね」

 最近、会う人会う人にそんなことを言われている気がする。財部君にも言われたし、遠野さんにも言われた気がするし、先輩や足立さんは、どうだったかな? 覚えてないけど、言われたような言われて無いような……。

 確かに、僕は、変なのだろう。それは可能な限り早急に直すべき事柄に違いないのだけれど、僕は未だにその直し方がわからない。普通を知って、普通になれるよう、力を尽くすべきだとは分かっているのに、そんな事すら僕には出来ないのだ。

 今、高校生の夕ちゃんにすらそんな言葉を突き付けられてしまった。

「でも、愛さんが信用してるのは、なんとなくわかる気がする」

 突き付けられてしまった、のだろうか? 

 無言、静寂、電話の向こうからの声は聞こえなくなって、今は外から聞こえる音の方が大きいぐらいだ。僕はそう言えば窓を開けっ放しだったと、立ち上がり、閉める。その音を合図にするように、

「何か言ってよ、恥ずかしいじゃん……」

 電話の向こうから消え入りそうな声が聞こえた。もしかしたら、彼女は今、僕を褒めてくれたのかもしれない。悪態ばかりついている彼女が、だ。思わず笑みが零れ、胸が熱くなるのを感じていた。

「うん、ありがとう」

「……あぁ~、もう! そういうんじゃないから!」

 違ったらしい。むぅ、やはり人との関わり、コミュニケーションは難しい。

「ねえ、さっきから私ばっか喋ってない?」

「そう、かな?」

「そうだって! そっちもなんか話してよ! 昨日の事とかさ! 愛さんと焼肉デートの件とか、ちゃんと説明してもらうから!」

 それに関してはさっき説明したような気もするけれど、まあ、その話をご所望だというのならそうしよう。

「じゃあ、まず、どこから話せばいいのか、悩むけど」

「いいから、ちゃんと話してよね」

 そこから僕は、長い時間、昨日の事を話し続けた。夕ちゃんが夕食の時間だと呼ばれるまでの間、ずっと。こんなにも自分の事を話したのは、初めての経験のようにも思えて、夕ちゃんが細かな所にまで突っ込んで来るのが面白くて、なんだか、不思議な体験だった。

 ほんの少しだけ、自分がまともな人間になっているような、そんな気がしてしまうぐらいに。




 夜、部屋の中に一人。電気も点けず、ここにあるのは孤独と静寂。窓を閉め、分厚いカーテンをかければ外の音も聞こえては来ない、ここには僕一人だ。

 少し、考え事をしたかった。色々と考えたいことがあった。ここ最近の事を、僕の中で、僕なりに。

「……なんだか、濃い日々だった気がする」

 七月、今は十日だ。そのたった十日ほどで、僕の人生にとってはかなり大きな出来事が次々と起こっていた気がする。たとえ、ほとんどの人にとっては些細な事だったとしても、僕にとっては一大事だ。

 きっかけは、やはり、足立さんだろう。

「彼女との再会は、僕にとって、天恵か何かだったのかもしれないね」

 自嘲するようにそう言った。それは要するに、自分の力では何も変えられはしないという事なのだから。僕は僕自身の力で何かを変える事など出来ず、ただ、偶然の恵みによってその資格を得たに過ぎない。幸運と、足立さんの存在に感謝すべきだろう。

「夕ちゃんの事も思考から外してはいけないか」

 彼女の存在をどう定義するべきかは難しい。彼女はあくまで足立さんの、義理の、娘でしかなくて、本来ならば僕にとっては同級生の子供、血の繋がってない子供という、なんとも難しい立場でしかなかったはずだけれど。なぜか今、僕は彼女の家庭教師という立場にある。それは足立さんの厚意の賜物ではあるけれど、これは僕にとって良いことなのか、或いは夕ちゃん本人にとって何か良い方向へ向かう切っ掛けになっているのか。

「判断が難しいな」

 夕ちゃんが何を考えているのかは難しい問題だ。彼女は、結果的に、僕に悩みを、学校生活における彼女が抱く悩みを吐露してくれた。おそらくそれは、彼女が過ごして来た境遇故、だろう。彼女は実の母親を幼い頃に亡くし、父と娘の二人暮らしを長く続けていた。そして、その中で、自分自身を強く見せる必要があった。尊敬し敬愛する父の為に、自らがまるで手のかからない良い子であると見せる、或いは、偽らねばならなかった。

 そんな彼女は、それ故に自らの悩みを父親に相談など出来ず、新しく出来た母親にも、やはりそんなこと出来はしない。足立さんが秘密を守れそうかどうかという点も疑問だけれど、それ以上に、やはり、父親に近しい人物に悩みを相談するというのは秘密保持の観点からすればあまり望ましくないだろう。

 要するに、僕は、単に都合が良かったのだろう。解決するかどうかはともかく、父親に対してその悩みの相談が露見する可能性が低く、ひとまず心の内に濁りとどったそれらを吐き出すのに。

「……僕は、役に立てている?」

 もしそうであれば僕は彼女の役には立てている、という見方も出来るだろう。家庭教師として勉学の助けにはなれないが、それでも彼女の精神の安定に一役買っているのだとすれば、それは、一応、責任を果たしていると言って良いのかもしれない。

「流石に甘い判断じゃないか?」

 家庭教師を辞めるとなれば僕は貰えるはずだった定期的な収入を失う事になる。それは、正直、辛い所だ。しばらくは彼女の勉学、というよりは、彼女の悩みをどうにか解決へ導くことを考えた方が良いのかもしれない。

 そんなことを思いながら、不意に家庭教師をすると決まった後に足立さんが言っていた言葉を思い出す。

「信用している、か」

 足立さんはどんなつもりでその言葉を言い放ったのだろうか。僕の事を信用している、それは彼女が僕に勉強を教えてもらった経験からだと思っていたけれど、そもそも彼女は夕ちゃんの成績がどれ程良いのかぐらいは当然知っているはずだ。誰かが勉強を教える必要などないと知っていたはずなのだ。

 足立さんは確かに勉強は苦手だったが、しかし決して頭がおかしいわけではない。必要のない家庭教師を雇う事など無いだろうし、同情から雇ったのかという問いに対しては首を横に振った。だとすれば彼女は僕の何を信用し、僕に何を期待してこんなことを頼んだのだろうか?

「……それが、分かるのなら、きっと僕はこんなことになっていないか」

 暗い部屋の中に一人、隣には誰もいない。ここが孤独と静寂に包まれているのは、僕の所為だ。人と交わろうとせず、ただ流れに身を任せて、そのまま行き着く果てに辿り着いてしまった末路。

「……僕は、僕にかけられた、期待に、応えられない」

 両親が望んだように、大会社に入る事は適わず、拾ってもらったスーパーでは仕事の責任を全うすることも出来ず、今は足立さんの信用を裏切ろうとしている。

 そんな人間の隣に、一体誰が居たいと望むのだろう?

 もし僕に勇気があれば、縄を手にしていただろう。そしてどこか遠くへ、誰もいない場所へと向かい、太い木の枝に結び付けるのだ。何も為せない人間が、どうして、生きている必要がある?

 ふと、手が震えているのに気が付く。思わずそれを見て息を吐くと、どろりとした、嫌な汗が首元を伝っている。汗を拭わなければ、手が、首元に迫る。

 ほんの少しだけ、思う。このまま手に力を入れたなら、僕は。

「……ぁ」

 締め付け、血流が止まり、冷たいものが背筋を過る。酸素が遠退いている、空気を吸えと脳が叫ぶ。もしもこの声を意志の力で跳ね除けたなら。暗い、黒い、世界が見えていた。この先には何も無いのかもしれない、ただの終わりが待っている。それは今よりも楽なのだろうかと、そんな空想が僕の頭の中に浮かんだ。

 ボウウウゥゥン。

「わっ!?」

 音に、驚き、手が首元から離れた。血流が一気に全身を駆け巡るのを感じる、それはまるで、生の始まりだ。目が開かれ、明かりも無いのに、鮮明に世界を映し出す。

「……目を、閉じていたから、暗闇に目が慣れた?」

 自分でも何を言っているのか、或いは何を言いたいのかは分からなかった。ただそう呟いて音が鳴った方、スマホの方へと向かう。そこに来ていたのは、通知。手に取り中身を見ようと、

 ボウウウゥゥン。

「ひっ」

 思わずスマホを手放す。ガン、と床に落ちて大きな音を立てた。通知音、鳴らすようにしたのはいいけど、慣れないな。

「……あ~、えっと。画面、大丈夫かな?」

 誰に言っているのかもわからない事を口にしながらスマホを手に取る。そして改めて通知を確認する。

「先輩、と、財部君だ」

 仕事で何かあったのだろうかと、ひとまず渚朝先輩のメッセージから確認する。時間外にわざわざ連絡するような事は大抵ろくな事が無いと、少々気を重くしながら開いたのだが。

『今度遊びに行く話だが、どこか行きたいところがあれば考えておくこと。別にボウリングやカラオケに限る必要も無いからな。私ばっかりに意見を出させるなよ?』

 珍しく、単なる私信だった。そしてこのメッセージを見るまで僕はそんな約束をした事をすっかり忘れていた、気がする。約束は守るものだ、一体、さっきまでの僕は何をしていたのだろう?

「行きたい所か、どこかあったかな?」

 ぼんやりと観光地を思い浮かべる、京都、北海道、東京、大阪、福岡、沖縄。時期的にはお盆が明けてからだろう、そうなるとどこがいいだろうか? 夏も終わりそうな時期だけれど、何かイベントの類はやっていただろうか? いや、そもそも休みを合わせて、という話だ。日帰りが前提だとすれば他県へ行くのは難しいかもしれない。

「……とりあえず、保留かな」

 この逃げ癖はよくないものだと分かっているけれど、しかし何も思い浮かばないのだから仕方ない。先に思い浮かべた観光地にしたって、実際の所詳しいわけでも無い。都道府県名より先が何も思い浮かばないのだから。

「財部君の方は何だろうか」

 訳も分からぬ観光地は諦めてもう一人の要件を確認する。とは言っても、財部君の方は見る前から想像がつく。どうせ、将棋の話だろう。いつにするかという話の詳細だ。

『身体を動かすのは好きか? 今度の土日どちらかでバスケをやるんだが人数がいる。時間が空いてるならお前も来い』

 違った。今度はバスケットボールだ。なぜ?

「財部君は、何を考えているのかよくわからないな」

 彼は僕をどうしたいのか。或いは僕で何をしたいのか。全く理解できないけれど、しかしながら、彼のような奔放さ或いは傲慢さがあれば人生を気楽に生きていられるのかもしれない。そんなことを本人に言えば怒られるかもしれないけれど。

「バスケ、行くべきだろうか?」

 流石にバスケットボールをしたことぐらいはある。学校には体育の授業があるのだ、その中で、何度か。ルールもうろ覚えで、確か三歩以上動いたらいけない、んだったかな? しかし球技というのは、あまり得意だった覚えがない。ボールが飛んで来ると反射的に避けてしまっていたような。

「……財部君の期待にはあまり応えられそうもないかな」

 そう思うなら初めからこの勧誘を断るべきなのだろう。だとすればどのような文面が良いだろうか。やはり自分では力不足であり期待に応える事が出来そうもないとはっきり告げるのが良いだろう。こう言う事は変に言葉を濁すよりは事実をありのままに伝える事こそが丁寧と言える、と、思う。

「よし、こんなものか」

 ひとまず文面を作り、細かい部分を精査。誤解を与えかねない表現や、想定と違う印象を抱きかねない言葉を排除し、そして、送信。

 一息、つく。

「なんというか、疲れるな」

 スマホのメッセージ機能は非常に便利だ。僕と渚朝先輩や財部君がどのぐらいの距離を離れているのかは分からない。しかし、これを使えば、その距離など関係なくいつだって文面を届ける事が出来る。そして電話と違って今すぐ見る事が適わずとも、その内には気付いて、その内容に返事をすることが出来るだろう。ある意味では距離も時間も超えて、人と繋がっている、の、かもしれない。

 しかしそれは、僕には何だか、とても疲れるものだ。

「鍛え方が、足りない、とかなのかな」

 つまるところ体力が無いのだと思う。人と接する為に使う体力が、コミュニケーションの体力が。人から放たれた言葉を解釈し飲み込み理解する為に必要な、自分の言葉を周囲の人が誤解なく理解できるよう噛み砕く為に必要な。きっとこれも本当なら学生の頃から長い時間をかけて身に付けていなければならなかったものだ。

 僕は、足りないものばかりだ。

「……やめよう」

 ベッドに、寝転がる。これ以上は考えるのを止めた方が良い。たぶん、良い事にはならない。

「……今日は、何だか、何もかも、駄目な日だ」

 このままいるとまた自分の首を絞めるかもしれない。こんな悪癖は失くしてしまいたいのに、ままならない。今は、眠ろう。泥に沈むように、息も出来なくなる程に深く、良い事も悪い事も全て忘れ去ってしまえばいい。




 新人が辞めた。僕が指導を任された新人が辞めた。指摘が細かくて面倒だからと辞めて行った。店長も先輩も僕に対して特別に文句を言う事は無かった。でも僕が果たすべき責任を、求められた役割を、為すべき義務を、果たす事が出来ていたならば、こんなことにはならなかったはずだ。

 夜が朝になって朝が夜になる、太陽の動きは縦横無尽で、陽光の元にいると思った次の瞬間には月明かりすら届かぬ暗闇の中にいた。一日が一か月の事もあれば、一か月がたった一日の内に襲って来る時もある。今日は昨日で、明日は来月、きっと一年後は十年先の事なのだ。

「……大丈夫か?」

「大丈夫? 何がですか?」

 先輩がなぜだか心配そうに僕を覗き込む。しかし僕の胸の内は熱い思いが燃えている。仕事を、こなすのだ、少しでも多くの、目の前に積み上げられた仕事を済ませる事が、そうすることでしか、僕は役に立てないから。

 だからそれをやるんだ。

「お前の最近の働き方は、なんだか、無理をしているように見えるが……」

「無理なんてしてませんよ。僕は、今、凄く、体が軽いんですから」

「……お前がそう言うならいいが。しかし……、いや。もしも何かあればすぐに言えよ?」

「はい、ありがとうございます!」

 先輩にこんな風に心配を掛けてしまうなんて、きっと僕の働きぶりがまだまだで、あまりに頼りなく情けないものだったに違いない。もっと、ちゃんと、完璧に、誰も文句が付けられないように頑張らなければ。

 その日の内に日を跨いで、店長が声を掛けて来た。

「相川、広告に出してた菓子だが、見たか?」

「え? あ、それなら……」

 発注を任されて、数字を打ち込んだ、気がする。いや、どうだろう。あれは先月の話だったか?

「確認して来ます!」

 頼んでいなかった。別の日のそれと混同して、今日無ければならない商品が来ていない。

「何? ……そうか、まあいい。なら丁度在庫になってるのがあるからそっちを代替えで出しとくか」

 僕はまた仕事を全う出来なかった。視界が、狭まって行く、まるで暗い闇が僕を飲み込もうとしているように。呼吸は荒くて、吐き気が、する。ああ、でも、この胃液の味は、最近よく飲んでいる気がする。

「相川」

「……はい」

「少し話がある。仕事が終わったら事務所に寄れ」

 息が、詰まった。そう言って向こうへ去って行く店長に追い縋り何かを言おうとしていたのに、僕は、声が出なかった。手も、足も動かなくて、その場に立ち尽くし、ただ乱れた鼓動の音だけが僕の中に木霊している。

 何とか、仕事を終えて、事務所へ向かう足取りは重かった。話の内容は、察しがつく。僕は、誰の求める期待にも応える事が出来なかった。となれば行き着く先は一つだ。クビを切られる、それだけだろう。

 これから僕はどうするのだろう? これから僕はどうなるのだろう? ただ分かるのは、僕は、この先

に、いや、この先も、まともな人生など歩めないのだろう。

「お前は一週間有給だ」

 店長は僕が事務所へ入ると開口一番そう言った。つまり、これは、こんなにも間抜けで無能で何も出来ない僕に対して最後の温情で一週間の有休をプレゼントし、その後にクビを切るという事なのだろう。

 しかし、

「……店長、これまでに散々迷惑を掛けて来ました。最後になってまでそんな温情を受け取る事は出来ません。どうぞ、クビを切ると仰ってください」

 せめて去り際だけでも、人らしくありたい。最後の最後まで迷惑のかけ通しなど、恥ずかしい姿を晒すような真似はしたくない。

「あ? お前は何を言ってるんだ?」

 しかし店長は心の底から理解できないと言うような表情で僕を見た。

「お前は、そこそこ仕事は出来る。だが今はダメだ。馬鹿になってるからな。一旦休んで、それでもダメならその時またどうするかは考える。それが嫌なら自分で辞表を書いて来い」

「……しかし」

「しかしも何もねえよ。とにかく明日からお前は一週間休みだ。間違っても店に来るんじゃねえぞ」

 それから何を言っても取り付く島もなく無視されるばかり。どうしようもなくて、僕は、家に帰った。

「明日、どうすればいいんだろう……?」

 少し、悩んだ。悩んで、悩んで、頭の中も天井も視界全てがぐるぐると回り、気が付いた時には朝が来ていた。あっという間に過ぎた時間に驚きつつも、気が付けば仕事へ向かう準備を始めていた。それはそうだ、有給だなんて取っていられない。働かなければ、やるべきことをやらなければ。

 従業員用の通用口へ向かえばそこには既に明かりが点いている。急ぎ僕も共に働かなければ。

「相川? 何でここに?」

「渚朝先輩。当然、働きに来ました」

「おぉ……」

 唖然とした表情を見せる先輩。何か、まずかっただろうか?

「あ、遅かったですか? すみません、時間が」

「いや、いや、違う。お前は休みだろ。店長から聞いた、有給だろ?」

「しかしあれは」

「相川」

 その時の渚朝先輩はいつになく真剣で、有無を言わさぬ迫力があった。

「お前は、休まないと駄目だ」

「でも」

「私は……、後悔してるんだ」

 後悔? 何を?

「私は結局、お前が、そんな風に思い詰めているのに、力になってやれなかった。もっと早く、何か出来たはずなのに、誰の目に見ても明らかにおかしいと思えることが起こるまで、何もしてやれなかった」

「先輩……、何を?」

「相川。頼むから、私の顔を立てると思って、この一週間はゆっくり休んでくれ。仕事の事も何もかも忘れて、趣味でも何でもしてさ。頼む」

 僕は、その先輩の、真剣で、切実で、純粋な思いを前に。

「わかり……、ました」

 ただ頷く。それだけしか出来なかった。

 家へと向かう途中、なぜあれほど先輩が真剣な表情で僕に休むように言って来たのかを考えていた。ほとんど無意識で歩みを進めて、自分がどこにいるのかも分かっていなかった気がする。ただ分かるのは、僕は、あの先輩の姿に、圧倒されてたじろぎ、どうしていいか分からなかったという事だけだ。

 扉を開き、靴を脱いで、部屋へ入り、床に座り込む。そして僕は。

「何をすればいいんだろう?」

 何も出来なかった。店長が、休めと言った。先輩も、休めと言った。僕はまだ働けるのに、やはり僕は期待に応えられず、責任を果たせず、義務を全うすることが出来ないどうにもならない人間なのだろうか?

 両親の、僕が就職に失敗したと知った時の、二人の視線がふと頭を過った。失望、ただそれだけが瞳の中に浮かんだその表情を。

「僕は、そういう人間だ」

 店長が、先輩が、そういう表情をして、僕を突き放した、のならば話は簡単だったのに。

「何だろう、何でこうなってるんだろう?」

 ふらふらと立ち上がる。冷蔵庫に向かった。中には、幾らかの食料品と、酒があった。酒は好きだ、時間を潰すのに丁度いいから。長くて、何も無い、ただそれだけの時間が、酒でふわふわと浮いたようになる頭の中では、とても短く感じられるのだ。

 プルトップを立てると音を立てて蓋が開く。僕は、一気に、中身を胃の中に流し込む。一本、二本、三本。次々と、次々と、際限なく。

「あはは、はははは」

 笑った、自然と笑い声が漏れたから。それなのに、雫が頬を伝うのを感じている。たぶん、零れた酒だろう。

 滑稽だ、あまりにも、僕は。このまま水底に沈んで溶けて消えてしまえばいいのに、きっとそんな風には出来ないのだろう。吐き気、慣れ親しんだそれが訪れて、慣れ親しんだはずなのに今日はそれを抑えきれなくて。気が付いた時には吐瀉物に塗れた床の上で呆然と、何をするでもなく、ただその場に座っていた。

「もしもここで終われたら……」

 無意識だったのか、それとも意識していたのか、喉元に手を持って行って、ゆっくりと力を込める。直後、まるで天地が逆さになった様な気がして、気分悪く、吐いた。それは結果的に僕の命を助けたけれど、今、どうして生きているのかも分からない。

「……休みだから、それが終われば、仕事に行かないと」

 ぎりぎりの、本当にぎりぎりのところで、そう思った。まだ生きてないといけないから、やるべきことがあるから、かけられた期待、全うすべき責任、果たすべき義務、が、あるから。

 数日かけて部屋を掃除した。何とか生命を繋ぎ、どうにか生きて勤め先へ向かい、そこで僕は、店長に宣告される。

「……お前は、仕事を辞めた方が良いのかもな。だがまあ、金はいるだろうし、すぐには働き口もみつからんだろうさ。体調は少しはまともになったか? それなら昼まででいい、うちでバイトしろ。時給は、他の連中よりは弾んでやる」

 その時の店長の言葉はただただ僕を思いやっての事だったのだと、いや多少は向こうの事情もあったのかもしれないが、しかし優しさありきの言葉だったのだと理解することになったのは随分後だ。

 いずれにせよ、僕は正社員としての働き方を辞めて、単なるアルバイトへとなり下がった。




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